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2022年

パラレルラヴァーズ

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「なんだ、これ……」
 春先。桜が舞う季節。
 メッセージアプリのトーク画面。その一番上の名前。
『繝√ヲ繝ュ』
 思いっきり文字化けした、謎の文字列。
 どうしよう。めちゃクソ怪しい。
 しかし。
『たすけて』
 名前の下に表示される本文、そこに表示された四文字の文字列。
 僕は逡巡ののち、ため息を吐いてトーク画面を開いた。

『どうしたんですか』

 打ち込んだ文字列。既読がつくまで、結構な時間がかかる。
 こんな意味深なヘルプ送っといて、いざ返したら読まずに無視されるなんて、ますます怪しい。
 頭を悩ませたその時、ようやく既読が付いて。
『ありがとう』
 という返信。
 ほっと、心が温かくなった。
『答えになってないですよ』
『ごめん、人と話すのひさしぶりで』
 少しのタイムラグを伴う会話に、僕は少しだけ心が躍るのを感じて。
『それで、どうしたんですか』
 そう聞くと、相手は答えた。

『学校に、いきたくなくて』

 なんだ、そんなことかよ。
『あるあるw』
 たすけて、なんて言葉に騙された気がしたけど、かえって親近感がわいた。
『笑わないでよw』
 君も笑ってるじゃないか。
 ほほえましくなって、僕もくすりと笑った。

    *

 そんな些細なことから、僕と彼女のメッセージアプリ越しの会話が始まった。
 彼女は落ち着いた雰囲気の少女だった。しかし。
『ねえ、チヒロちゃんってどんなひとが好きなの?』
『ええと、僕は男なんだけど……強いて言うなら、落ち着いた、けれど大人びすぎないような子が好きかな』
『なにそれ……笑。……え、待って? 男なの?』
『ってことは君は女の子?』
『そうだけど……びっくりした』
 こんなふうに、ふと見せる素の部分が可愛らしい。
『僕も女の子になれたらなぁ』
『なにそれ笑 女の子も大変だよ?』
 会話はとても楽しくて、時間を忘れることも多くて。
 いつしか、返信が来るまでの十秒強のタイムラグすらもどかしくなるほどに。

「恋でもしてるんじゃねぇの?」
「うわっ、急に話しかけんなよ!」
 友人の呼びかけに反応できていないほどに僕は浮かれていたらしい。
「というかっ、こここ恋だなんてっ! ぼぼ僕がするとでも!?」
「噛みそうになってんぞー」
「あば!?」
 変な声が出た。
 なんとなく気恥ずかしくなって、僕は目を逸らす。
「あー……っと、お前、その彼女のことはなんて思ってんだ?」
「大人しくて思慮深く、しかし時々垣間見せる素の部分が」
「一言で」
「可愛い。好き」
「うわああああああ! リア充爆発しろ!!」
 なに言っとるんだこの親友は。
 すーはーすーはーと深呼吸して、彼はまくしたてた。
「チヒロ、お前九割九分恋してるからな! てかこれで恋愛じゃない方がおかしい!!」
 は? 疑問を呈しそうになった僕。しかし。
 胸にこみあげる、彼女と話したい欲求。愛おしさにも似た――もしくはそれそのものかもしれない感情。
 恋だというのにも、納得せざるを得なかった。
「これが……恋か……」
「コイツ完全に恋する乙女の顔してるよ……男のくせに!」

    *

 そうして時は過ぎた。
 草木は芽吹き、生い茂り、やがて枯れはじめ。
『秋だね』
『そうだね』
 そんな会話が交わされた。
 親友ももう僕らのことは呆れるほどのバカップルと称するくらいになっていた。
 文章での会話はもう慣れて、僕は次のステップに進もうと画策していた。

 ――つまり、彼女と会う。

 電話もした。
 ……彼女の声は鈴のように可憐だった。電波状況が悪すぎたからかすぐに切れてしまったが。
 ビデオ通話はそんな電波状況だからできなかったけど、そろそろ顔を見たい。
 緊張のままに僕はメッセージを打つ。
『そろそろリアルで会いたいんだけど、いいかな』
 ドキドキと心臓が拍動する。
 五秒、十秒、二十秒、三十、六十、百二十――。
 いつまでたっても返信は来ない。
 用事があるのなら仕方ないし、それで遅れることなんて何度でもあった。
 けど、それでも、話しかけたとき、話しかけられたときは、五分以上待ったことも、待たせたこともない。
 流石に気持ち悪かったかな。いやキモかったよな……。
 相手は女の子だ。配慮しなきゃいけなかった。
『気を悪くしたならごめん。無理にとは言わないよ』
 と送ったのと同時に、ようやく返信が届いた。
『ごめん、できない』
 ――ここでやめておけばよかったのに。
 のちの、ある可能性の僕は後悔した。

『なんで? 理由を教えて』

 ほんの一言。ぱきり、何かが割れたような音がした。
『私はあなたの世界にはいないから』
 そんな意味深なメッセージ。疑問を呈す僕。
『どういうこと?』
 それから何秒かかっただろうか。もはや数える気にはならず。

『あなたは、もう一人の私だから』

 送ったメッセージに、既読がつくことはなかった。

    *

 あの日、突然つながらなくなったメッセージアプリ。
 最後の文章を、僕は何度見返しただろうか。
 もう一人の私。
「ちょっとなに言ってるのかわかんねーな」
 友人は額にしわを寄せた。
「そもそもさ、お前って何人いるんだ?」
「は? 意味が分からないけど……僕は一人のはずだ」
「だよな。お前はお前ひとり。それがこの世界の大前提。まして彼女は」
「僕とは違う。性別も、性格も……似てないとは言わないけど、しかし違う」
「そうだ。自己同一性を持ってないんじゃ、お前と彼女は同一人物とは言えないんじゃあないのかい?」
 その親友の言葉に、僕は頷いた。
 けど、どこか引っかかるところもある。
「でもさ、僕ときどき思うんだよ。もし、僕が女の子だったらって」
「なんだ、急に。そういう性癖か?」
「ちが、いや断言はしないけどさ……。でも、もし君も、僕と出会わなかったらどうなってた?」
 そう疑問を提示すると、親友は黙りこくった。
「自己同一性ってのは、特に性格なんてものは育ち方や出会いの一つで簡単に変わってしまうものなんだよ」
「つまり?」
「ああいう自分もいておかしくはないのさ」
 ドヤ顔で展開した持論を、親友は。
「いやおかしいだろ」
 一笑に付した。
「まず前提はどうした前提は。お前はお前ひとり。そのはずじゃ――」
「だからここから先は荒唐無稽なこじつけだけど」
 そう前置きをして、僕は続けた。
「多世界解釈って知ってる?」
「なんだそれは」
「簡単に言えば、様々な可能性の世界があるってこと。可能性により――もしもという仮定によって、様々な世界があるって量子力学の考え方」
「……パラレルワールド?」
「そ。平行世界ともいう。厳密には違うかもだけど」
「それがどうした」

「言ってしまえば、彼女は平行世界の自分なんじゃないかなって思ったんだ」

    *

 私は、スマホを握りしめて泣いていた。
 ベッドの上。光った液晶。一つの名前を見ながら。
『繝√ヲ繝ュ』
 文字化けしたその名前は、平行世界の自分。
 文字を変換サイトに通すと、浮かんでくるのは自分の名前のカタカナ表記。
「チヒロ、くん」
 いとおしい彼の名前――あるいは自分の名前を呼んだ。
 彼は終始、私を「君」と呼ぶばかりだった。
 名前がわからない私をなんと呼べばいいのかわからなかったのだろう。だから、当たり障りのない表現で呼んでくれた。
 そんな小さな配慮に心が暖かくなって。
 私は壁に頭を打ち付けた。
 ……なに、やってんだろ。自分に……並行世界の自分に、恋煩い、だなんて。
 世界の壁は分厚い。
 普通はその世界に同一人物は一人だけ。それが、神様の作ったシステムの絶対。大前提。
 けど、この世界では誰にも話を聞いてもらえない。いじめられて、親には笑われて、友達なんていようはずがない。
 だから。
「恵まれた私なんて、いるのかな」
 最初はほんの好奇心だった。
 様々な仮説を立て、呪いの類いも研究し、メッセージアプリを媒介し。
 ようやく、並行世界、幾多もの可能性のひとつに干渉することができた。
 並行世界の自分にメッセージを送り、返信が来たときはもう泣きそうだった。もう、孤独じゃないんだって。
 だから、ありがとうなんて打ち込んでいた。
 でもだからって、自分に恋するバカがどこにいる。
 けど、それほどまでに、彼を心の拠り所にしていたのも確かで。
 彼から返信がきている。どういうことだと叫ぶように。
 たった一件の通知マーク。胸が張り裂けるようだった。
 見返したくもない。見ればまた、いとおしくなるから。
 会いたくなってしまうから。
 触れることのかなわない彼に、手を伸ばす。
 男の私は、どんな顔をしてるのかな。どう生きて、どうやって私と巡り合ったのかな。
 あの人のことを考えると、もう眠れない。
 苦しい。苦しい。愛おしくて、苦しい。
 カーテンの閉め切った、昼も夜もない部屋。スマホの画面が無言で深夜二時を告げ。
 通知のバイブが鳴った。
 一件のメッセージ。
『会いたいよ』
 もう一人の私からだ。
 思わず開いた通知。ずっと上部についていたアイコンが消えて。
 泣きそうな声で、私は叫んだ。
「会えるわけがない!」
 だって、あなたとは並行世界の壁で遠く閉ざされているのだもの!
 言ったって、彼には届きやしない。
『無理だよ。だって』
 送るメッセージ。
『私たちの世界は』
『そんなのわかってる』
『じゃあ』
 諦めてよ。
 言いたかった。
 けど。

『今から君に会いに行くよ』

 私は目を見開いた。
 どうやって行くの?
 世界の法則を捻じ曲げてしまうの?
 そんなことはどうでもいい。
 震える手で、私は液晶に触れて。
『どうして、私なんかに』
 あいにくるの。かまってくれるの。
 わかってた。わかりたくなかった。けど、わかってしまっていた。

『君が、好きだから』

 シンプルな告白に、胸が苦しくなって。
 バクバクと脈打つ心臓。涙が出てきて。
 ただ、私は。

「会えるなら、会いに来てよ」

 カーテンを開けて、窓を開いて。
 薄暗い牢獄に、光がさした。

「私をここから救い出してよ! 私に、可能性を見せて!!」

    *

「ああ、わかった」
 学校の屋上。聞こえた気がした叫び声。答えた僕の声は風にかき消される。
「おい。なにがわかっただよ」
 親友の声に、僕は振り向いた。
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもあるか! なんでお前、屋上の端で立ってんだよ!」
「平行世界への移動を試みるのさ」
「まるで意味が分からねえ! ひとまず戻ってこい。このままじゃ――」
「落ちて死んでしまう、だろうね」
「わかってんならさっさと」
「いまさら戻るかよ」
 僕は首を横に振った。
 ――パラレルワールドは無限に存在する。選択の時点で発生し、無限に枝分かれしていく。まるで大樹のように。
 もし、あの時飲み物を買わなければ。もし、花瓶を割らなければ。
 もし、いじめられたりしていれば。もし、性染色体の一本が違っていたら。
 もし、あの時メッセージアプリを開かなければ。
 もし、何も知らずに彼女と話すだけで満足できていたなら。
 この世界は、無限にある枝の一本に過ぎない。幾多もの意識無意識問わない選択の末に、いま僕らはこの世界に存在する。
 一つの選択によって、未来は大きく変わるだろう。専門用語でバタフライエフェクトというが、その無限の平行世界の彼方の自分は、自分とは大きく異なった自分ではない何かなのかもしれない。
 荒唐無稽だっていい。
 もし、魔法が使えたら。この世界に化学が発展していなかったならば。そんな世界だって、ありえないこともない。
 そう考えれば、もうわかるだろう。
「もう一人自分がいる。そんな世界だって、あってもいいんじゃないかな」
 僕はそう言って、軽く口角を上げた。親友は慟哭するかのようにまくしたてる。
「というか、平行世界の移動って……できたとして、この世界のお前はどうなる!」
 目を伏せる僕。静寂。強風がごうごうと僕らを包み。
 やがて僕は、声を絞り出した。
「消える。思いとどまった世界線なら――あるいは、この世界を生きてたかもしれないけど」
 ぱきり。また選択した。平行世界が生まれた。
 親友の顔を見た。
 彼は、顔を涙でぐちゃぐちゃにして。
「行くんじゃねえよ、馬鹿!」
「いいや、行くよ」
「クソ野郎! リア充!」
「なんとでも言え。……僕は、愛に生きただけだから」
「……かっこつけやがって」
「じゃあな、親友」
「おいっ!! チヒロッ! いくな――」
 僕は、両腕を開いて。
 重力に任せるまま、後ろへ倒れ。
 そのまま、重力にそって落下し。

 ――幻影を見た。

 閃光が脳内を駆け巡り、やがてそれは映像になる。
 走馬灯。いや、見えたのは、数々の自分の姿。
 記憶にない映像。
 悲しむ親友。引き留められた自分。平行世界を馬鹿馬鹿しいと笑った自分。
 彼女との平穏なチャット。何も知らずに友達と会話する少年。
 これは平行世界、あったかもしれない可能性の現在の姿だ。
 いま僕は、大樹のようなパラレルワールドの数々の、枝の先を渡り歩いている。
 理屈なんてわかりはしない。考えたところで理解のしようがないだろう。
 ただ、いま確かに僕は、平行世界の先を、可能性の先を見せられているのだ。
 だんだんと、いまの自分から遠ざかっていくのがわかる。中には、もはや「自分」と定義されただけの全然別の存在もいる。
 目的地はすぐそばだ。僕は笑う。
 誰も僕を見ない。知覚することはない。そのはずだった。
 しかし、ただひとり。
 性別の違うひとりの「自分」が。
 窓の外――落ちる僕を見て、目を皿にしていて。
 涙がこぼれた。
 ああ、ようやく――。
 けれど。
 引き離されるように風が吹いた。
 落ちる僕は風に煽られ。

「離れて、なるものかぁ――――――っ!」

 絶叫と共に、手を伸ばした。

    *

 スマホのアラームが鳴った。
 がばっと上体を起こし、研究室に差し込む夕日に顔をしかめる。
 昔のことを夢に見た。
 あの日から、何年経っただろう。
 平行世界の存在を証明するなんて、途方もない大それた夢を抱き始めた日から。
 その夢の原点が少女時代の初恋だなんて、恥ずかしくて他の人には明かせない。
 昔、私は平行世界の自分に恋をした。
 だから、その平行世界の自分に会うために、私は研究者になった。
 恥ずかしいけど、諦めきれなくて。
 ……で、疲れすぎて研究室で爆睡なんて。自分のことなのに少し呆れる。
 彼――チヒロくんとの最後の会話は、十年以上前の秋のまま。何度も見返すトーク画面。勇気を少し貰って。
 でも、今日は遅いから帰るか。そう思い、椅子を立った。

 オレンジと藍のグラデーションを描く冬空は、少しづつ暗くなってゆく。
 冷たい空気を肺に入れて、吐いた息は白く。
 こんな寒い日は鍋がいいかな。あと、レモンサワーを添えて。
 夕飯のことを考えて、微かに笑う。けど。
 どこか、寂しい気持ちになった。
 ひとりきり、誰もいない帰り道。
 冷たい風が、濡れる頬を撫でた。
 人恋しくて、たまらなくて。
 首を振って、袖で涙を拭いた。
 かんかんと踏切が鳴る。目の前で遮断桿が下りる。
 渡れなかった。でも待てばいいだけのこと。
 ……今日の私はなんか変だ。頭の中、彼の声ばかりがよぎる。
『今から君に会いに行くよ』
『君が、好きだから』
 もう既に救われたのに。……私をこうさせたのも……夢を作ったのも、部屋を出る理由を作ったのも、全部君なんだよ?
 楽しかった記憶がフラッシュバックする。愛おしさが、あのころの気持ちが。
 苦しい。苦しい。愛おしくて、苦しい。
 深呼吸。落ち着け、私。もう大人だから。
 ただ、口をついて声が出た。

「会いたいよ」

 ごうごうと音がした。
 高速通過する列車。巻き上がった風が、前髪にかかりそうだった髪を、涙を吹き飛ばし。

 ――幻影を見た。

 自分と似たような顔をした少年。踏切の向こうに見えた、その人影。
 息を呑んだ。
 警報音が止む。遮断桿が上がる。
 少年は涙を流していて。
 私の目からも、ぽつぽつと水滴があふれ出していた。
 いつからか、しんしんと雪が降りだしていた。
 ゆっくりと舞い落ちる結晶の花弁。冷えていく頭に、しかし熱い直感だけが、脳内を閃光のように駆け巡って。
「遅いよ」
「ごめん」
 一言の会話。それだけで、思い出すには十分すぎた。
 蘇る感情に、私は口元を緩めて。

「やっと、会えた」

 Fin.

    *

 初出:2022/07/01 小説家になろう・pixiv・ノベルアッププラス「雑多掌編集」・アルファポリス「雑多掌編集v2」・カクヨム「雑多掌編集γ」
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