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第一章 天界の花は地上の男と出逢った
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「はぁ……」
あれから数日は経ったというのに、未だにあの時の事を思い出すと鼓動が早くなって頬が熱くなる。気にしてても仕方ないと思って練習に打ち込むのだけども、ふとこの琴は彼の手作りと意識してしまうともうだめだ。
こんな状態になった事がないので、どうしたら解決出来るのかが分からない。今までならば、困った時は姉さまに相談していたけれど、今は出来ないし。
もう一度大きなため息をついてから、よいしょっと立ち上がった。今日は、彼の作業着のほつれを繕っていたのだ。全部終わったので、確認してもらうために弦次さまを探しに行くとしよう。
畳んだ作業着を持ったまま家の中を歩き回る。台所にも作業部屋にも、保管部屋にも洗い場にもいないので……外だろうか。
そう当たりをつけて確認すると、予想通り彼がいた。どうやらビワと遊んでやっているらしい。弦次さまが木の枝を投げる、ビワがそれを追いかけ拾って持ってくる、持ってきた枝を受け取ってまた投げる……実に微笑ましい光景だ。
「桐鈴」
私に気づいたビワが、枝を渡さずにこちらを見ていたからだろう。弦次さまも私の接近に気づいてくれて、声をかけてくれた。それに返事をしながら近づいて、縁側に腰かける。
「繕い物が終わったので、見て頂こうと思いまして」
「ああ、そうだったのか……うん。丁寧にしてくれたんだな。ありがとう」
そう言ってくれた弦次さまの口元が緩んだ。最近は、こうやって笑んで下さる事が多いから嬉しい。彼のこんな表情が見られるのならば、もっとたくさん頼みを聞いてあげたいとすら思ってしまう。
「ワンッ」
放置されたと思ってしまったのだろうか。ビワが気を引こうとするかのように吠えたので、二人そろってビワの方を向いた。
「すまんな。ほら、貸してくれ」
手を差し出して枝を受け取った弦次さまが、もう一度枝を放り投げた。ビワは、嬉しそうに尻尾を振りながら駆けていく。
「おお、良い子だ良い子だ」
ちゃんと枝を持ってきたビワの事を、弦次さまは撫で回して褒めていた。先ほど以上にぶんぶん振られている尻尾が、ちぎれてしまわないだろうかなんて心配になってしまうくらいだ。
(……ん?)
何かが胸を突いたような心地がして、思わず胸元に手をやった。しかし、手のひらに伝わる鼓動はいつも通りだ。
その後も、弦次さまはビワと遊んであげていた。その時にはもう痛みなんて何も感じなくて、不思議な心地のまま一人と一匹を眺めていく。
満足したらしいビワは、そのまま庭で腹ばいになって日向ぼっこをし始めた。それを合図に部屋の中へと入った弦次さまが手を洗うと言うので、洗ったばかりの手巾を持って後を追った。
「お疲れさまです」
「ああ、ありがとう……久々に体を動かすと疲れるな」
「弦次さまは、普段から結構動かれてると思いますけれど」
「それはあくまで必要な分だからな。こうやって、ただ遊ぶためだけに体を動かすのは久しぶりだ」
目的が違えば、疲労度も変わるだろう。汗もかいているだろうから、今夜は塩気の多いおかずが良いかもしれない。そう言えば、弦次さまが釣ってきた魚を塩漬けにしたものがあったはずだ。
「今日の夕飯は魚の塩漬けを焼いたものに致しましょうか」
「そうだな。あと……冷茶はあるか?」
「作り置きがまだ残っていた筈なので、準備しますね」
冷えているお茶の方が好みだと言っていたから、最近は数杯分纏めて煮だして冷やしておくようにしたのだ。作業中も合間合間で飲んで下さっているらしいので、良い小休止になってくれているのならばこんなに嬉しい事はない。
「どうぞ」
「ありがとう」
台所にやってきた彼に湯呑を手渡すと、弦次さまは豪快に飲み干した。もう一杯と言われたので注いで渡すと、それも喉を鳴らして飲んでくれる。
「桐鈴のお陰で人間らしい生活が出来ている気がする」
「そんな大げさな」
「いや、作業に没頭しても温かい飯が出てきて、話す相手がいるというのは、思っていた以上に良いものみたいだ」
そう言われて、どきりと心臓が跳ねた。いてくれて嬉しいなんて、そうそう聞ける言葉ではない。まして、この人から言われたとなっては、どうしても喜びが先に来てしまうのだ。
「ありがとうな、桐鈴」
はにかみながら告げてくれた弦次さまの腕が、私の方に伸びてきた。もしかして、もしかして。あの子みたいにと思って期待して、止める事無く見つめ続ける。
「っ……すまない。約束を破るところだった」
指先が触れて、そのまま、もっと。そう思ったところで、望んだ温もりは離れていった。どくどくと力強く脈打っていた心臓が、冷水を浴びせられたように勢いを失っていく。
「俺は作業に戻るな。桐鈴も、好きに過ごしてくれ」
こちらに何も言わせないまま、弦次さまはくるりと後ろを向いて作業部屋に向かってしまった。彼と、もっと一緒にいたかったのに。その手をそのまま伸ばして、あの子を撫でていたみたいに撫でて欲しかったのに。
「あ……」
残念で、悲しくて、寂しくて。それで、ようやく、思い至った。
(弦次さま……)
私は、あの人が、好きになってしまったんだ。
あれから数日は経ったというのに、未だにあの時の事を思い出すと鼓動が早くなって頬が熱くなる。気にしてても仕方ないと思って練習に打ち込むのだけども、ふとこの琴は彼の手作りと意識してしまうともうだめだ。
こんな状態になった事がないので、どうしたら解決出来るのかが分からない。今までならば、困った時は姉さまに相談していたけれど、今は出来ないし。
もう一度大きなため息をついてから、よいしょっと立ち上がった。今日は、彼の作業着のほつれを繕っていたのだ。全部終わったので、確認してもらうために弦次さまを探しに行くとしよう。
畳んだ作業着を持ったまま家の中を歩き回る。台所にも作業部屋にも、保管部屋にも洗い場にもいないので……外だろうか。
そう当たりをつけて確認すると、予想通り彼がいた。どうやらビワと遊んでやっているらしい。弦次さまが木の枝を投げる、ビワがそれを追いかけ拾って持ってくる、持ってきた枝を受け取ってまた投げる……実に微笑ましい光景だ。
「桐鈴」
私に気づいたビワが、枝を渡さずにこちらを見ていたからだろう。弦次さまも私の接近に気づいてくれて、声をかけてくれた。それに返事をしながら近づいて、縁側に腰かける。
「繕い物が終わったので、見て頂こうと思いまして」
「ああ、そうだったのか……うん。丁寧にしてくれたんだな。ありがとう」
そう言ってくれた弦次さまの口元が緩んだ。最近は、こうやって笑んで下さる事が多いから嬉しい。彼のこんな表情が見られるのならば、もっとたくさん頼みを聞いてあげたいとすら思ってしまう。
「ワンッ」
放置されたと思ってしまったのだろうか。ビワが気を引こうとするかのように吠えたので、二人そろってビワの方を向いた。
「すまんな。ほら、貸してくれ」
手を差し出して枝を受け取った弦次さまが、もう一度枝を放り投げた。ビワは、嬉しそうに尻尾を振りながら駆けていく。
「おお、良い子だ良い子だ」
ちゃんと枝を持ってきたビワの事を、弦次さまは撫で回して褒めていた。先ほど以上にぶんぶん振られている尻尾が、ちぎれてしまわないだろうかなんて心配になってしまうくらいだ。
(……ん?)
何かが胸を突いたような心地がして、思わず胸元に手をやった。しかし、手のひらに伝わる鼓動はいつも通りだ。
その後も、弦次さまはビワと遊んであげていた。その時にはもう痛みなんて何も感じなくて、不思議な心地のまま一人と一匹を眺めていく。
満足したらしいビワは、そのまま庭で腹ばいになって日向ぼっこをし始めた。それを合図に部屋の中へと入った弦次さまが手を洗うと言うので、洗ったばかりの手巾を持って後を追った。
「お疲れさまです」
「ああ、ありがとう……久々に体を動かすと疲れるな」
「弦次さまは、普段から結構動かれてると思いますけれど」
「それはあくまで必要な分だからな。こうやって、ただ遊ぶためだけに体を動かすのは久しぶりだ」
目的が違えば、疲労度も変わるだろう。汗もかいているだろうから、今夜は塩気の多いおかずが良いかもしれない。そう言えば、弦次さまが釣ってきた魚を塩漬けにしたものがあったはずだ。
「今日の夕飯は魚の塩漬けを焼いたものに致しましょうか」
「そうだな。あと……冷茶はあるか?」
「作り置きがまだ残っていた筈なので、準備しますね」
冷えているお茶の方が好みだと言っていたから、最近は数杯分纏めて煮だして冷やしておくようにしたのだ。作業中も合間合間で飲んで下さっているらしいので、良い小休止になってくれているのならばこんなに嬉しい事はない。
「どうぞ」
「ありがとう」
台所にやってきた彼に湯呑を手渡すと、弦次さまは豪快に飲み干した。もう一杯と言われたので注いで渡すと、それも喉を鳴らして飲んでくれる。
「桐鈴のお陰で人間らしい生活が出来ている気がする」
「そんな大げさな」
「いや、作業に没頭しても温かい飯が出てきて、話す相手がいるというのは、思っていた以上に良いものみたいだ」
そう言われて、どきりと心臓が跳ねた。いてくれて嬉しいなんて、そうそう聞ける言葉ではない。まして、この人から言われたとなっては、どうしても喜びが先に来てしまうのだ。
「ありがとうな、桐鈴」
はにかみながら告げてくれた弦次さまの腕が、私の方に伸びてきた。もしかして、もしかして。あの子みたいにと思って期待して、止める事無く見つめ続ける。
「っ……すまない。約束を破るところだった」
指先が触れて、そのまま、もっと。そう思ったところで、望んだ温もりは離れていった。どくどくと力強く脈打っていた心臓が、冷水を浴びせられたように勢いを失っていく。
「俺は作業に戻るな。桐鈴も、好きに過ごしてくれ」
こちらに何も言わせないまま、弦次さまはくるりと後ろを向いて作業部屋に向かってしまった。彼と、もっと一緒にいたかったのに。その手をそのまま伸ばして、あの子を撫でていたみたいに撫でて欲しかったのに。
「あ……」
残念で、悲しくて、寂しくて。それで、ようやく、思い至った。
(弦次さま……)
私は、あの人が、好きになってしまったんだ。
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