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07.

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 気が付くと窓の外は真っ暗になっていた。定時はとうに過ぎていて、時刻はもうすぐ十九時になろうとしていた。会議の議事録をまとめて今日の参加者に送信する。休憩を入れて、もう少しだけ仕事を片づけてから帰ろうと休憩室に向かった。
 水曜日はノー残業デーと社内で謳っているせいかいつもより残っている人は少ない。開発部も忙しくなる前に帰れるときには帰るというスタンスのようだ。
「んー、休憩室一人占めかー!」
 三十五階にある休憩室の窓から見える夜景は絶景だ。無料のカフェラテを入れて、ソファ席にゆったりと座りながら灯りをぼーっと眺める。そうしていると宮川とエレベーターで交わしたキスのことを思い出して、唇に手を当てた。
 宮川とするキスはとても気持ちが良くて流されそうになってしまう。だからあの時抵抗してしまった。あのままずるずると関係を続けていてはダメになってしまうと思ったからだ。「はぁ……でも気になることが多すぎるよ……」
 お試し期間のこと、元カノのこと。宮川が何を考えているか分からなくてまさに積み状態だ。聞けばいいのに怖くなって逃げてしまった。宮川との関係が崩れるのなら、何もなかったことにして、ただの同期に戻りたかった。ただそれだけなのに、結局はその関係にすら戻れないでいる。
「……ん、ふぁ……」
 もやもやと考えていると人の声が聞こえてきて亜美は周りを見渡した。すると長いソファからむくりと起き上がってくる人物がいて目を凝らす。
「やべ、もう暗くなってる……」
「み、宮川……?」
「ん……お前……!」
 亜美が休憩室に来たとき、部屋の灯りが付いていなかったため誰もいないと思っていた。宮川の言葉を聞く限り、おそらく日が暮れる前からここで寝ていたのだろうか。それはそれであり得ない。
「もう十九時だけどそんな前から寝てたの……?」
「いや、十七時半ぐらいに来たはず」
 起き上がった宮川はあくびをしながらコーヒーを入れている。焦った様子もなくて、亜美は逆に気が抜けてしまった。
「疲れてるならちゃんと帰って寝た方がいいんじゃない?」
「ん~。そうするか……」
 意外と普通に話が出来ていることに驚いてしまった。もしかしたらこのまま今までの関係に戻れるのではないか。そう期待してしまう。
「それで? お前はこれから社長とデートでもしにいくのか?」
「え?」
 そう期待していたのに、思ってもいなかった宮川からの言葉に亜美は間抜けな声を出してしまう。なぜここで藤沢が出てくるのか。宮川はコーヒーを持ったまま亜美の隣に座った。
「お前さ、社長とデキてるなら早く言えよ。俺が間男みたいだろ」
「え、ちょ、なんでそんな話に……?」
 宮川から出てくる言葉に亜美の理解が追いつかない。確かに何度か藤沢に気にかけてもらった事はあるけれど、そんな関係ではないはずだ。
「今日のミーティングのあと、社長と、その……キス、してただろ」
「し、してない! してないってば!」
 言いにくそうにしていた宮川から出て来た言葉に亜美は全力で否定をした。確かに泣いていたところを慰めてもらったがそんな接触はない。
「あれは、ちょっと相談に乗ってもらってたっていうか、その、泣いてしまって……」
 宮川のことを話していたとは言えない。でもそういう風に勘違いされたくない。それだけは本当だ。
「じゃあお前の片思いか。いいんじゃないか。社長も独り身だし、お前も結婚したいならアリだと思うし」
「だから、違うって!」 
「社長なら夜の方も優しくしてくれるだろ、俺と違ってさ」
 そう言われて亜美の堪忍袋は限界だった。誤解されたくないと必死で否定をしたのに嫌味を言われ、さらに関係ない藤沢のことまであること無いこと言われるのには我慢ができなかった。
「そっちこそ、結婚考えてた元カノと、ヨリ戻そうとしてたんじゃないの? お似合いだったじゃない」
「は? それこそお前何言ってんだ?」
 確証は持っていない。でも会話の内容からそうとしか思えないのだから、これは言ってしまってもいいだろう。
「プレスリリースの日。近くにいたから会話が聞こえてきたの。結婚は無理って振られたって。結婚考えてたのってその人でしょう?」
「あの時近くにいたら声かけろよ。お前の仕事だろ?」
「かけづらいに決まってるでしょ!」
 仕事だと言われればその通りなのだが、かけづらい理由が今なら分かる。亜美はもう宮川に引かれていた。だから声をかけて、彼女のことをなんて紹介されるか怖かったのだ。
「なんで」
「なんでって……それは……」
 いつものミーティングの時のような態度でそう尋ねられて亜美は思わず言葉に詰まる。なんで、なんて理由は一つしかない。
「それは……?」
 宮川を見ると全てを分かっているような顔をしている。悔しい。結局対等だと思っているのに宮川の方が一枚上手な気がしてしまう。
「……もし、自惚れじゃなかったら俺が思ってることと、お前が思ってること、同じだと思っていいか?」
「宮川の考えてることなんてわかんないよ! 大体、宮川だって元カノと食事に行ったんじゃ……」
「行った。けどアイツもう他の人と結婚してる人妻だし、うちの会社のこと根掘り葉掘り聞かれて終わっただけ」
「え……? でも……」
 もしかしたら宮川はまだ元カノに未練があるのではないか、そう思ってしまう。
「俺の中ではもう過去のことだよ。改めてアイツに会ってそう思った。ってかむしろ苦手意識の方が増してた。いつも言い負かされてたし」
 はぁとため息を吐いた宮川は心底嫌そうな顔をしていた。一時期結婚まで考えてた相手なのに、少し会わなかっただけでこうも印象は変わってしまうのだろうか。
「それに、もう好きなやつ、いるし」
 そういった宮川の顔が近づいてくる。亜美は思わず宮川の胸元を押し返してしまう。
「社長は良くて、俺はダメなの?」
「だから、社長とはそんなんじゃ……」
「黙って」
 小さく囁かれて顎を取られるとそのまま宮川の唇が重なった。あの人同じように熱くて、蕩けるような熱に亜美は全てを持って行かれそうになる。
「ん……」
「お前、何でもかんでも一人でつっぱしって、勝手に結論出す癖、直した方がいいと思う」
 唇が離れると宮川が少しだけ拗ねたような表情を浮かべていた。勝手にキスしてきたくせに文句まで言われて、亜美も黙ってはいられない。
「そ、そういう宮川だって、何も言わないじゃない。いつもは、言いたい事ずけずけ言ってくるくせに、肝心なこと……」
 鼻の先が触れあう距離で宮川の瞳を見つめると、その瞳の中に映る自分がとても滑稽に見えて情けなくなってくる。自分でも分かるぐらい、宮川のことを好きだという顔をしている自覚があった。
「だから、お前と同じ事思ってるって……」
「ちゃんと言ってよ」
 悔しくて、少しだけ意地を張ってしまう。自分からじゃなくて宮川から行って欲しい。それぐらいの乙女心は分かって欲しい。
「……言ったら、本当に前みたいに戻れなくなるけど、いいのか?」
 甘く熱っぽく囁かれる声に亜美は頬が熱くなっていくのが分かる。
「そういう聞き方ずるいよ。もう、戻れないってわかってるのに」
 お互いにどうなりたいかなんて分かっているはずなのに、一歩が踏み出せない。亜美は、少しだけ観念して、自分から宮川にキスをした。
「戻れなくて、いいよ」
「……俺も。戻りたくない。……好きだ」
「んっ……」
 すぐ傍にあった唇がまた塞がれる。注ぎ込まれる熱に亜美はただ翻弄されるしかなかった。
熱くて気持ち良くて、やっぱり宮川との相性はいいのだと再確認する。
「あの日、お前と一緒に夜を明かして、久々にぐっすり寝れた。それから一人で寝ようとしてもなかなか眠れなくて……」
 抱き締められながら耳元で囁かれる宮川の声を聞いていると心地よい。腰に回された手に全てを委ねたくなる。
「だから、会社に良く泊まってるの?」
「……気が付いてないだけでそうだったのかも」
 一つ、宮川自身が気付けていなかったことを知った。意外と宮川はさみしがり屋なのかも知れない。そして亜美が思っているよりも繊細な人だ。
「それに、なんかお前と言い合いできないのも調子狂うっていうか。元に戻ろうって言われても、戻れないのは俺の方だったのかもな」
「うん、それは私も」
 マーケティング会議の日。言い合いをしなかったことにほっとしながらもどこか寂しいと思っている自分もいた。だからあの場で泣き出してしまい藤沢にも心配されてしまったのだ。二人ともとっくに戻れないところまできてしまっていた。
「好き。悔しいけど、私も宮川のことずっと考えてるの。あの日から……」
 その二文字を口にすると心の中のモヤが晴れていくような気がした。やっと自分の気持ちに素直になれた。
「あの日、お前にお試しだって言ったの、軽い気持ちじゃないから。あわよくば、お前と恋人になりたいって思ってた」
「あわよくばって……やっぱりずるい」
「だって、お前はその気が無かっただろ? 俺だけはあり得ないって」
 嘘だ、本当は気になっていた。あの日、結婚を考えた人がいると聞いてショックだったのは、宮川と同期という立場にあぐらをかいていたからだと気付いた。本当にそう思っていたら、酔っていたとしても流されたりなんかしない。
「私もあわよくば、宮川とそういう関係になりたいって下心があったのかも」
「……なんだよ、それ。お前もずるいだろ」
 耳元で宮川の笑う声が聞こえる。それが心地よくてずっと宮川の声を聞いていたくなる。
「なぁ、あの日の続き、してもいいか?」
 すっと宮川の手が亜美の身体を撫でる。その手つきであの夜のことを思い出して、亜美の背筋がぞくりとする。
 あの日の続きを、亜美も期待している。
「今度はお試しじゃない。恋人としての関係を深めたいんだ」
 その言葉に亜美はただ頷いた。
 目を細めると夜景がぼやけていく。触れた唇の熱を受け入れながら、亜美はただ目の前の熱を必死でたぐり寄せるのだった。

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