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08.

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――その夜。
「なぁーんかさぁ、人生ってそう上手く出来てるわけじゃないんだねぇ」
「……彩乃ちゃん、仕事で何か嫌なことでもあった?」
 バイトではなく客として『シエスタ』に足を運んでいた。一人で家にいたらどうしても暗い方向に考えてしまいそうな気がして、気が付いたら足がここに向いていたのだ。
 バーカウンターに座って端っこの方でぐだぐだしながらマスターの作ってくれるお酒に舌鼓を打つ。何も言わなくても私の気分でカクテルを作ってくれるマスターは、やはりバーテンダーが天職なのかもしれない。
「仕事かぁ……仕事もなくなっちゃうかもなあ。ここでバイトしてるのバレちゃったかも」
 人事部の山田さん呼び出され、葉山さんがなんとか誤魔化してくれたけれど、なんだかどうでもよくなってきたのはお酒のせいなのだろうか。
「……いつまでも彩乃ちゃんに頼ってるからよね、ごめんなさいね」
「いや、違うの! マスターは悪くない! 私がやりたくてやってるんだから。謝らないでください!」
 マスターがいなければ今の私はいない。だからマスターは何も悪くない。けれど、やはり大きなため息が零れてしまう。
「はぁ……好きだって伝える前に振られちゃったようなもんだよねぇ」
「彩乃ちゃん……」
 あんなに傷ついたような顔をした葉山さんを初めて見た。いつだって自信家で振り回してばっかりの人があんな表情をするだなんて微塵も思っていなかった。
「私が傷つけたのかなぁ。でもきっと私のことなんてなんとも思ってない、はずなんだけどなぁ……」
 もし私が自分のことをきちんと話せていたら葉山さんとの関係も変わっていたのだろうか。なんて考えてみてももう遅い。きっと私は自分のことを他人に話せるほど、自分の過去を消化しきれていないのだと思う。今も思い出そうとすると頭が痛くなる。
 カウンターにつっぷすとテーブルの冷たい感触が頬に辺り気持良い。火照った頬を冷やすようにそのまま目を閉じた。浮かんできたのは葉山さんの切ない表情だった。

***

 平日のバー『シエスタ』に来客を告げる音がカランと鳴った。マスターはいらっしゃいと声をかけると入ってきた人物を見て目の前でつっぷしている彩乃の肩を揺すった。けれど彼女は起きる気配は無い。
「やっぱり、ここにいた……」
「葉山さん……。もしかして彩乃ちゃんのこと探しに?」
「はい。ちょっと昼間会社で色々あって……そのあと連絡がつかなかったもので」
 よく見ると葉山の額は少しだけ汗ばんでいる。着ているものこそ整えられて営業マンそのものだが彩乃を探して慌てていたというのはマスターもすぐに見て分かった。
「今日はなんだかお酒が飲むペースが速くてね。まだ時間も早いし、葉山さんも少し休憩したら?」
「あ、すみません。ありがとうございます」
 人もまばらな店内で彩乃の隣に座った葉山の目の前に冷えたグラスに水を注いで差し出した。葉山はそれを受け取るといつぞやと同じようにぐいっと一息に飲み干した。マスターの機転で彩乃の肩にはブランケットが掛けられている。店内にはマスターが選んだジャズがBGMとして控えめに流れていて、まるで店内だけ時間の流れが違うようだった。
「葉山さんて、彩乃ちゃんと同じ会社ってだけなのかしら」
「えぇ、まぁ」
 葉山の歯切れの悪い言葉に、マスターは彩乃と葉山の間に何かがあったことを感じ取った。それを知った上でなのか、マスターは昔話をするように目を細めて彩乃を優しい表情で見つめていた。
「彩乃ちゃんも苦労してきたから、やっと幸せな日々を遅れてると思ってたんだけどね」
「笹村が苦労を……?」
 葉山は自信がしらない彩乃の昔話の片鱗をみてマスターをじっと見つめる。マスターはその瞳にやはり葉山の彩乃への気持ちが真剣なものだということを感じ取って、グラスに氷とを注ぐと琥珀色の液体を注いで葉山へと差し出した。
「まぁ、これは私の身の上話ってことで一つ」
 そしてマスターはまるで絵本でも読み聞かせるように言葉を一つ一つ紡いでいった。


***

「んぅ……」
 頬に感じていた冷たさが肌触りのいい温かいものに変わったことに気付き身じろいだ。はっと目を開けると見えたのは天井で、『シエスタ』の店内ではないことに上半身を起こす。この感触は間違うはずもない。何度もここで……。
「起きたか。とりあえず水でも飲んどけ」
「はっ……やま、さん」
「ん」
 ペットボトルを差し出されて手持ち無沙汰だったため受け取る。頬に当たっていた冷たい感触を思い出してペットボトルを頬に当てるとその冷たさが気持ち良かった。
「飲めって言ったんだが……まぁいいか」
 お風呂に入っていたのかスウェットを履いて上半身は裸のまま、タオルを首にかけた葉山さんがベッドに座る。ギシっと音を立てて沈むとその感覚に胸がドキリと音を立てる。これは条件反射のようなものかもしれない。
「私、シエスタでマスターと飲んでたはずなんですけど……」
 なんで、と尋ねようとすると不機嫌そうな葉山さんの視線が私を捕らえた。
「俺も今日シエスタに行った。そしたらお前が酔い潰れてて、お前の家知らないから連れてきた」
「そう、ですか……」
 考えてみればいつも葉山さんに呼び出される時は葉山さんの家か、外につれていってもらうことが多かった。私の家に来たことは……一度も無い。教えたくなかったわけじゃなくて聞かれなかったから答えなかっただけのことだ。けれどそれも葉山さんにとっては私が自分のことについて何も話さない、教えないと思われているのだろう。
「ご迷惑おかけしました。あの、帰りますね」
「終電はもう終わってる」
「た、タクシーで帰りますから、大丈夫です!」
 時計を見てみれば午前一時。大通りにでればタクシーの一台ぐらいつかまるだろう。ここから家までは距離があるから少し痛い出費になるけれど仕方が無い。こうして葉山さんの部屋にいる方が色々と辛い。
「えっと、ここまでもタクシーで移動しましたよね。お金、少しですけど置いておきますから」
 ベッドから出て、身支度を整えると財布を取り出す。いくらかテーブルの上において挨拶をして玄関に向かおうとすると後ろから何かを投げつけられた。
「わっ、と、な、何ですか!」
「泊まってけよ。じゃないと副業のことバラす」
「……もうバレてますよ。山田さんは同期の葉山さんだから見逃してくれただけで、きっともう次はないはずです」
「いいから。まだあの契約は有効だ」
 床に落ちたものを拾い上げるとそれはいつも私がこの部屋に連れてこられるときに可知れ暮れるスウェットだった。強制をしない、私の意思でこの部屋から出られるはずなのにそうさせてくれない。まるで優しい鎖のようだ。
「わかりました……」
 気が付けばそう頷いてシャワールームへと向かっていた。

シャワーを終えて出てくると葉山さんはリビングでビールを飲んでいた。
「出たか。とりあえずこっちこい」
 葉山さんの言うとおりリビングのソファに座ると急に腕を引き寄せられた。
「ちょ、葉山さんこれじゃ……」
 まるで後ろから抱き締められるような体勢に思わず身じろぐ。このままじゃ背中を葉山さんに預けた状態だ。
「いいから。んで、お前は茶でも飲んでろ」
「……葉山さんはビールなのに」
「お前はもう浴びるほど飲んだんだから茶にしとけ」
 くしゃりと頭をなでられて、背中に感じる葉山さんの体温に、もうどうせ逃げられないのならせめて今だけは甘えてしまおうと身体を預けることにした。
 こうやって何もなくお互いの体温を感じるだけの時間は今までにあっただろうか。夜中だというのに眠気もやってこず、ただその温もりに包まれていたいと思った。
「……昼間は悪い。言い過ぎた」
 頭上から呟くような声が聞こえてきてそれが謝罪の言葉だと分かるのにそんなに時間はかからなかった。
「葉山さんが謝ることないです。……私もちゃんと自分のこと話してなかったですし」
 これで少しは仲直りが出来たかなと思いながら振り返ると葉山さんはあのときと同じようにせつなそうな表情をしていた。そして私の頬に触れる。
「……マスターから、お前の過去のことを少しだけ聞いた」
「え……?」
 その言葉にドクンと心臓が大きく音を立てたのが分かった。

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