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第23話
しおりを挟む呼吸するたびに肺に突き刺さるようだった鋭利な冬の空気は、陽が高く昇るにつれ、だんだんと氷解しやわらかくなっていく。
新年に相応しく晴天に恵まれたその日、圭人の家の近くまで香倉は車で迎えに来てくれた。
年明けの挨拶をして、車に乗り込んでから、発情期を起こしたあの夜のお礼と謝罪を改めて伝えて。
それから圭人は白い封筒を差し出したものの、苦笑を溢した香倉にやんわりと首を横に振られてしまった。
「圭人はおれのこと、ホテル代も出せない男だと思ってる?」
「そういうわけにはいかないってば……! というか史仁さん、泊まってないし……っ」
「ヒート中のきみを不自由な場所に閉じ込めたのはおれだよ? ……受け取れないよ。おれは働いてるし、これでも十分稼いでいるんだ」
大人の表情を崩さない香倉は、一向に封筒を受け取ってくれる気配はない。
しかし金額が金額だった上に、今までだって存分に甘やかされてきた自覚がある圭人は、はいそうですかと引き下がるわけにもいかなかった。
正直にいうと懐はかなり痛むが、甘えられる厚意というものにも限度がある。
返す、いらない、の攻防戦がしばらく続いたあと、ふと笑顔を深めた香倉が圭人のほうへと向き直った。
「ねえ、圭人。ホテル代のかわりに、今度はおれのお願いをきいてくれない?」
「お願い?」
「そう、お願い。――おれ、圭人からのキスが欲しいな」
「んなっ……!」
何を言い出すかと思えば。これは絶対に誤魔化そうとしているし、遊ばれている。
そうとわかっていても、顔が猛烈に熱かった。
動揺して口をはくはくさせている圭人に、香倉は艷やかな声で次の言葉を投下した。
「そういえば、この前のマフラーも使ってくれているのかな?」
「う……、つ……かってる。寝るときに……」
動揺のあまり、つい口が滑ってしまって。慌てて噤むも遅かった。
「寝るとき?」と不思議そうに首を傾げた香倉が、すぐにあることに気付いたように口に手をあて、視線を逸らした。
ちょっと困ったような、照れたような、香倉のそんな表情は珍しい。
「だめだな……決意が端から崩れていきそう……」
運転席で項垂れて、珍しく隙を見せている男のコートのポケットに、圭人は封筒を押し込んだ。
香倉は再び苦笑していたものの、突き返されはしなかった。「じゃあ、また今度圭人のために使うね」とは言われたけれど。
「史仁さん、体調は?」
「もう平気だよ。圭人こそ、あれから調子はどう?」
「なんともないって。ただの発情期だったし」
視線をあわせて、ちいさく笑いあった。
あれだけ悩まされた時間は何だったのかと思うくらいに呆気なく、香倉に会った途端に、胸の中の不安がすべて霧散していく。
彼との間にある、変わらない空気が嬉しい。
遅いクリスマスプレゼントを交換しあってから、香倉の運転でドライブに向かった。
番候補の男に久しぶりに会ったせいか、今日は身体中の細胞がやけにそわそわとしていた。
落ち着かない自分を宥めながら、助手席のシートに寄りかかって街並みを眺める。
この男の隣にいると、どんなに見慣れた景色でさえも見違えて目に映るのだ。
沈黙が落ちる。――居心地の良い静寂だった。車のエンジン音が身体の芯までゆったりと響いてくる。
流れてゆく街並みに励まされて、圭人は胸にある決意を伝えてしまいたいという欲求に駆られた。
穏やかな表情で前を見つめる男をそっと窺う。
シートから上体を起こし、駆け足になる鼓動を抑えて口を開いた。
「――史仁さん。俺、さ……あの夜は無理だったけど……噛んでもらうなら、史仁さんがいいって思ってるんだ。だから、覚悟を決めるまで、もう少し時間をくれませんか?」
真っ白な未来図の中に浮び上がっている唯一の色彩は、きっともう変わらないという予感があった。
この先の未来がどんなものになったとしても、どんなものを選んでも、自分の遺伝子に刻み込む相手はこのアルファであってほしい。
視線を前方に固定したまま、ちょっと驚いたような様子をみせた香倉の目元が、すぐに眩しそうに甘くほころんだ。
「もちろん。おれの番になってくれるなら、いくらでも待つよ」
端正な横顔には喜色が滲んでいた。
気恥ずかしさに負けて、真っ直ぐに彼の目を見て伝えなかったことを圭人は少し後悔した。
爽やかな彼の匂いが鼻腔を擽った。
ほぼ同時に、運転席側の車の窓が数センチほど開けられて。冷たい空気と混ざりあい、好ましい匂いはすぐに薄まっていった。
ブレーキを踏み、車体がゆっくりと路面に止まる。
「寒くしてごめんね」と眉を下げた男が、圭人の方にやっと視線をくれて、微笑んだ。
「ねえ、圭人。今日は恋人らしくきみとデートがしたいな。……互いに発情しない程度に、ね」
まずは初詣に行って、その帰りに屋台で買った甘酒を味わった。
甘ったるい後味が消えない舌をなんとかしたくて、今度は大きな肉まんを一個買って、二人で交互にかじりついて平らげた。
軽めに昼食をとった後は、初売りの雰囲気を楽しみながら香倉に似合うマフラーを探した。
彼の好むものが見つかったのは良いのだが、圭人が会計に並んでいる最中に、香倉が女の子たちに声をかけられているのに気付いてしまって。
圭人が戻る頃には彼女たちは立ち去っていたけれど、もやもやとした嫉妬心に駆られてしまって、圭人は衝動のまま香倉の右手を引っ張った。
そのまま建物を出て、ずんずんと進んでいく。
香倉は何も言わなかった。
駐車場に着くと、男は無言のまま鍵を開けてくれて、ドアまで開けてくれたけれど、握った彼の手を離したくなくて、圭人は自分の衝動に困ってしまった。
「圭人、わかってる?」
「……なに?」
「今ね、おれ、圭人の匂いにすごく誘惑されてるよ」
「え?」
慈しむような眼差しが注がれていた。その瞳の奥に揺れる、欲の片鱗。
香倉は圭人の手を解こうとしたようだったが、圭人のほうが咄嗟にそれを阻んでしまった。
――嫌だと叫ぶオメガの身体を、圭人は感じずにはいられなかった。
離したくない、誰にも渡したくない、……ずっと触れていたいのだ。
(これは――なに?)
「――圭人」
香倉はぐっと苦しげに眉を寄せると、堪りかねたように圭人を引き寄せ、後部座席のほうのドアを開けた。
車内に連れ込まれ、唇が重なる。
二人のあいだにある眼鏡が顔に当たって擽ったくて。口元だけでひそかに圭人が笑うと、男も煩わしそうに眼鏡を取り去って、もう一度唇を触れ合わせた。
啄むようなキスが深くなっていき、彼に酔っていく。
勝手に伸びた腕が彼の首筋を捕らえて、自分から逃げないようにと固定してしまう。
ふわふわとした心地で目の前の瞳を覗いた。
人形めいたきれいな美貌に欲が煮えている。
ああ――やはり、男は美しいアルファなのだと思った。
滅多に見られない素顔の彼をうっとりと眺めた。
長い睫毛、整った鼻筋、涼やかな目元、僅かに上気した白い頬。いつもの香倉には禁欲的なものさえ感じるが……目の前の彼には数段増しの色香があった。
その彼の瞳にふつふつと欲が煮え立っている。
香倉だけでなく、この身体も渇望してるのを感じた。
オメガとアルファの細胞が、互いを意識して望んでいる。
これほどまでに圭人がそれを感じたのは初めてだった。
車の中には彼の匂いが満ちていて、きっと、自分の匂いも彼の周りに満ちている。
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