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第一章
襲来・春の大風(その一)
しおりを挟むよく整備された広い街道を、一台の馬車が行く。
馬車は二頭立てで、黒っぽい目立たない外装をしていたが、見る者が見ればおそろしく金と手間がかかっている代物とわかる、かもしれない代物だ。
その馬車の中。
乗っている者に振動が伝わりにくいよう工夫された、座り心地の良い座席。
そこに座るいかにも品のよさそうな身なりの初老の女性が、同じぐらい品の良いしぐさで手鏡をのぞきこんでは、満足そうにうなずく。
「ケイト、ネーナ、ねぇ、わたくしの“変装”はいかがですかしら?」
ひとしきり満足してから、向かいの席に控えるメイド服姿の女二人に問う。
「はい、完璧でございます、奥さま」
「はい、どこからどうみても“ただのなんのへんてつもない街人の妻”に変装できています。完璧です」
それを聞いて、“奥さま”はいかにも満足そうに微笑む。
“奥さま”はたしかに老いてはいるが、薔薇色の頬はいまだにふっくらとして、白い髪は美しくふくらませて結い上げられ、小柄な体は“ただのなんのへんてつもない街人の妻”ではまず着られないであろうてまひまのかかった綺麗なドレスをまとっている。まるでそういうお人形さんのようだった。
「ケイト、ネーナ、あとどのぐらいで到着かしら?」
「そうですね、あと鐘一回分ほどはかかりましょう」
「街に入るにもいろいろあるでしょうし、午後のお菓子の時間前ぐらいにはなりますかと」
「そう……あぁ、楽しみだわ……」
夢見るようなうっとりとした声と表情でこたえ、“奥さま”はゆがみのないガラス窓から万年雪で白い山を眺める。
あれはサフィーリと呼ばれる山だ。あの山頂の万年雪のように白いクリームの乗ったお菓子に合うのは、どんな紅茶だろうか、と考えていた。
「ふふ、あの子たち驚くでしょうねぇ」
「はい、きっと」
「きっと驚かれることでしょう」
「楽しみだわ……アルフィーゼ、元気にしていて?」
ふと、誰かによばれた気がした。
喫茶「のばら」の店主アルフは、紅茶を淹れる手を止め、顔をあげる。
ぱしゃり、と音を立てて熱い湯がやかんから床へ零れ落ちた。
「…………?」
首をぐるりと動かして店内を確認する。だが、だれにもよばれた様子はない。
よばれた、とおもったのはただの空耳、なのだろうか。それとも。
「どうしましたの、アルフ」
珍しく夫がミスをしたので、妻のイヴが心配そうに声をかけてくる。
「いや、何でもないんだよ」
「そう、ですの?」
「あぁ、おっと……厨房でスコーンが焼き上がっている時間だろうだから、それをいつものあの子たちに運んできておくれ」
「はい、わかりましたわアルフ」
アルフとイヴの夫婦が経営する店、喫茶「のばら」は今日もお客たちがにぎやかにしていた。
カウンター席には茶髪の街娘ミリィと黒髪の街娘ルリエラが座って、あれこれとおしゃべりをしながら注文の品が来るのを今か今かと待っている。
ソファ席では仕立て屋のおかみパシュミアが、自分の<作品>がどのように着られて、どのように動きを見せているかをチェックしている。
他にも、一仕事終えたらしい商人が目を輝かせて菓子を食べていたり、こざっぱりしたシャツの労働者の男が素朴なビスケットと紅茶をいかにもうまそうに飲食していたり、恋人どうしらしい若い男女が注文を決めるのに顔を寄せ合っていたりするのをみると、アルフは自分でも奇妙に思えるのだが、心のどこかでうれしさを覚える。
「店主さーん、顔ー、にやついてるよー?」
この店の給仕マレインが注文を告げるついでにこっそりと忠告してくる。
「……顔に、出ていたか」
「今日もー、確かにー、奥さまは美しくて可愛いんですけどさー」
「いや、今のはそれではなくてだな」
「あ、はいはーい、ご注文承りまーす」
「おい、マレイン」
言うだけ言って、マレインはささっと客のところに注文を取りに行ってしまう。
「……言うだけ言って逃げおって」
だが、悪い気はしない。
昔では考えられなかったことだが、決して悪い気はしないのだ、こういうのも。
厨房から、スコーンの皿を両手に持ってイヴが出てくる。
この店を開店したばかりの頃はまだまだそんなことはおっかなびっくりのようだったのだが――なにしろそれまでイヴはペンやスプーンより重いものを持ったことが無いときている――いまではだいぶ堂に入った動きだ。イヴはもともと礼儀作法やダンスを、それこそ骨身にしみいるまでに仕込まれたらしいので、立ち姿や歩く姿が美しいのも当たり前だ。
カウンターの街娘二人は、その洗練された美しい所作をぼんやりと、夢のなかの風景でも見るかのような目で眺めている。その動きが、自分たちにスコーンを給仕するためのものであるので、なおの事現実感がないのかもしれない。
「どうぞ、ごゆっくりしていかれて」
「……は、はい、ありがとうございます奥さん」
「……い、いただきますね」
といいつつも、二人はたっぷり数十秒の間はぼんやりとしていた、が、小麦とバターとミルクの織りなすスコーンの香りが立ち上ってきたので、現実にひきもどされたらしい。
「食べよっか、ルリエラ」
「食べましょうか、ミリィ」
今日のスコーンのジャムは、数種類の中から選ぶことができた。
ミリィはあれ以来気に入ったらしいローズのジャム。
ルリエラは苺やブルーベリーやラズベリーなど数種類のベリーをミックスしたもの。
これをそれぞれはんぶんこして食べるらしい。まったく仲の良いことだ。
「最近どう、ルリエラ」
「そうね……本を書くこと、家族にはようやく認めてもらえたし」
「おじいさんが後押ししてくれたんだっけ」
「えぇ、でもお家の手伝いなんかはちゃんとしてから、書くようにって釘は刺されちゃったわね」
「あー、でもわかるよ、ルリエラってさ夢中になるとお手伝いどころか寝食をわすれかねないもの」
「……そ、そんなことしないわよ」
「それで、どんなお話を書くの?」
「そうね……書きたいものがいっぱいあるの。たとえば小さな宝物を探し求める小さな旅人。たとえば描いたものが心を持つ画家。たとえばそこに存在しないはずの不思議な喫茶店を訪れたふわふわ茶色い髪の少女だとか」
「ルリエラ、それって」
「茶色い髪の少女はね、不思議な喫茶店で、いろんな人と出会ったり、変わったお菓子や美味しいお茶をいただいて、そこからまた別の場所に旅立って、さまざまの冒険をしてさまざまの宝物を手にして、またその喫茶店に戻ってくるの」
「ルリエラ……」
「そして少女はいつも、年齢の割に落ち着いた店主さんと、とってもきれいなその奥さんに出迎えられて、そこにいるお客さんたちにいろんな冒険の話をするのよ」
「……」
「ミリィ、こんなお話はどうかしら」
「ルリエラ、私は」
と、茶髪の街娘ミリィが何か言おうとしたとき――
ぎぃっ、ぎぃっ、と両開きの扉の“両方”が開けられた。
開けたのは、シンプルではあるが清楚さすら感じる黒いドレスと真っ白のエプロンをまとった女性二人。
そしてその真ん中に立つのは、初老の豊かな白髪の女性。
女性は「のばら」にいる客や従業員の視線を一身に集めながら、女童のようにきらきらした瞳でこう言った。
「アルフ……! 愛する我が息子よ! 久しぶりね!」
――そして嵐は 訪れたのだった。
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