喫茶「のばら」

冬村蜜柑

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第一章

ゆらりふわりとお仕事ですよ(その一)

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「ん……」

 ここはサフィロの街にあるごくごく普通のなんでもない貸し家のひとつ。
 正確には、その家のなかの一室。
 決して広いとは言えないその部屋の小さなベッドのふとんがもぞもぞ、もぞもぞ、と動いたかと思うと、そこからねぼけ眼の少女、いや、少女に見える少年ヤナギが顔を出す。
「……ねむい、けど、起きない、と」
 ヤナギは眼をこすりながらも、どうにかこうにかベッドから這いずるように出る。
 よし、今日はマレインやダーナに起こされる前に、起きれた、かな?
 二度寝さえしなければ、いいのだ。そう昨日のように。
 こんな容姿でもさすがにヤナギとてお年頃の少年。毎朝のように妙齢の女性に部屋に入り込まれて起こされるのは、少々恥ずかしいものがあるというものだ。
 ……それが嫌なら、そもそもマレインやダーナとのルームシェアをやめればいいのかもしれないが、完全なひとり暮らしというのも寂しいし、なによりやっていく自信がない。
 当初は、サイベルとのルームシェアも考えたのだが、向こうが不器用ながらもきっちりしっかりと断ってきたので、諦めざるを得なかった。

 洗面のため、夜着姿に薄い上着を羽織り、廊下に出る。
 今日も、寒い。
 洗面のための水もそれ相応に冷たい。どうも春はまだ先らしい。


 洗面をしたあとに、この貸し家のごく小さな簡単な厨房に立ち寄ると、既に出勤の準備をほぼすませているらしいマレインが、クラッカーのようなものをつまんでいるところだった。
「おはようだよー、ヤナギ。今日は起きれたみたいだねー」
「おはよう、マレイン」 
「ダーナはねー、もう出勤したよー。今日もまかない当番みたいだったからねー」
「料理人さんってのは朝が早すぎるよ……あ、それ僕にもちょうだい」
「どうぞだよー」
 マレインがつまんでいたクラッカーは、ダーナがお酒のつまみを作るために買い求めたもののようだ。ちょっと塩味がきいていて、ハーブが混ぜ込まれている。ちゃんと食べればそれなりに美味いだろう品だ。
 もそもそと、お酒ではなく水でそのクラッカーを流し込む。
 もうちょっとまともな食べ方をしてもいいのだろうが、どうせすぐに出勤して、すぐにあったかい紅茶とまかないごはんがいただけるので、むやみに胃袋を膨らますのもよろしくない、というわけだ。
「早く準備しちゃいなよー、待ってるからー」
「うん、ありがとうね。悪いね」
 ヤナギはクラッカーを一枚くわえて自室に戻り、チェストを引き出す。
 時間もないので、いちばん上にある赤地に白の水玉模様のドレスを手に取った。
 赤に合わせるなら、何色だろう。と、まばたき一回か二回ぐらいの時間だけ考えて、白地に若草のような緑色の模様がはいった帯を選ぶ。
 ヤナギのいつも着るドレスは、このあたりの女性たちが着るドレスとはちょっとデザインが異なる。襟元や袖が大陸東方風(正確には、東方の更に東にある極東列島風である)のつくりをしていて、でもスカート部分などはこちら風、つまり大陸西方風になっている。
 この街に来てから、ヤナギはほとんどずっとこのデザインのドレスを着ていた。
 喫茶「のばら」の「奥さん」である店主夫人イヴのドレスを仕立てている店と、同じ店でいつも仕立ててもらっているのだ。「奥さん」はドレスの宣伝をしてくれているということでドレス代は完全に無料なのだが、ヤナギの場合は変わったデザインで多少手間もかかる。ただ、仕立て屋の方でもデザインや仕立ての勉強になっているから、ということでヤナギの場合は生地代をはじめとする材料費にほんの少しだけ気持ち分を足した金額だけ払ってくれればいいと言われている。つまり、別のお店で普通のドレスを普通に仕立てるよりかなりはかなりお安くあがるのだ。
 その、東方風と西方風が入り混じった奇妙なドレスに袖を通し、長い帯をくるりくるりと巻いて、その両端をリボンのような形に整える。
 本当はもっといろいろな結び方が、それこそ百でも二百でも、いや、数え切れないほどにあるらしいのだが、ヤナギが父親から教わったのは、この結び方とあとは片手で数えられるほどしかない。
 ……父親、そう、ヤナギはこういうことはすべて父親から教わった。
 ヤナギの父は極東列島にあるどこかの領を治める領主の長子だった、らしい。らしい、というのはヤナギ自身は極東列島には行ったことがなく、祖父母の顔もみたことがないからだ。
 父は、長子ではあったが妾腹として生まれたためにで嫡子にはなれなかった。しかし、長子ということで、後継ぎをめぐるあれやこれやとは完全に無関係ではいられなかったとか。そこで父の父母(つまりヤナギの祖父母)は考えた。この子は女子として育ててしまおう、と。
 そうして父は、男でありながら名家の深窓の姫君としてしとやかに蝶よ花よと育てられた。
 そして――その名家には古くから仕える戦士の家系(ただの戦士ではなく、こちらで言う騎士のようなある程度地位のあるものたちようだ、とヤナギは考えている)があった。その戦士の家には、跡を継ぐべき男子がひとりだけいた。その男子、というのは実はもろもろの事情があって男として育てられた女子だった。
 その男子として育てられた女子こそ、ヤナギの母となったひとだ。
 歪まされて育てられた男女が、歪んだ想いを抱き、歪んだ恋をした。
 だが、歪んだかけら同士はそれはそれは強固にからみつき、くっついて離れることもなかった。
 二人が想い合っていることに気が付いたそれぞれの親たちは、二人を引き離そうとした、二人はそれに反発し、家を飛び出し、極東列島を出た。というわけらしい。
 生まれた家を飛び出して、正式に夫婦となり、ヤナギが生まれても、父と母は慣れ親しんだ格好、つまり異性装をやめなかった。一度ぐらいは、本来の性別が着るべきとされる服を着てみたことはあるようなのだが、それがあまりにもお互いに違和感があったとか。
 そんなわけで、ヤナギは本当に幼いころ、父と母は逆だとおもっていた。
 まぁそんな父はある日あっさりと亡くなり、母もそのショックから酒浸りで体を壊してすぐに後を追ったのだが。

 そんなことを考えながら、父親譲りのまっすぐな黒髪を簡単に木櫛ですいて、その長い髪の毛先を細いリボンで束ねる。
 ドレスの上から、これまた特別に極東列島風のデザインにしてもらった上着を羽織り、大きなカバンの中に財布や、化粧直し用のあれこれや、今日使うエプロンなどをたたんで入れて、準備完了。
 小走りで部屋を出て、共同で使っているリビングルームに向かう。
 そこにあるソファで、マレインはくつろいで座っていた。彼女が手にしているのは、小さな小さな本。待っている間に詩集か何かを読んでいたらしい。
「おー、今日もかわいいかわいいちゃんだねー、ヤナギ」
「それはどういたしましてだよ、マレイン。じゃ、いこうか。今日は施錠は僕がするから」
「あらうれしい。さっきねー、自分の鍵を部屋に忘れてきちゃったことにさー気が付いちゃったんだよねー」
 
 ヤナギが貸し家の施錠をしっかりと行って、喫茶「のばら」の給仕ふたりは出勤のための道を歩きはじめる。
「ふたりともおはよう」
「おはようだよー」
「おはようございます」
 ふたりが並んで朝の街を行くと、いろんな人とすれ違う。
 朝から散歩を楽しんでいるらしいご隠居、商品のお届け中らしい八百屋さんや肉屋さんで働いているひと、これから出勤らしい役人だとか、もう朝の仕事を終わったらしい農夫だとか。
 名前を知っている人もいれば、まるで知らない人もいる、もちろん初対面の人だっている。中には「のばら」によく来てくれる人もいる。
 そんな人達と挨拶をしたり、挨拶を返したり、会釈だけしたりとか、あるいはすれ違うだけだったりとかしながら、朝のひんやりとした空気を吸い込んで歩くのはとても楽しい。

 そうして、とりたてて特徴のない平凡な通りにある、同じぐらいに平凡な、青い屋根に白い壁の二階建てが見えてくる。
 その建物の、正面にある両開きの扉ではなく、横にある小さな扉を開けて、ヤナギとマレインは朝の挨拶をした。
「おはようございます、だよー」
「おはようございます、店主さん、奥さま、サイベル」
 今日はヤナギもマレインもちゃんとした挨拶だ。たいていは、店主アルフをからかいに走るのだが。遠慮したのはたぶん、今日はサイベルも居合わせたせいだろう。生真面目で誠実で何事も一生懸命で、そしてとても口下手の彼の前でアルフをからかい倒そうものなら、多分彼は、そういうことはよくないという旨のことを、とてもとても不器用に困ったように言葉につまりながらも注意してくるに違いなかったから。
 三人は今日の菓子メニューについて話していたようだった。
「とりあえずはカバンと上着、置いてきますね」
「きますねー」
 スタッフルームとして使っている部屋の、それぞれに割り当てられた棚にカバンと脱いだ上着を置く。
 今現在はスタッフルームとして利用しているこの部屋はもともとは廊下か、あるいは階段部屋だったらしく、木目の綺麗な大きならせん階段が部屋のほどんどを占拠している状態だ。そのせいなのか他の理由なのか、二階廊下の冷たい空気が流れ込んできている気がして、ここはちょっと寒い。
 手早くエプロンを身に着けて(今日のエプロンはベージュ色でふちにフリルがあって、大きなポケットが二つある。そして胸当て部分が無いものだ。これは汚れが目立ちにくく、実用的なわりに可愛いので気にいっている)店内に戻る。
 店主さんと奥さま、それにサイベルの話はちょうど終わるところだった。
「じゃあ、今日はこの通りによろしくおねがいしますねサイベル」
「……はい」
 返事をして、のそりのそりと大きな体を縮めるようにしてサイベルは厨房と店内をつなぐ扉をくぐりり抜ける。
 まったく、どうしてあの大きな体格とあの大きな手指で、いつもあんなに可愛らしくて繊細な美味しいお菓子を作っているのか。これは「のばら」の七不思議だ。
「それでふたりとも、今日の店内清掃なのだけど」
「はいー?」
「はい」
「清掃は昨晩模様替えのついでにしっかり行いましたし、今朝もアルフと私でほとんど済ませてしまったの。あとは花売りさんとかパン屋さんの配達を待つだけなのだけど」
「それは私たちが、ここで待機するからね。マレインとヤナギは、先に厨房に行って、今朝のまかないが早く完成しないか急かしに行きなさい」
 それはつまり、朝ごはんまで何もしなくていいという事だった。
 たまにはこういうときもある。
「はーいですよー。まかないごはんを急かすという超重要任務を任されてしまったのでー、張り切っていって来まーす、だよー」 
 マレインはささっと厨房へ向かう。
「じゃあ、僕も行ってきます」
「あら、ちょっと待ってヤナギさん」
「何でしょうか?」
 ちょいちょい、と手招きをされているようだったので、イヴ奥さまの近くに行ってみる、と。
「ヤナギさん、今日の御召し物もとても似合っていて可愛いわ。ただ、この赤に白の水玉模様の元気の良さに対して、髪型がおとなしめだと思うの」
 そういって、イヴ奥さまはヤナギの後ろに回り、ゆったりと毛先に近い場所で結んだリボンをほどく。
「いつもさらさらね」
 そして、そのほっそりした指でヤナギの黒髪をすく。
 ……なんでこんなに恥ずかしいんだろうか、でも人に髪の毛をいじられるのってどうしてこんなに気持ちいいんだろう。あ、でも僕、こうして髪の毛いじってもらうのって、職業として髪結い師してる人とかを除くと、あとは父さんと、それに奥さまぐらいだった。さっきからなんかアルフィ―ゼさまがものすごい射殺せそうな目で見てきてるけど、あなたは普段からこんなきれいな奥さまを独占しまくりなので、ちょっとは僕たちに分けてくれるぐらいはバチが当たらないですよ、というかバチを当てないでくださいよね、アルフィーゼさま。
 そんなことを考えているうちに、イヴ奥さまはヤナギの髪を頭の高い位置に結い、大きな赤いリボンを結び終わった。
 それを正面から見て、ちょっと離れたところからも見て、そして角度を変えてあれこれ確認して、ようやくイヴ奥さまは満足したらしい。
「完成、思った以上に可愛くできたわ」
 いえ、その、むしろ、僕を可愛くできたと満足げにはしゃぐあなたが可愛いですとヤナギが言い出せる度胸とか勇気とか無謀その他があるわけもなく、ヤナギは慇懃にお礼を言うにとどめておく。
「ありがとうございます、奥さま。このリボンは閉店の時にお返しします」
「いいえ、貰ってやってくださいな、これはこのまえ街に出た時に、あなたに似合うだろうと思って買い求めた品なのよ」
「……それでしたら、いただいておきますね。あとで給料から天引きとかは言わないでくださいね。……ありがとうございます。じゃあ僕も厨房に行ってまかないごはんを急かしてきますので」
 ちょっと皮肉を利かせつつも、重ねてお礼を言って、その場を離れる。

 イヴは今、三十四歳だ。あと数か月ほどで三十五歳になると、ヤナギも知っている。
 ヤナギはそろそろ十六歳になる。
 その年の差は、親と子ほども違う。
 イヴは、自分にも居たかもしれなかった『子供』を想っているのかもしれない。
 ヤナギの方は、今更亡くなった父母の事を想ったりはしない、そんなことで胸を切なくさせたりなんてしない、けど。
 もしも、もしも、もしもの話だけど。
 イヴさまに子供が生まれたら、それはとても美しくて愛らしい花のようで、皆のおひめさまに違いない。ああ、だけど半分はアルフィ―ゼさまの血だから、きっと頭も良い。確信犯で皆を振り回すそれはそれは悪女なおひめさまだろう。それでも、わかっていても、皆、愛さずにはいられないのだろう――

 そんな、ありえないしありもしない、夢みたいなことを、ヤナギは思った。


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