喫茶「のばら」

冬村蜜柑

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はじまりの章

はじまりは冷めた紅茶と王冠

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 ふと、誰かによばれた気がした。
 
 エリピアの女王イヴレッタは花瓶の薔薇をつつく手を止め、顔をあげる。
 しゃらり、と大きな黄金の耳飾りが音を立てた。
「……?」
 だが、だれもいない。よばれた、とおもったのはただの空耳か、外の風の音か何かを勘違いしたのだろう。

 ……それにしても今日の“執務”の時間はまだ終わらないのだろうか、とイヴレッタはぼんやりとした頭で考える。
 執務といっても、イヴレッタの目の前にある、飾りだらけでとてもものをかくために存在する机とはおもえないそれの上には書類など一枚も、ない。
 あるのはみごとな赤い薔薇がいけられた花瓶と、銘木に植物模様が彫刻されたからっぽの文箱、使われた様子がないし使った覚えもないインク壺、同じく使った記憶のないきれいな真っ白の羽ペン。
 あとは、駒がガラスでできたゲームの盤と、もうすでに冷めきった紅茶のはいったティーカップ。
 別にイヴレッタは執務をするために執務室の机の前にいるわけではない。
 ただ、女王としてのつとめ、しきたり、ルール、そういうものがあって決まった時間はこの執務室にいなければいけない、らしかった。
 ゲームの盤は執務室には本当はいらないものなのだと叱られたこともあるが、イヴレッタにとってはこの部屋に一番必要なものだった。
 これが無ければこの部屋で何をしてすごせばいいのだろうか?
 イヴレッタは白いガラスの駒をひとつとって、どこに動かそうかと思案する。
 白い駒を動かし終わったら、次は赤い駒も手に取って、移動させる。それがすめばまた白い駒にもどる。
 対戦者はいない。もともとこの部屋に女王イヴレッタ以外はいない。
 皆イヴレッタになどかまっていられない。
 ここ数年ほど、隣国との戦争が続いている。
 別にイヴレッタが戦争をしたかったわけじゃない。イヴレッタには戦が今現在どうなっているのかはもなにもしらされてないし、なにかしたわけでもない。ずっとずっとそうだった。いままでと同じ。
 ――勝てるの?
 そう、一度だけ家臣に聞いたことがある。
 返ってきたのは、見下すようなひどくつめたいぞっとするような眼と……当然勝ちますよ、女王陛下はなにも案じなさいますな、すべてうまくいきます、女王陛下はどうぞいつもどおりお過ごしくださいませ。という言葉。
 いつも通り。
 そう、いつも通りに何もするなということだ。
 生まれてずっと、三十年ぐらい、そう言われ続けてきた。
 だからイヴレッタも何もしない。
 そういえば……イヴレッタにそれを言った家臣は最近見かけない。
 夫の顔もここ数か月見ていないので、あまり気にしたことはなかったがなんとなくだが宮廷から人が減っている、気がする。
 冷めきった紅茶を飲む。香りもしないし、正直あまり美味しくはない。ティーカップがそこにあったので手を伸ばし、飲んだだけだ。ひとを呼びつければ淹れなおしてももらえるのだろうが、別にもともと紅茶を美味しいとおもったこともないので、冷たい状態でかまわなかった。
 だから、イヴレッタがそれを口に出したのはなんとなくにすぎなかった。
「……おいしくない」
 そんな不平不満をいったとしても、紅茶がおいしくなるわけじゃない。
 それでも
 不平不満を言っても、同調したり反論したりしてくれる者がいるわけでもない。
 それでも
 一緒に紅茶を飲んでくれる者が、ひょっこり現れるわけでもない。
 それでも――
 

「ふぅん、女王陛下にお出しするものだから、いい茶葉はつかっているだろうけど。淹れ方が悪いのかな、それとも水があわないのかな」

 そして「彼」は現れた。 

「……だぁれ?」
 ドアを開けて部屋に入ってきたのは見たことのない若い男だった。すくなくとも、彼女が普段顔を合わせる家臣や従者たちではない。
 黒い髪に青い瞳。中肉中背というにはすこし背が高くてすこしやせている。草色に染められた皮の鎧と、同じ色のブーツ。腰のベルトからは剣が下がっている。黒っぽいマントを留めているブローチは、瞳の色に合わせているのかもしれない青い石でできていた。
 何者か尋ねると、青い瞳が鋭い光を放つ。その光が、とてもとても鋭くて、痛くて、悲しくて、おもわずイヴレッタは身をすくませた。聞いてはいけなかったのだろうか。
 と、考えているうちに、彼はブーツの音をこつこつ言わせて近づいてくる。
 あっというまに、執務机のすぐそばまで寄ってきて、片手をさしのべてくる。そして一言
「それ、ちょうだい」
「これ?」
 と、反射的に、イヴレッタは手に持っている東方からはるばる運ばれてきた薄く繊細な真っ白のティーカップを差し出す。中に紅茶は、まだ一口分はのこっていた。
「あー、それも気になるけど、今はこっちだね」
 男はカップは受け取ることなく、さしのべていた手でイヴレッタの頭を指さす。
 そこに載っているのは、略式ではあるが王冠だ。
「これがほしいの?」
「そうだよ」
 ずいぶんと変わったものを欲しがる人だ。とぼんやり思った。別にあげてもよかった。どうでもよかった。少し頭が軽くなるだけ。今日つけているのはそんなに重量はないが、それでもつけていないときよりは肩がこる。
 だから、すぐに王冠を取った。
 しかし、イヴレッタはその王冠を手にほんのちょっとだけ考えた。
 この人は、王冠を受け取ったらすぐに部屋を出て行ってしまうのかしら? この王冠をあげなければ、ちょっとだけでもこの部屋にいて、ちょっとだけでも話し相手になってくれて、もしかしたら一緒にゲームとかしてくれないかしら。
「あげてもいいわ、けど」
「けど、なんだい?」
「ちょっとだけ、私と一緒にいてくださらないかしら?」
 男は、目を見開いて、音がしそうなほどにゆっくりとまばたきをする。どうやら、驚いているようだった。
 そして
「いてあげるよ、キミが望むなら、いくらでも」
「いくらでも?」
 それはどのぐらいの時間だろうか、お茶を飲むぐらいの時間だろうか、ゲームを終えるまでだろうか、それとももしかしたらもしかして晩餐の時間ぐらいまでは居れるのだろうか。
「いくらでもいっしょにいてあげる。私がキミか、どちらが先に召されるかはわからないけれど、それまでは一緒だ」
「お茶をいっしょに飲んでくださるの?ゲームをいっしょにしてくださるの?……晩餐もいっしょなのかしら?」
「あぁ、晩餐だけじゃないよ、その後も、朝になっても、その次の日も、その次の次の日だって、ずっとずっとだ。約束する」
「約束、ね」
「約束」

 そうして、愛に餓えた女王イヴレッタ・ロゼ・エリピアードは王冠を手渡した。


 その瞬間、彼女は素早く横抱きにされてしまう。

 かとおもうと部屋の外からばたばたとうるさいぐらいのたくさんの靴音が響き、そして
「女王陛下ぁ!」
 イヴレッタには見慣れた家臣たちだった。だが、なぜだろうか、彼らは一様に怒りをにじませ、あせりをみせ、殺気だっている。
 なぜこんな感情をぶつけられるのかイヴレッタにはわけがわからない。
 それに、それに、男に抱え運ばれているのも落ち着かない。それに、それに、なぜ自分の心臓の音がこんなにも急いているのか。
「一足遅かったな」
 男はにやりと笑い、イヴレッタを抱えながらも持っているそれ――王冠を、家臣たちに見せた。
「エリピア王国のイヴレッタ女王陛下は、ユレイファ王国が『保護』した」
 そうして、動けないでいるイヴレッタの家臣たちに宣言する。
 呆然とする家臣たち
 そして、目を白黒させているイヴレッタ女王、いや、元女王に、王冠を奪った男はこうささやいた。とても、優しく甘い声。
「あらためて初めましてだね、私はアルフィーゼ・ドラク・ユレイファ。いちおうユレイファの王族をやっている。これからよろしく、私の奥さん」
 
 イヴレッタは、やっぱりわけがわからなかった。
 ユレイファという国がイヴレッタの国に戦争をしかけられていたということも、彼がイヴレッタから王冠をもらったのは王位を譲りうけるための古式にのっとった行為なのだということも、
 そして、このときイヴレッタはアルフ――アルフィーゼ・ドラク・ユレイファの妻になったことも、
 みんなみんな、後から丁寧に説明されてようやくのみこんだことだった。
 ――けれど、これだけはなんとなくだが、予感していた。

 それは、もうこれからはひとりで冷めたお茶をのむことはないのだということ。
 


 女王は、亡国の女王となった。
 これより語るは、その先の物語


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