ダイシャライダー！

これがハンドトラックライド！

第3話 これがおれのくだり道

「なぜだ！　なぜ車検くるまけんに入らない！」

　坂道を上ってきたエンツォがおれに食ってかかるが、なぜといわれても困る。

「いや、どう考えてもおかしいでしょ。台車乗って坂道をくだる遊びで世界がどうとか。つうか、そんな世界一、きいたことないですって！」

　おれの反論にエンツォ先輩は肩をすくめながら手の平を上にむけ、首を振る。なんでおれのほうががわかってねぇなぁ、みたいな感じになってるんだ？

「わかってねぇなぁ」

　そのまんまかよ！

「いいか、ハンドトラックライド、ハントラはれっきとした競技だ。ハンド・トラック・ライディング・インターナショナル・コミッショナー、いわゆるHTRICエイチトリックの世界大会だって開催されているんだ！」
「知らないですよ。そんな組織！」
「ではきくが、君はこの世界のなにをどれだけ知っているというんだ？　自分はすべてを知っていると思うのは昔からの君の悪い癖だ」

　いや、あんたこそおれのなにを知ってるんだよ。つうかさっき会ったばかりだろうが。

「とにかく、おれはハントラとかいうのはやらないし、荷車検査部とかにも入るつもりはないです。そもそも、なんで荷車検査部なんですか？　ハンドトラックライド部とかにすればいいじゃないですか」
「馬鹿だな君は。そんなクラブ名にしたら『台車レースをする部活動は認められません』って学校側に承認されないだろう」

　荷車検査部が認められてるのが奇跡だろ。つうか、ハンドトラックライドが台車レースだってわかるやついねえし、自分たちでもおかしいことやってるってわかってるんじゃねえか。一体どこにツッコめばいいのか、迷路に陥った気分だ。

「それに、さっきコウバン先輩が合わないと思ったら入る必要はない、っていいましたよね？」
「ああ、確かにいったね。けれど、その判断をするには拙速すぎるんじゃないかい？」

　いや、あんなもん一瞬見ただけでわかるわ。ただの馬鹿だって。
　とはいえ、ここで「入れ」「嫌だ」の押し問答をしているのでは埒が明かない。きっぱり断らないと、あとあとで面倒になる。訪問販売で血液さらさらになる布団を100万円で売りつける奴と同じで、相手に付け入る隙を与えてはいけないのだ。
　強引に引き留められても、この場から逃げ出さないと、おれの虹色の青春の日々は、ただの馬鹿の一員として過ごすことになりかねない。

「とにかく、おれはこれで失礼します」

　はっきりと入部を断って、さっき先輩たちが台車レースをした坂道をくだろうと歩きだした。
　と、そのとき。坂の下のほうから「おーい、みんな来てるぅ？」と、妙に明るい声が聞こえてきた。
　声がしたほうに目をやると、パステルピンクのジャージを着た一人の女の子が台車を押しながら坂道を登ってくるところだった。

　おれはこのとき、二つの間違いを犯した。
　まず、おれはなにがなんでもこの場を離れているべきだったこと。
　そしてもう一つ。おれは、その女の子に一目惚れをしてしまっていたことだ。

　艶のある烏羽色の長い髪を春風になびかせた姿がスローモーションとなっておれの網膜を焼き尽くしていく。切りそろえた前髪が小さな輪郭によく似合っていて、くるんと上をむいた長いまつ毛と、オリーブグレーに近い色をした大きな瞳はエキゾチックな妖艶さを放ち、小さな顔のなかでも特に目立って美しかった。
　阿呆みたいに突っ立ってそのジャージ姿の女子に見とれているうちに、その子は車検の三人のもとへやってきていた。

「エンツォ、遅くなってごめんね。台車が修理から戻ってきていたから、引き取りに行ってきたよ」
「サンキュー、カオル。これでようやく本格的に練習再開できるな」
「やっぱり練習もレース形式じゃないとね」

　そういってくつくつと笑う彼女をぼけーっと眺めていたところで、不意に彼女と目が合った。

「あれ、君。新顔だね？　もしかして、新入部員!?」

　ぱっと瞳を輝かせてカオルがおれのそばに駆け寄ってきた。

「あ、あの。おれ……」

　どぎまぎしていると、エンツォがいった。

「そいつは見学に来たんだが、残念ながら入部はしないそうだ」
「え？」

　カオルは一瞬エンツォをみて、もう一度おれの顔をみた。それまでの彼女の輝くような表情は影をひそめ、その大きな瞳は悲しみに曇った。
　おれは急に気まずくなって、「いや……その」と言葉にならない声を吐き出す。カオルは一歩前に進み出ると、うつむき加減のおれの顔を覗き込む。長い黒髪がさらりと流れて彼女の頬をすべる。

「どうしても、入部しないの？」

　彼女がそういうのと同時におれの指先に柔らかな感触が伝わってくる。彼女の両手がおれの指先をやさしく包み込んでいた。おれの心臓が一度、どきんと強く跳ね上がった。

　はっきりいおう。
　これまでの人生で、女の子と手をつないだことなど一度たりともない。その柔らかな指先の感触も温度も、おれの目をじっと見つめるその潤んだ瞳も、なにもかもが初めての体験だった。
　しかし、一刻のスケベ心と引き換えに、おれの三年間の虹色ライフを失うわけにはいかない！
　もちろん、美少女を目の前にして（しかもめちゃくちゃタイプ）そのお願いを断ることは、簡単なことじゃない。おれの中のもうひとりのチャラい感じの人格も「いいじゃん！　やっちゃいなヨ、ハントラやっちゃいなYO！」とはやし立てている。けれど、台車乗りなんて馬鹿げたことを高校生にもなってやっているなんて知れたら、それこそまわりからどんな扱いを受けるか分かったものじゃない。針の筵むしろは中学生のときに懲りたのだ。

「せっかく見学に来たんでしょ、体験入部だけでもいいから」

　カオルはそういって体をおれのほうへと寄せる。風になびく彼女の美しい髪から甘いバニラの香りがした。
　だが断る。
　そう心を決めた次の瞬間。彼女はつないでいた指先から右手をほどき、その手をおれの下半身へと伸ばしていた。えっ、と思ったときには、彼女の右手はおれの股間を制服の上から弄っていた。
　ちょっとまって、こんなところで、まさか……そんなプレ……

「いッ……てぇぇーっ！」

　尾上山の展望台におれの絶叫が響き渡る。
　彼女は右手にぐっと力を込めて服の上からおれの睾丸をガッチリ握っていた。おれはその押しつぶされそうな痛みから逃げようとして身をよじるが、彼女の右手はスッポンのごとく、おれの股間に食いついて離れない。
　それどころか、気付いたときにはおれは背中から地面に押し倒され、彼女にマウントポジションを取られたうえに、右手は股間、左手は肩をがっちり押さえつけられて身動きが取れなくなっていた。

「ねえ、君も一緒にハントラやろうよ？」
「い……嫌ですよっ！」

　股間が爆発したのかと思うほどの激痛が走り、思わず悲鳴をあげる。それでも構わずにカオルは右手にじわじわと力を加えていく。なんだ？　なんなんだこの女！
　目の前で繰り広げられるこの珍妙な取っ組み合いにはこれっぽっちの関心も示さずに、腕組みをしながらエンツォが飄々といった。

「ああ、紹介が遅くなったけれど、いま君に乗っかっている子は、うちのマネージャーをやってくれている名足なたり馨かおる。ちなみに、アームレスリングの世界王者だ」
「よろしくね、シュンくん」

　股間を握ったままカオルは満面の笑顔でいった。お願い、右手に力をこめないで……!!

「どうだ、来道シュン。おれたちの車検くるまけんに入ってみないか？」
「……はい……お願いします……」

　ハエの羽音のような声をあげると、ようやくおれの股間はカオルの右手から解放された。
　これで、晴れておれも馬鹿の仲間入り。
　さようなら、おれの虹色デイズ。こんにちは、おれのくだり道人生。