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35 すれ違いと思い出と
しおりを挟む予定通り一時間程度の残業をしてから、カウンセリングルームに向かった。この場所は以前嫌な場面に遭遇してしまった場所だ。足を向けるとあの時のことを思い出してもやもやしたが、今日は約束しているので大丈夫だろう。でもカウンセリングルームに入る時は、そっと覗いてから足を踏み入れた。
「亘くん、お待たせ」
「里帆ごめん。もうちょっと待っててもらっていいか? 事務処理が残ってて」
「大丈夫」
よかった。あの女性はいなかった。ほっとして里帆はソファに腰かけた。
亘は受付にあるパソコンでなにかをパチパチと打っている。カウンセリングだけではなく他の事務作業も忙しいらしい。
「そういえば久しぶりか?」
亘はパソコンを見ながら里帆に声をかける。
「うん……そうだ、お弁当ありがとう。おいしかった」
「よかった。何も言わなかったから驚いただろ」
「うれしいサプライズだったよ」
おかげで午後の仕事を気合い入れてがんばることができた。
「仕事は順調?」
「う、ん」
ふと佐々川の顔を思い出してしまった。普通に仕事として関わっていくなかで里帆は気まずさを残していたけれど彼はそんな表情は一切見せずにいつも通りだった。佐々川の態度を見て安心して里帆もいつも通りに接することができた。でも彼への答えは決まっていた。いつ伝えようかな、と迷ったりもしている。
「……なんかあった?」
亘は仕事が終わったのか、パソコンを閉じカウンターから出てきて、里帆の前に立つ。
「な、なにもないよ! 順調順調っ!」
でもさすがに亘には話すことができない内容だ。里帆は誤魔化すように笑った。
「……もう完成?」
「そう。今制作中だからあとは広告とリリースに向けた準備かな」
「おめでとう」
「ありがとう。全部亘くんのおかげだよ」
「里帆がたくさんがんばったからだろ」
亘の手が里帆の頭を撫でる。久しぶりの温もりに、心があたたかくなった。亘に褒められることが一番うれしい。学生時代も亘に褒めてもらうために勉強をがんばっていて、その時のことを思い出した。
「じゃあもう俺の役目は終わりかな」
頭を撫でていた手が離れていく。
「え?」
「グッズを試して使うこともないだろ? 恋人ごっこも終わりだね」
「そんな……」
里帆は、亘が何を言い出すのかと困惑していた。確かに里帆の仕事の協力する形で『恋人ごっこ』をしてくれていたけれど、こんなに急に終わりがくるなんて嫌だ。
だって告白もしていないのに。
「まだ知りたいことあるよ。もう少しだけ、だめ?」
里帆が訴えかけても亘は黙ったままだ。
もしかして、あの女性が関係しているのだろうか。もう他にいい人ができたから、私とはおしまいってこと?
「だって私、亘くんのこと」
口が勝手に動く。里帆は自分が何を言おうとしているのか自覚して一度言葉をとめた。手をぎゅっとにぎり締めて、もう一度口を開く。
「亘くんのこと……す、き……なのに」
里帆は目をぎゅっとつむり、うつむいていた。
自分から告白するのは学生の時以来だった。昔は振られてしまったけれど、でも今は状況が違う。昔よりも亘との距離は近いし、親密なことだってしている。だけど、怖い。学生時代の失恋が苦しかったので、あんな思いはもう二度と――。
「……勘違いだよ」
「……え?」
見上げた里帆の頬を、亘の手が包んだ。
「昔、告白してくれたことがあっただろ?」
亘の目を見ると、彼はひどく悲しげな表情をしている。
「あの時も思ってた。里帆の気持ちは好きじゃなくて憧れだって」
「違うよ、亘くん」
「その気持ちのまま俺がやらしいことしたから、里帆は思い込んでるんだよ。俺のこと好きだって」
「何言ってるの、そんなに子どもじゃないよ」
昔だって本当に好きだったし、今でも憧れではなく好きだと胸を張って言える。告白をしたのは勢いだったけれど、はっきり言えるほど自分の気持ちに自信が持てている。
「俺が悪いんだ、ごめん。里帆にそう思ってもらえるように仕向けたんだから。やさしくして甘やかして、まわりの男よりも俺を選んでもらえるように」
亘の顔をじっと見つめながら話を聞いていた。なのに内容がうまく頭に入ってこない。
「俺は、昔から里帆のことを一人の女の子として好きだったよ」
亘は苦しそうに眉根を寄せた。甘い告白とは程遠いものだった。
「だから里帆が好きだって言ってくれてうれしい。昔も今も。でも里帆は思い違いしてるんだろうなって思って、いつか本当の気持ちに気付いたらと思うと怖くて、受け入れられなくて逃げた。今も――騙してるみたいで心苦しい」
昔からやさしい亘のことが好きだった。やさしくて、包み込んでくれるようなあたたかさで、頼もしいお兄さん。だけどこんなに苦しんでいたなんて。今までなにも気づかなかった。
「……しばらく会うのはやめようか」
はっきりとした結論に、里帆は目に涙を浮かべた。
「……なんで、どうして……ひどい」
里帆の告白を信じてくれない。やっと気持ちを伝えることができたのに。向き合えることができたのに。
気持ちを信じてくれないことほど、悲しいことはない。
亘はもう里帆と目を合わせない。向き合おうとしたのに、もう亘のほうが拒否をしてしまっている。
「ごめん。今日の飯は今度にしよう。家まで車で送るから」
私は手を握りしめてうつむいた。怒りさえも込み上げてくる。
「……里帆」
里帆が黙ったままでいると、亘は里帆に一歩近づく。でも里帆は、亘から距離を取った。
「いい。送らなくていい。もう帰りますっ」
「……っ……」
亘の慌てた顔が見えた。でも里帆は亘に背を向ける。涙を見られたくなかったのと、腹が立っていたからだ。
「さようなら、桐ケ谷さん!」
「っ、里帆!」
里帆は走ってカウンセリングルームを出た。名前を呼ばれたけれどきっと彼は追いかけてはこない。幸いエレベーターはすぐに来てくれて、乗り込み一階のボタンを押した。どん、と音を立ててエレベーターの壁に寄りかかる。両手で顔を覆って、出てくる涙を拭った。
今度は誰もいなくてよかった。誰にも見られなくてよかった。
里帆は流れる涙を拭いながら声を殺して泣いていた。
***
小さい頃から亘のことが大好きだった。
物心ついた時から一緒に遊んでくれたお兄ちゃん。やさしくて大好きだったけれど、それがちゃんと恋だと気が付いたのは遅かった。
高校一年生の時だ。
その時亘は大学生で、やたらと女子にモテるのは知っていた。家の近くで女子が待っていたり、特にバレンタインの時期はチョコを渡しに来たり、お隣だと知ると里帆に預ける子さえいた。でも亘はその人たちを嫌がったり冷たくはしなかった。そのかわり特にやさしくもなく、淡々としているように見えたのが大人だなと思っていた。
「亘くん彼女作らないの?」
確か、夏休みに亘の家に遊びに行った時に、冷たいアイスを食べながら何気なく聞いた時だ。
「ずっと好きな子がいるんだよね」
「えーっそうなの! 亘くんなら大丈夫でしょ」
「……そうだといいんだけどね……」
遠い目をした亘の表情は大人びていた。
それから、亘に好きになってもらえる子は幸せだなあと何気なく思った。うらやましいだけではなく、胸がちくりと痛んだ。
このやさしい人が、里帆以外の女の子にもやさしくしているのだと思ったら、苦しくなった。
その時から亘を意識し始めて――するとどんどん魅力的に見えて、のめり込んでしまった。いろいろと口実をつけて大学生になった亘に勉強を教えてもらったし、なにかと休みの日も遊んでもらっていた。好きで好きで、まわりが見えなかった。
だけど大学生の亘は里帆からしたら大人で、はやく追い付きたいとがんばっていた。
告白をしたのは、亘が一人暮らしをして会えなくなってしまうことが嫌だったからだ。
結局玉砕に終わったけれど、亘はその時、どんな気持ちだったんだろう。
あの時好きだったのなら、ちゃんと言ってくれていたら――。
「――っ」
里帆はぱちりと目を覚ました。部屋は暗く、静まり返っている。スマホを見るとまだ夜中の二時だった。
「……夢か……」
里帆は目が覚めてしまったのでそのままスマホのネットニュースなどを眺めていた。
学生時代の夢を見た。大人になってから見たことなんてなかったのに、亘とのことがあって、最近は学生時代の夢をよく見るようになった。
そのたびに真夜中に起きては眠れなくなる日々だった。
亘に別れを告げられてから約二週間が経とうとしている。里帆はあれから亘に連絡をしたくてもすることができなかった。亘からはもちろん来ない。本当に別れたんだと実感してしまう。
身体の奥には亘の熱がたくさん刻まれているのに。
「暑……」
里帆は起き上がり、タオルで汗をふき取る。
もう真夏が近づいていた。
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