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10 ランチと美女

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「ごめん、わた……先生っ」

 社員食堂の前には、今日のメニューをお知らせするように写真が掲示されている。みんなその写真を見て今日何を食べようかと決めているところで、混雑していた。人をかき分けて入り口付近に立っている亘に声をかけた。
 今日のお昼は、亘と食事の約束をしていた。

「いいよ、ここではどう呼んでも」
「でも一応社内だし……」

 きょろきょろとまわりを見る。知り合いがいて当たり前の社員食堂だ。悪いことをしているわけではないがどうも気になった。

「俺らはもともと知り合いだろ?」
「……うん、まあ……」
「まあ、里帆の好きなようにしてよ。なに食べる?」
「うーんとね……」

 社員食堂に来るなんて久しぶりだ。一時期は食事をするのが億劫だったのに今では写真を見るとお腹がきゅうと鳴るようにまで回復していた。

「ここのカレーうまいよ。あと麺類もけっこうおいしい。定食も栄養バランスとれてていいし……」
 嬉々として亘はいくつもの写真を指差した。
「亘くん詳しいね」
「まあね。毎日来てるから」
「あれ、お弁当は?」
「あー……あれは里帆がいるから作ってるようなものだね」
「えっごめん! てっきり亘くんが作ってるついでだと思ってた……」
「いいよ。料理好きだし。それよりはやく食べよう」

 里帆はうなずいて、とりあえず今日は定食にしてみようと決めた。今日の定食は、生姜焼きとサバの味噌煮どちらかだ。うーんと悩んでいるうちに亘はさっと決めたらしく、ラーメンの列に並んでいた。


「亘くんお待たせ」

 トレイを持って、先に席に座っていた亘の正面に座る。窓際のテーブル席だ。ほどよく陽射しが入ってくるし、外の景色を見ながらお昼を食べるのは心地よさそうだ。いつもお昼はデスクで過ごしていたので新鮮だ。

「時間かかったなー。悩んだ?」
「うん。結局サバの味噌煮にしたよ」
「うまそう」
「ごめんね、ラーメン伸びちゃうね。先に食べててよかったのに」
「だってせっかくの食堂初デートだろ」
「っ! わ、亘くんっ」
「いただきます」
 動揺する里帆を放って亘は箸を持った。
「……もう……」

 亘の選んだラーメンは、普通の醤油味だ。けれど野菜とチャーシューがたっぷり乗っていてボリューム満点だ。里帆が選んだサバの味噌煮は、メインのほかにごはんとすまし汁、冷ややっこ、きんぴらごぼうサラダがついていてしっかり栄養を取ることができる。亘がいなければ食べられなかったものだ。

「どう? うまい?」
「うん。おいしい」
「よかった。仕事ははかどってるか?」
「ぼちぼちかなあ……まだちょっとどうなるかわからない」

 資料を作成しているものの、やっぱり不明瞭な部分が多い。みんなの意見を聞いて新たなアイディアが生まれたりすればいいのだけれど、まだ不安だ。

「一歩ずつ進んでいこう」
「うん……」

 とはいっても企画開発期間は限られているし、気持ちは急くばかりだ。どうしたらいいのか自分でもわからない。それでも向き合わなくてはいけないし、逃げたい気持ちなど少しもない。今は亘のアイディア「恋人ごっこ」を試してみるしかない。初休日デートはもう明日だ。

「亘くん、明日さあ……」
「あら、桐ケ谷先生こんにちは~」

 里帆が身を乗り出した時、頭上から知らない声がした。見上げたきれいな女性は里帆ではなく亘のことしか見ていなかった。

「……こんにちは」
 挨拶を返した亘の表情が仕事モードに切り替わった。

「先生も食堂利用されるんですね」
「ええ、たまにですが」

 笑顔でさらっと嘘をついてる。少し笑ってしまいそうになりながら、完全に蚊帳の外である里帆は二人の会話を盗み聞きながら箸を進める。女性はトレイを持ったまま亘と雑談をしていて、まさか隣に座ってしまうんじゃないかとひやひやして、はやく食べ終わらなければとごはんを口に突っ込んだ。

「あなたは企画開発部の……?」
「っ、四宮です」
 里帆はぺこりと頭を下げた。
「彼女、もともと知り合いなんです。さっきたまたま会って」
「すごいですねその偶然。私は秘書課の小林です」
「初めまして」

 秘書課とはほぼ関わりがないが、どうりで綺麗なわけだ。
 抜群のスタイルで上品なスーツを着こなして、派手すぎないけれどナチュラルではないメイクと、落ち着いた所作。すべて里帆が持っていないものだ。

「では先生、またお願いしますね」
「はい。お待ちしています」

 また、ということは彼女もカウンセリングを受けているということだ。あれだけきれいだったらプライベートでも充実していそうだし、仕事も自信のありそうなのに、彼女でも悩みはあるものなんだろう。

「……なんだ、隣に座らなかったね」
「それは勘弁してくれ」
「亘くん一気に疲れた顔になったよ」
 仕事モードから、普段のモードに切り替わる。
「ああ……あの人ちょっと苦手で」
「そうなの? セクシーで綺麗な人じゃん」
「いや、お前なあ……なんでもない。仕事だからこんなこと言っちゃだめだよな」
 亘はため息を吐いて、ラーメンをすする。やさしくてなんでもできる亘でも、苦手な人がいたりするんだ、と少し安心した。

「……それよりなんか言いかけてたか?」
「そうだ。土曜日、映画行きたいな」
「いいよ。観たいのあった?」
「そうそう。アクション映画!」
「却下」
「ええっ」

 ばっさりと切り捨てられてしまった。

「やっぱり里帆には任せられないな。俺が考える」
「でも……したいこと考えて、って」
「お前のそれは恋人と行くデートとして考えたことじゃないだろ?」
「あ……」

 そういえばそうだった。デートとして考えたのではなく、亘と映画を観に行くことや、自分が観たいということで決めた。昔みたいに制服を着たまま一緒に映画に行ったことを思い出しながら考えただけだった。

「でも亘くんとだから……急にそんな思い込みはできないよ」
「……そうだろうけど、企画のために意識変えなきゃいけないだろ?」
「……はい」

 本来の目的はそれだ。ずっと考えているはずなのに忘れてしまっていた。すべては仕事のために亘は協力してくれている。里帆自身がそのことを忘れてしまってはだめだった。

「そんな顔するなって、ちゃんと恋人気分味わわせてやるから。明日はデートっぽい服で来るんだぞ」
「そこは任せて!」

 里帆が顔の前でこぶしを作ると亘が満足そうに笑った。ふとどんぶりの中を見ると、亘はもうすでに食べ終えていた。一方で里帆はまだ三分の一くらい残っている。

「ごめん、先に戻っててもいいよ」
「いいよ。里帆といたいから」
 亘は頬杖をついてじっと里帆を見つめた。
「ええっ」
「……ほら、動揺しすぎ」

 いま、もしかして『恋人ごっこ』発動してる?

 幼なじみで、しかも昔振られた相手にそんなことを言われたら動揺しないほうがおかしい。里帆は亘から強い視線を感じながら食べ進める。はやく食べなきゃ、という気持ちがはやり、喉に詰まらせてしまった。
「っ、!」
 胸をトントン叩きながら咳をすると、亘の大きな手が里帆の背中を撫でる。
「慌てないでゆっくり食べな」
 こくこくと頷いて里帆は亘の視線を感じながらサバの味噌煮をゆっくりとした速度で食べた。いつもよりも食べるのに時間がかかってしまった。

 二人で食堂を出ると、コーヒーショップでコーヒーを奢ってもらった。一緒にエレベーターに乗り、里帆は先に降りてこっそりと手を振る。
 席に戻ってコーヒーを一口飲みながら、昼休みのたった一時間程度のことをぼんやりと考えていた。最近の昼食はまともにとっていなかったので、今日の一時間はやたらと長く感じた。けれど終わってしまえばあっという間だった気もする。

 おなかはいっぱいで、心も満足している。コーヒーの匂いが心を落ち着かせる。おしゃべりをしたせいかどこかすっきりしている気もする。
 里帆はコーヒーをデスクに置いてパソコンを開いた。すぐに資料が入ったフォルダをクリックして黙々と仕事を始めた。


 金曜日だからか、まわりの社員は帰るのがはやくて結局最後の一人になってしまった。
 時刻は九時。そろそろ帰って明日の支度をしたいところだ。昼休みをゆっくり過ごしたのでその分また仕事が溜まってしまった。けれど後悔はしていないしいつもより疲れも少ない。むしろやる気がまだまだあって終電近くまで仕事ができる勢いだ。
 さすがに遅くまで残業をすると上司に注意されてしまうので、キリのいいところでノートパソコンの電源を落とした。あとの仕上げは日曜日に家でやってしまおう。月曜日は大事な会議だから予習もしておきたい。パソコンをカバンに仕舞って、帰り支度を始める。何気なくスマホを見ると、メッセージが入っていた。

――まだ残業か? 
 亘からだ。
 メッセージを受信した時刻を見ると、八時頃だった。

――今から帰るところだよ。
 メッセージを送ると、すぐに返信がきた。

――お疲れ。一緒に帰ろうかと思ったけど大変そうだな。明日楽しみにしてる。

 やさしく甘いメッセージに里帆は一人でいるにも関わらず、にやける口元を手で押さえた。すぐにメッセージを打つ。
――ありがとう。私も楽しみ!

 まるで本当に恋人になったみたいだ。亘は里帆に協力するためにこうしてくれているのだとわかっていても、くすぐったくなる。こんな感覚は久しぶり……いや、初めてかもしれない。
 もし今の里帆に本当に恋人がいたら、こんなに潤って、仕事もがんばれるのだろうか、とふと思った。退社する足取りも軽い。
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