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第二章 NOAH
14 眠れない夜
しおりを挟む「ご、ごめ…ごめん。普通の部屋がないの、し、知らなくて!」
僕は、とりあえず、謝ることからはじめた。
おそらく、宿自体は、多分、普通の宿なのだ。ただ問題は、この街が、ミネルヴァであり、この街を訪れる人の大半が、恋人同士であるということなのだ。おそらく、魔法泉の効能を考えれば、その二人は、泉の見える部屋に泊まって、泉の水を飲みながら、愛を確かめ合って、夢を見て、そして目を覚まして、目の前にいる恋人の顔を見て、さらに、愛を確かめ合うのだ。
(……………重量!!!)
僕は、くうっと顔をしかめた。
なんだか想像したその重さに、ずーんとのしかかられているような気分になった。
ここまでの重量だと、案外、一ヶ月後には別れてそうな気がしてならない。いや、ジンクスがそうなってないのだから、保ってはいるのか、と、思い直した。
「いい。仕方ないだろ。俺も、ちゃんと言えばよかった」
さっきから、僕とミュエリーは、お互い、ベッドの逆側に座って、背を向けているわけだけど、よくよく見てみれば、なんだか、至る所に、えっちな仕掛けがあるような気がしてならない。目の前の鏡をチラッと覗く。はじめ、こんなに大きな鏡がベッドの横にあったら、夜トイレに行くときに、びっくりしちゃいそうだな、どうしてこんなところにあるんだろう、と考えていたそれも、まっ赤なミュエリーを見たら、思考はぐるんと逆転した。
(ベッドの横に鏡って…!そういう?!)
何故か頭の中で、ヒューと、やらしいことをしてた頃の記憶が呼び戻されて、僕は、ぷしゅーと、音を立てて、撃沈した。窓がないということだけで、こんなにも意識をベッドに向けることになってしまうとは、思ってもみなかった。二人でベッドに座っていても仕方がないので、何か、何か、気が紛れるものを、と、思い、すくっと立ち上がる。
小さなソファ、小さなテーブルと椅子二つ、が、壁際に申し訳ない程度に、ちょこんと置かれていた。それから、クローゼットがあり、何気なく、開いてみて、僕は固まった。
(………え!コスプレ的なのってこの世界あるんだ?!)
クローゼットの中には、ずらりと色んな衣装が並んでいたのだ。異世界なだけで、全員コスプレをしているみたいな状態だと思っていたのに、さらにそういう文化があるのだろうか。僕は、しばらくそのまま、固まっていたが、おそらく、ハロウィン的な催しがあった際に、楽しく遊ぶためのものだろうな、という結論に達した。パタン、と、閉じる。
そして、ちらっとシャワーブースを見る。すりガラス、とかですら、ないのだ。わざわざ、つるつるピカピカの硝子で区切られていて、なんだか、その使用用途を疑ってしまう。
(これは…シャワー…普通のシャワーで、いいんだよね?…お風呂に入りたい…でも、なんだろうこの丸見え仕様…)
どうしようと思いながら、シャワーブースをちらちら見ていたら、ミュエリーに言われてしまった。
「風呂、入れよ。泳いだままだろ」
「…え、あっ う、うん、そ、その…」
男同士なのに、見ないでね、と言うのは、やっぱり変だろうか、と、ごにょごにょと、言い淀んでいたけど、背に腹は変えられなかった。泳ぎ疲れた僕は、浄化という手もあったけど、やっぱり、最低でもシャワーを浴びる必要があった。潔く、服を脱ぎ、シャワーブースに入った。上から熱いお湯が降り注ぎ、僕の疲れを流していってくれるような気がした。
(あ…なんだ…ちゃんと湯気で見えなくなるんだ…)
僕は、ほっとした。
湯気で曇ったガラスは、きっと僕の裸を隠してくれているだろう。微妙に透けて見える様子に、ミュエリーが、再び手で顔を覆っている姿は、シャワーを浴びながら、目をつぶっていた僕からは、見えなかった。
シャワーを出ると、ミュエリーも浴びるというので、僕は、なんとなく後ろ向きで、本を読んで待っていた。ちょっと、どきどきしてしまうのは、仕方がないと、思うのだ。さっきから、ページをめくる指先が、すこし震える。
カタンと音がして、ミュエリーが出てきたようだったので、僕は後ろを振り返った。ミュエリーはもう、きちんと着替えていたので、僕は起き上がると、「ごはんこれでもいいかな?」と言って、異空間収納袋からバゲットのサンドイッチを二つ取り出して、一つ、ミュエリーに渡した。ミュエリーは受付まで行って、お茶を二つ買ってきてくれた。
「ミュエリー、一緒に来てくれて、ありがと」
「………ああ」
僕が脅して連れてきたのに、ミュエリーは僕のことを責めなかった。
壁際の小さなテーブルで、一緒にご飯を食べて、明日はすこしくらい観光ができたらいいなあ、と、思った。ご飯を食べ終わって、しばらくして、歯を磨いて、それから、若干、緊張しながら、一緒にベッドで寝っころがって、映像水晶を見た。すぐ隣で、肩を並べてるミュエリーから、石けんのいい匂いがして、ちょっと、どきっとする。
あんまり考えないように、考えないように、と、自分の中で唱えながら、水晶を指さす。
「ほ、ほら、これ。香炉が溶け出してたんだよ。なんで今まで気づかれなかったんだろ?」
「まあ、あの恋人だらけの中を、長時間潜ってまで調べようとする研究者が、いなかったんじゃないか?地質学みたいなのは、比較的新しい学問なんだ」
「そうなんだ。それで、中に、あ、これこれ。ほら、魔法陣がある」
小さな映像だけど、ミュエリーは目を細めて、一緒に魔法陣を見てくれていた。
真剣な眼差し、何かを解読するとき、瞳がきらきらする、研究者の顔だと、僕は思う。ぺシュカ教授とも、こうやって一緒に魔法陣を見たり、したのかもしれない。
ミュエリーが言った。
「転送陣だな」
「え!やっぱりそうなの?夢の中の意識を、送るんだ…すごい、そんなことが?魔法陣に触れた物質に効果を付与、夢の中の意識を抽出、恋しく想う相手に転送、本体意識覚醒と同時に帰還…なんでこんなので動作するんだろ…」
「夢っていうのは、まだあんまり解明されていないところの多い媒体だからな」
一緒に見ながら、ミュエリーはまだ考えているようで、じっと映像水晶を見つめたまま、目を離さないでそう言った。僕にはわからないようなことも、きっと、ミュエリーなら知っているだろうという気がした。僕は遠慮なく、質問しようと心に決める。
「ねえ、どうして、『恋しく想う相手』だなんていう簡単なエレメントで、こんなことができるの?」
「まあ、一つ言えるのは、古代のアーティファクトは、魔法陣そのものに強大な魔力を込められているものが多いってこと。あとは、これは禁術の類に入るが、強制的に発動者の魔力を吸収するっていうエレメントがあるから、願ったやつの魔力を吸い取っている可能性がある。このエレメントこそが、あんなところに置かれてる香炉がまだ動作している理由だ。あそこは、どうにかして遊泳禁止にした方がいいだろうな。悪用する奴が出てきたら大変だ」
魔力を吸収。なるほど、と、思った。まさか香炉の効力が、泉に溶け出すなんていうおかしなことが起きるとは、想定されていなかったとは思うけど、そのものが力を持っている古代の魔法陣が泉に溶けることで、泉の水にその効果が付与されてしまっている、ということだ。その泉は、その一雫すらも、願った人の魔力を吸収する力を持っている。
用途が限られているにしても、確かに、その仕組みを、何かに悪用しようとする人が出てきてもおかしくはなかった。
(悪用……?そういえば、悪いことを考えた人が、夢の中で何かをしたら、どうなっちゃうんだろ…)
夢っていうのは、ただの夢だと考えれば、それまでだけど。でも、夜、寝ている間に、なんらかの暗示をかけられたり、たとえば、それが悪夢だったりしたら、その夢を見た人が、その夢を見続けてしまったりしたら、その人の精神状態に、影響が出たりするんじゃないかな、と、思う。
すぐに尋ねる。聞ける相手がいるっていうのは、とても、心強い。
「悪意がある相手だった時はどうなるの?」
「ここに限定条件がある。ノア、限定っていうのは、効力を分散させてしまうものと、効力を強めるものと、二つある。例えば、場所や時間を細かく指定すれば、その度に、魔法陣はいくつものことを演算しなおさないといけなくなるから、注いだ魔力の量は減っていく。でも、魔法陣の力を逆に強める限定もある」
「もしかして、ここ?発動者の恋しく想う相手が、発動者のことを恋しく想っている…これが、条件の限定?」
「そう。この魔法陣は、そもそも両想いじゃないと発動しない。そこが鍵だ」
魔法陣の力を強めるための限定。
それは、僕にとって、全く新しい知識だった。
花火を送ろうとするとき、高さや時間、生体探知など、限定に限定を重ねていて、それで条件はかなり絞っていたけど、うまくいかなかったのだ。ミシェル先輩は「僕からの想いだけで距離を稼ごうとしてるから、遠いと届かない」と言ったのだ。
(もしも…もしも…相手が、ヒューが、ユノさんが、僕に対しての想いがあるんだと考えれば、いや、それはちょっと、おこがましいけど…でも、もし、想ってくれてるんだとしたら、向こうからも距離を稼げるんだ。多分、それで、魔法陣の力が強まる…そっか…)
僕は、頭の中に、色んなアイディアが浮かんできた。
バックパックから、いつものノートを取り出して、しゃかしゃかとペンを動かした。まだわからない。やってみないとわからないことだけど、すごいヒントをもらったような気がした。僕は一心不乱に、考えを書き殴っていて、気がつかなかった。
しばらくして、ふと、顔をあげたら、すぐ横に、ミュエリーの顔があって、ミュエリーが、僕のノートを覗いていたことに、気がついた。でも、それよりも、ーーー。
(ち、近っ!!)
僕は、かああっと自分の顔に、熱が集まってくるのを感じた。
僕は、かちんと固まってしまって、目を逸らすこともできずに、そのまま、動きを止めた。ミュエリーは、攻略対象なのだ。すこし癖のあるさらっとした灰色の髪で、深い赤の瞳は、いつもちょっと隠れている。左目の下に、ほくろが一つある、と、今、気がついた。すこし影のある、暗めの、きれいな顔。
(ほんと、ゲームの攻略対象ってかんじ…)
僕の視線に気がついて、ミュエリーが顔をあげた。それから、びっくりしたような顔をして、僕と同じように、固まった。
僕は、自分が、一体どんな顔をしているのか、よくわからなかった。それでもやっぱり、どう考えたって、好きな人を見ている顔を、してしまっているんじゃないかな、と、思うのだ。
ミュエリーの顔も、僕につられて、かあっと赤くなるのがわかった。でも、ミュエリーは、ふいっと一度視線をそらすと、僕のノートに目を落とした。
心臓がきゅうっとして、じわじわと、体中に、淡い熱が、広がっていく。目を細める。僕は、多分、、何かを期待してしまっているのだ。
心臓の、どきどきっていう音が、すこしずつ、速まっていく。
触れたいと、思ってしまえば、多分、もう、だめだ。触れてしまったら、もう、止まることなんて、多分、できない。だって、考えるだけで、震えてしまう。ああ、ヒューに聞いたことがあったな、と思い出す。「手を繋いで、抱きしめて、キスをして、そうしたら、もっと深く繋がりたくなるのかな」なんて。
その手に、自分の手を重ねたくて、指を絡ませて、耳元で愛を囁いて、唇を重ねたら、もっと、ーーーもっとって、なってしまう。絶対に、止まることなんてできない。
なんて、浅ましいんだろう。
(何も考えられなくなるくらい、ただ、奥まで、深く、繋がりたい…なんて…)
昼間に見た、天国みたいな景色を思い出す。
人を好きになるっていうことは、人を愛するっていうことは、あんなに美しいものではないと、きっと、僕はもう、知ってた。あんな上澄みのきれいな景色みたいな、ふわふわしたことばかりではなかった。もっと、どろどろで、ぐちゃぐちゃで、それでも、好きで、好きで、たまらないのだ。
目が潤む。視界が滲む。
唇が、何かを言おうとするみたいに、自然と、半開きになった。息をのむ。そして、唇をきゅっと結ぶ。しばらくすると、また、唇が開いてしまう。
何を言おうとしてるのか、何かを言いたいのか、なんて言ったらいいのか、何にも、わからなかった。ただ、愛しくて、恋しくて、頭がおかしくなりそうだった。
(見た目は違う人…なのに。全然、違う人なのに……)
体の全部が、心臓になってしまったくらい、どきどきが止まらなくて、だめだって、頭では、だめだって、わかってるのに、考えることを、やめられなかった。
(触りたい…あの手に、触りたい…)
はあっと、口から思わず熱い息が漏れてしまいそうになる。ぎゅうっと目と瞑って、手も、拳を握りしめた。それから、ばたっとベッドにつっぷした。「うわ」と、びっくりしたミュエリーの声がした。
僕は、顔をベッドに埋めたまま、「もうねる」と、くぐもった声で言って、そのまま、もぞもぞと、ベッドに潜りこんだ。
ミュエリーが「なんだよ」と言いながら、ノートをヘッドボードのところに置こうとした。ヘッドボードのところには、なんだか変な道具がいくつか並んでて、何に使うものなのか、よくわからないけど、ミュエリーは一瞬、ぎょっとした顔をして、ノートを僕のバックパックに戻してくれた。
(なんだろ……)
毛布の中に入っていたら、あったかくて、だんだん、眠くなってきた。昼間、一生懸命泳いでた、ということを、思い出した。でも、えっちなことばっかり考えてしまう、ダメな僕は、もう、この眠気にのっかって、寝てしまった方がいいに決まっていた。
(泳いだ後って、どうしてこんなに、体がベッドに沈んでくような気がするんだろう…)
ミュエリーが灯りを消して、僕の隣に、横になった。ちょん、と、指先が触れて、どきっとする。でも、眠気のおかげで、さっきまでのやらしい気持ちは、ほんのすこし、収まっていた。昼間、限界まで泳いでおいてよかった。明日は、全身筋肉痛かもしれないけど、ミュエリーのことを襲ってしまいそうな僕は、ちょっとくらい元気がないほうが、多分よかった。
ミュエリーの方を向いて寝てたから、ちらっと見たら、目が合った。
ちょっと、眠くなってたのも、多分ある。
目の前のミュエリーの顔に手を伸ばして、指先で、頬を撫でた。僕の人差し指が、つ、と、ミュエリーの唇に触れてしまって、ぴくっと緊張が走った。眠くて、視界が半分くらいになってる気がする。瞼が重い。頭がだんだん思考を止めて。そして、僕は、欲望のままに口走った。
「きす……、する?」
「…………は?」
あれ、僕は何を言ってたんだっけ、と、思う。ミュエリーは、怪訝そうな顔をして、眉間に、信じられないほど深い皺を刻んだ。なんだか、それがおかしくて、僕は、ふっと笑うと、指で、ぎゅっぎゅっと、その皺を伸ばして、「そんな顔になっちゃうよ」と言った。
呆然としていたミュエリーは、死んだ魚みたいな目になって、すごい低い声で尋ねた。
「お前、いつもそうやって男誘ってんの?」
「…………えー…?……きすって、…気持ち…いい…よねー……」
僕は瞼を閉じた。すうすう、と、規則的な息が、口から漏れるのがわかる。あったかいものが、手に当たってて、なんだったっけ、と、思って握りしめた。ミュエリーの手だった、と、思う頃には、僕の意識は、もう、夢の中だった。
だから、ミュエリーがあのまま、あの死んだ魚みたいな虚ろな目のまま、眠れない夜を過ごしてるだなんて、僕は、全く、知らなかった。
「………………………………………………」
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