ハシャドゥーラの蓮

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「カミロ、シグラ。三十番地で二百盗まれた。二十五番地で目撃情報がある。二十八番地は包囲に入ってるはずだ」

よく晴れた暑い日だった。太陽光線に照らされる憂鬱な屋上の見張りシフトに入ると、早々にトラブルが舞い込んできた。場所や時間の被る事の多い同僚のディエゴが、隣の建物から俺達に指示を伝えにきた。

「二百って、ただの薬中か?」
「薬中には違いないが、そいつはジョアンで盗まれたのはピスカだ。ピスカはうちの専売だぞ。下手に持ち出されちゃ困る」

ディエゴは情けない顔をして溜息を吐いた。ディエゴが特別な被害を受ける事は無いが、たしかに組織としては面倒事に違いない。

「ジョアンが? なんでピスカなんか盗む? チーム内で漏れてんのか?」
「もしそうなら仕事がデカくなるな」
「あんなのやってたらすぐバレるだろ。正気じゃないね」

シグラが呆れた様子で肩を竦める。俺とディエゴはそれに頷きながら、建物を降りる為に歩き出した。

「全くだ。んなバカな事すんのはジョアンぐらいだろ。あいつ元々コカで頭飛んでるしな」
「ピスカに手を出すとはなぁ……」

ピスカは最近うちで合成している新薬だ。取り扱いが難しいが、その分かなりの効き目と即効性があるらしい。ブッ飛ぶ新薬だと言えば、中毒者は誰だって試したくなる。ピスカは既にディスペルソの重大な資金源になっていた。

俺はそっちに興味が無いが、あんなものを蔓延させる事がどれだけ危険かは解る。自分の地区シマで売らないのは、組織の構成員を減らさない為だ。

それに、内部で売買しない事で、今回のような事態を早急に把握できる。内部で乱用するようになれば、商品の流れが掴めなくなる。




建物を出た俺達は、二十五番地へ向けて歩き出した。薬中一人を狩るというのは緊急事態と言うほどでは無いが、ピスカであるとなれば野放しにも出来ない。ジョアンへの情報漏れのリスクのある無線ではなく、スマホの方へ連絡が入った。

『薬中の通報が入ってる。カミロはハポーザへ行ってくれ』
「了解」

二十五番地行きの指示が解除されないという事は、その薬中がジョアンなのか別の誰かなのかは、おそらく確認できていないのだろう。

「ハポーザって俺ひとり配置か?」
「お前なら一人で充分だからな」

詳細を知っているはずもないディエゴに訊くと、当たり前のような言い方で返された。

「このところ人手不足じゃねえか?」
「人間は居るが、使える奴が足りねえんだよ」

俺は舌打ちして、シグラとディエゴとは別の路地へ脚を向けた。

「シグラに何かあったら呼べよ」
「わぁかってるよ」
「カミロこそ、気をつけろよ。他の奴も手配されてるだろうけど……」
「だといいけどな」

薬中なんかまともな撃ち合いにもならないだろうが、理性を飛ばした人間は何をするか予測出来ないので厄介だ。俺は二人と別れて、ハポーザのある大通りへ向かった。

ハポーザは小さな食堂だ。昼間から飲んだくれて吐いてる奴もいる。薬中が混ざっていても不思議は無い。

それにしても、最近どうにも憑いてない。前回のカジノの事やアグーリャとの件が気になって、俺はシグラと別行動を取りたくない。成長するにつれて、離れなければならなくなるものなんだろうか。



 ◆




二人と別れてハポーザに来ると、店頭のレジの従業員が目配せを寄越した。

「どうも錯乱状態です。私達には手が付けられない。床に転がってるだけのジャンキーならまだ良いんですが、銃を持っていて……」
「まだうちからは誰も来てない?」
「人をやると言ってくれましたが、今のところおいで下さったのは貴方だけです」

レジカウンター越しに話をしてる間にも、奥の席の方から普段とは違う空気が流れ込んでいた。酔っ払いの喧嘩程度なら盛り上がっていても良いぐらいだが、普段の喧騒とは違う静かな空気が却って不自然だった。

奥へ行ってみると、店内は特に荒れていない。しかし周囲の客が立ち飲みしながら遠巻きに見ている。大方、よくある事なので退散するほどでもないが、気にせず側にいるには危険だという所だろう。

人垣の向こうに居たのは、件のジョアンだった。当り籤を引いてしまったのは此方らしい。俺はすぐに無線に通信を入れた。

「ハポーザ。ジョアンは此処だ」
『カミロ、こっちは外れだったな。問題は?』
「今のところ然程の危険は無さそうだが、処分は?」

シグラの声に少し安堵する。俺の質問に次に答えたのは本部のメンバーだった。 

『ピスカの回収と漏れが無いか確認出来れば始末していい。どうせ廃人だ』
「了解。報告する」
『三人手配してる。もうすぐ着くはずだ』
『俺達も向かう』

シグラの声を最後に通信を終えると、俺は従業員に客を追い出して扉を封鎖しろと指示を出した。俺がジョアンの動向を見張る後ろで、野次馬根性の座っている客達はぼやきながら外へ出されて行った。

扉が封鎖され、従業員達が隠れやすいカウンターに戻ったところで、俺はジョアンに近付き声を掛けた。

「よぉ、随分ご機嫌だなジョアン」
「……アグーリャかぁ?」
「んなわけあるかよ」

崩れ落ちそうな姿勢で椅子に座ったジョアンは、テーブルへ無造作に銃を放り出している。発砲の報告が無いので、誰かを殺すつもりがあったとは思えない。しかし、いつその気になってもおかしくはない。

「今日は何をキメたんだ?」

俺は敢えて銃を出さずに話しながら、いつもの巡回の途中みたいな様子で距離を詰める。

「最高のヤツさ……」

ジョアンは弛緩した笑みを浮かべた。瞳孔の開いた瞳はどこを見ているのか解らない。口振りは完全に飛んでいる。

「へぇ。もしかして新薬か?」
「……あぁ……ピスカだ……」
「そりゃ最高だろうな。俺にも売ってくれよ」

テーブルに手を付き、ジョアンの肩に触れた。

「持ってないのか?」
「ディエゴか……?」
「それも人違いだ。ピスカは? 誰から買った?」
「買うもんかよ。あんなにあるだろ」
「それじゃ、結構持ってるんじゃないか? 俺にも分けてくれ。いくらで売ってる?」 

顔を覗き込んでも、ジョアンは虚空を見つめたままだ。笑みは消え表情は無く、首は頭を支える気も無さそうだ。

「売っちゃいねぇよぉ……これは俺のもんだ。金より価値がある……」 

ジョアンはパンツのポケットに手を突っ込んで何かを握った。

「誰にも売らない? 仲間にも? 女にも?」
「シグラは……」

唐突に出た名前に、一気に身体中の血液が下がった気がした。

「……シグラがなんだ?」
「シグラにならやるかもな」
「……なぜシグラに? アイツはそんなもんやらねぇだろ」
「だからだ」
「売ったのか?」
「まだだ」
「他に売った奴は?」
「売らねえよ!」

急に激昂したジョアンに警戒しながら、俺はそっとテーブルの銃に手を置いた。

「シグラになら売るのか?」
「お前、お前……カミロか?」
「漸く当たったな」

焦点を失っていたジョアンの瞳が、急に俺を見た。

瞬間、虚ろな色が獰猛に切り替わり、ジョアンはテーブルの銃を取ろうとして俺の手に触れた。

俺は寸前に掴んでいたその銃でジョアンの手を振り切り、銃口をジョアンの額に当てる。しかし同時に、首筋に刺すような痛みがあった。ジョアンが今までの緩慢さとは裏腹に、俺の首へ握り拳を当てていた。

「は、お前……!」

すぐに突き放したが、もう遅い。弾き飛ばしたジョアンの手から、注射器が転がり落ちる。

「くだらねえことしてんな!」 

俺は銃を構えたまま撃たずに蹴り飛ばすと、ジョアンは容易く椅子ごと倒れ込み、派手な音を響かせた。

現場を見ていた従業員が俺の名を呼び掛けたが、それを片手で制して俺はジョアンを問い詰めた。

「なにが目的だ」
「カミロォ……俺はお前が妬ましい……」

ジョアンは床を這って、俺を見上げる。

「妬む……? 俺はそんな大層な身分だった覚えはねぇぜ」
「お前、まだガキのくせして、赤い豹なんて呼ばれてやがる。笑っちまうぜ……幹部でもねえただの掃除係のくせに、いちいち呼び出されるのはお前だ。抗争も殺人依頼も、金目の仕事をやりてえ奴はいくらでも居るんだぜ……それをお前みてぇな掃除係が掻っ攫う。その上、お綺麗な救済者様の護衛気取りだ」

銃口の向こうでジョアンが笑いながら、見開いた瞳を俺に向けている。薬中特有の目は、いくら光を反射しても、生気無く闇を映している。

「あれはこの丘の神だ。そうだろう? 誰だってそう思ってる。こんな臭くて汚ねぇゴミ溜めで、シグラはまるで純白だ。アイツは俺達とは違う。ただの下っ端の掃除係じゃない。真っ白い花や、真珠パールみてぇにさ。お前がモノにしていい奴じゃねえ」

どうして世界は、俺達を放っておいてくれないんだ。

シグラも俺も、特別な地位や財産の一つもありはしないのに。

「お前も味わえばいい、俺が地の底を這って見たピスカの天国と地獄を。一度でも充分ブッ飛ぶもんが見られるぜ。俺からの餞だよ」

さあ、シグラを呼んでくれよ!

ジョアンは当たり前の権利を主張するように叫んだ。静まり返った店内に、それは虚しく消えていく。

「お前がお迎えに来たって事は、俺は処刑なんだろう? シグラはどこだ?」
「ジョアン、俺はお前に怨みなんか無かったが……」

銃を握る感覚がない。銃の重みが無い。なにか、おかしい。妙な浮遊感がある。

「お前にシグラの救済は相応しくない。俺の銃口で充分だ」

怒りも軽蔑も薄く、感情が渦巻いてひとつになっている。脳に穴でも開いたように、思考が空気へ漏れている。脳味噌が炭酸に沈められたみたいだ。

「カミロ、俺の最期の願いは叶えてくれないっていうのか」

身を起こそうとするジョアンが、急に恐怖に震えた声を出す。嵐の日の痩せた野良犬みたいだ。

「勘違いするなよ、俺はシグラじゃない。願いなんか叶えない。それが普通のことだ。お前が言ったんだろ? 俺はシグラとは違う」
「頼む、カミロ。シグラを呼んでくれ……!」
「断る。安心しろよ。俺も殺しのプロって事には変わりない」
「カミロ! 俺はそれだけを救いに死ぬんだぞ!」
「バカなこと言うなよ。この世に救いなんか無い。そんなこと、この街で知らない奴はいないぜ。俺もシグラも、神でも天使でもない」

無様に縋って震えるジョアンが、もう人に見えなかった。窶れて虚な眼を動かす、死に損ないのジャンキーだ。俺の身体は自動的に銃を持ち、口は勝手に喋っていた。

「誰が殺したかなんて死んじまえば関係ない。死だけが救いだって、お前もその命を捨てちまえば気付くさ」
「カミロ!」
「安心しろって言ったろ? 苦しまずに殺してやるのなんか、俺にだって朝飯前だ」

銃口から真っ直ぐに飛び出した弾丸が、庇おうとした手を貫通してジョアンの額を撃ち抜いた。

途端に訪れた、沈黙と静寂。
硝煙と、血の匂い。
嗅ぎ慣れた終わる生命の匂い。
倒れたジョアンの遺体から、血溜まりが広がっていく。

「カミロ?」

封鎖された扉の開閉に気が付かないなんて、有り得ない。振り返ったそこに、シグラが立っていた。

「もう終わったのか?」
「……ああ。終わったよ」

意識が、眩んでいた。

「どうした? なんか、変だぞ」
「ピスカは、自分用だと……所持は、確認できてない。パンツのポケットが、怪しい……」

耳鳴りが聴覚を支配していた。三半規管がイカれてる。視界が霞む。脳を天に吸い取られて、立っていられない。世界が歪んで、終わっていく。

「カミロ!」

 俺を呼ぶ、天の声が、聞こえる。




 ◆




シグラが、珍しく焦ってる。
なにかあったのか、と、訊こうとして、声が出ない。

目蓋が重くて、開かない。
シグラの、気配がある。落ち着かない、慌ただしい……。

「俺が連れ帰る! 触るな!」

シグラの声が、している。
俺、何処にいるんだったか……覚えがない。
 
見張りを、していた。あと。

「カミロ、歩けるか?」
「シグラ、やっぱり……」
「平気だ、ここからそう遠くない。ディエゴは残って引継ぎを」

歩けないはずない。足は、動く。
地面の方が、安定してない。
目蓋を閉じてるのに、眩しい。
誰かの体温が、俺を支えてる。
巧く歩けない。地面がまるでスポンジだ。
吐き気がする。
酔うほど飲んだか?
飲んだ記憶が、見つからない。
けど、歩かないと。
倒れ込めば、きっと殺される。

「銃、が……」

言葉が、喉に詰まって出てこない。
誰かの手が、俺のホルスターに触れた。

「ここにある。カミロ、大丈夫だ」

シグラの声だ。シグラの、体温。
歩ける。足は動く。
視界が白い。
 扉の軋む音。

「シグラ?」
「セファ!」
「なにがあった? カミロはどうしたんだ?」 

シグラと、セファの声が聞こえていた。
内容が、よく聞き取れない。
頻繁に騒ぐ耳鳴りが邪魔してる。

「カミロ?」
「セファ……」
「お前ちゃんと掴まれるか?」
「つかまる……?」
「おい大丈夫かよ。頼むから振り落とされないでくれよ」

ああ、これは、バイクだ。
シートの固さを、よく知ってる。

振動。

エンジン音が、酷く頭に響く。
掴まった服から、セファの店の匂いがする。

グリーンソープと、煙草の混じった……。
バイクとは思えない速さと轟音と風が、肌や鼓膜を刺すように感じた。 

静かなところへ行きたい。
脳を劈くような騒音だ。

マシンガンで打ちまくれば、静かになるだろうか。
こんなに煩いなら、死体になった方がマシだ。



 
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