ハシャドゥーラの蓮

noiz

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曇り空の下のハシャドゥーラは、鮮やかな建物の色や描かれたグラフィティの精彩を欠き、晴れの日より閉塞的に見えた。

錆びたトタンや弾痕の残る傷んだ壁の、四角い住居が建ち並ぶ。そこに嵌る鉄格子付きの窓はどれも小さい。ゴミ捨て場を漁る子供達や、臭気を放つドブ川。

疾うに供給電力の限界を超えている、電線に夥しく絡んだ電線は、既に燃え尽きているようにさえ見える。 

雨や曇りの暗い日には、陰鬱な街にしか映らない。


見慣れた曇天のスラムを、二階のバルコニーから眺めていた。  

処刑や撃ち合いのトラブルが無ければ、見張りや巡回だけで比較的平和な一日が過ごせる。隣でライフルを持って同じように立っているシグラと、特に意味のない会話を繋いで退屈を凌いでいた。

「そろそろ巡回の時間だな」

シグラがスマホのディスプレイを確認し、そう言った。

「やっとか。暇すぎて死ぬとこだったぜ」
「まあ暇なのは平和って事で」
「そうなんだけどなぁ」

意味なく人を殺したいと思った事は無いが、俺の中に命懸けの生活をしているスリルを楽しんでいる側面が全く無いとは言えない。実行部隊を気に入っていたのはそのせいだ。

生活の為、つまり金の為というのが前提だが、ギャングに入ってしまえば人を殺したくない等と寝惚けた事は言ってられない。

入らなくても、殺すか殺されるかのところで生活していれば危険のレベルはあまり変わらないのだから、金と武器が手に入る方がずっといい。そうしてギャングに所属して、命の遣り取りがより習慣化すると、何もない日常に退屈するようになった。

「平和って退屈なもんだな」
「多分、俺達の知っている平和が退屈なだけだろ」

バルコニーを移動しながら溜息を吐いて言うと、シグラがそう返した。 

確かに、俺はこのスラムの外の平和がどんなものなのか、よく知らない。ネットや映画じゃ見るけど、所詮べつの世界の話だ。

「そうかな。俺は撃ち合いがある方が生きてる気がして良い。殺人鬼にはなりたくないのに、なんでだろうな。あまり良い傾向では無さそうだ」

スリルなんて、まともな人間は選ばない気がする。抗争が癖になるなんて、良い事なわけが無い。

「どうだろうな。多くの物事には理由がある」

横を歩くシグラが俺を一瞥し、説明した。

「精神も身体も、神経で繋げた脳の反応で動くだろ。極限状態には快楽物質が出るように出来てる。生き物が生存を第一に機能してる以上、脳の判断は基本的に生きる為に成されてるはずだ。カミロの頭がカミロを生かす為に必要だと判断した結果なら、お前がそう思うのはおかしくないさ」

階段を降りながら、俺は眉根を寄せる。

「シグラの言うことはよくわかんねぇよ」
「カミロが生きる為に必要な感覚って事じゃないか?」
「じゃ、俺は異常じゃない?」
「多分ね。俺は専門家じゃないから解んないけど」
「シグラがそう言うならいいや」

俺がそう言うと、一足先に地上に戻ったシグラが振り返って笑った。

「なんだよ、それ」
「シグラが俺のこと嫌いになんないなら、それでいい」

遅れて地上へ降りた俺は、シグラの頭をそっと掴み、額を合わせてそう言った。 

「嫌うわけないだろ」

俺の言葉にシグラが困ったように笑う。
すぐに離れた俺達は、次のシフトの面子と交替し、巡回へ向かった。





曇り空でも店の並ぶ通りはそれなりに賑やかで、レゲエやヒップホップを流してラップやダンスに興じる住人達や、向かい合わせでボードゲームをしている男達が午後を過ごしている。顔見知りに会うたび軽い世間話をしながら、俺達はいつものルートを巡回していた。

やがて狭い路地の住宅地に入ると、明らかに馴染まない空気を纏った男が一人でカメラを持って歩いていた。

男の真剣な横顔は、俺達が住み慣れた蟻塚のようなハシャドゥーラの街を見つめている。
武器みたいに重そうなカメラを構え、何かを撮影していた。

俺達にとって何一つ珍しいものは無い景色だ。男の瞳に何がどんな風に写っているのか、俺には見当も付かない。

丘の下の大通りでよく見る観光客と同じかもしれないが、それにしては少し男の空気は真面目過ぎる。カメラに夢中になっている間に、気配を殺して背に近付いた。



「お前、観光客?」

銃口を後頭部に押し付けて言うと、男は解りやすく固まった。シグラはライフルを肩で支えて無造作に持ち、男の前方に回り顔を眺める。

「いや、僕は駆け出しのジャーナリストだよ」 

カメラを降ろした男は戸惑ったような顔をしていたが、狼狽る様子は無い。どう見ても武闘派には見えない茶色の髪をした青年は、青い瞳を見開いて俺達の姿や銃を見ている。

「駆け出しね。それならガイドの一人でも付けるんだな」

シグラはライフルの引き金に指を掛けたまま、男に詰め寄る。

「余所者まる出しでカメラなんか持って正気か?」
「あぁ、盗まれないようにしてるさ」

俺とシグラは男越しに顔を見合わせてしまった。こんな呑気な男がジャーナリストだなんて、本気で言ってるなら随分と日和った国で生きてきたらしい。

「殺すって言ってるんだけど?」
「殺されるようなものは撮ってない。確認してくれよ」

男はカメラの液晶をシグラに見せようとしたが、後ろで銃を突き付けながら会話を聞いていた俺は、ついに溜息を漏らしてしまった。

「なあ、アンタ等ってなんか勘違いしてるよな。俺たちがわざわざ人なんか殺すメリットが無いと思ってるんだろ?」

「そりゃ、そうだ。俺なんか権力どころか金目の物も持ってないし、写真も風景しか撮ってないんだ」

男は当たり前の事を言うような表情で、聞き取りにくい言葉を駆使して説明した。この国で生まれ育ったわけでもないらしい。移民ばかりのスラムでは、容姿だけでは国籍が判らない。

「逆だよ。俺達にはアンタを殺してもデメリットがない。殺人罪を犯して危ない橋を渡るメリットが無いなんて理屈、スラムでは通用しないぜ? 殺さないより殺した方がリスクが無いんだよ。何処から来たのか知らないが、アンタの国のコラムにはそう書いとくんだな」

銃口で頭を小突くと、男は肩を竦めてよろめいた。

「とにかく引き返せ。今すぐ」

シグラが畳み掛けると、俺達に殺す気が無いと踏んだらしい男は、図々しくも質問してきた。神経が太いというよりか、自分の考えや信念に自信を持っている人間の物言いだった。

「なあ、どうしてこんな街に居る? 君は、普通のギャングと違うだろう」

男は真っ直ぐにシグラを見つめ、無遠慮に訊ねた。

「違うって?」
「君は、なんていうか、雰囲気が普通の人間じゃない」

間違いではない。シグラはそれなりの格好をさせれば富裕層どころかモデルや俳優にすら見えるだろう。

けどシグラの持ってる空気は、容姿の端正さだけじゃない。スラムには珍しい類の知性と理性、そしてそれを越えたところにある何か美しいものがシグラを取り巻いてる。

俺はそれが何なのか、知っている感覚がある。なのにその正体を言葉にする事が出来ない。

俺の持っている言葉には、シグラを説明するに足るものは無い。それでも、シグラがこんなゴミ溜めのような街に居るのが相応しくないって事は、昔から気が付いていた。
シグラを失いたくなくて、俺はその事に気付かないふりをしていただけだ。

「雰囲気ね」 

反芻したシグラが、投げられた言葉をどう捉えたかは解らない。男は食い下がる。

「将来の事を考えろよ。一緒に都市へ来ないか? 力になるよ」
「将来? 明日生きてると思える奴は随分と呑気だな」

シグラは心底驚いたというように、目を丸くした。実際、俺も驚いた。将来なんて言葉、NGOしか使わないと思っていた。

「それは……」
「聞かせてくれよ。あんたの将来は? いくつまで生きる予定で、いくら稼ぐんだ? 結婚は? 子供は?」

馬鹿馬鹿しくなった俺は銃を突きつけるのを止めてしまい、男の肩に腕を掛けた。意地の悪い質問かもしれない。自分が誰かにこんな事を訊く日が来るとは思わなかった。

「結婚はしてるし子供もいるよ。いくつまで生きるかなんか解らない。誰だってそうだろ? けど子供に迷惑にならない程度には貯金してるさ」
「へえ。結構じゃないか。貯金だって? この街の男は三十までだって生きられやしないぜ。子供に迷惑ね。まともで何よりだ。俺としちゃ、産んでくれる事ほど迷惑な事はないけどな」

この男に恨みなんか無いのに、俺はなんだか無性に気が立った。銃で黙らせる方が楽だと知っているのに、シグラにその意思がない事が解る。俺も、殺意も武器も無い男を殺すべきだとは思っていない。

「それはこんなスラムだからだよ! やり直すチャンスが今ここにあるじゃないか、君には。僕がそう言ってる」

こんなスラムに高みの見物に来た何処かの国の男はそう言った。シグラは、一言で答える。

「いらないね」
「どうして」
「お前にはわからない」
「僕がスラム育ちじゃないからか?」
「そうだな。けど、それだけじゃない。きっと」

シグラは視線を男から外し、興味を失ったような瞳をした。ライフルを肩に担ぎ直し、踵を返す。

「お前の住むところへ帰れよ」
「殺さないのか」

殺されるなんて思っていないくせに、男はシグラの善意を信じているとでも言うように確認した。

「結婚して子供がいて貯金してるんだろ? 俺の命は粗末だけど、あんたは違うらしいからな」

シグラの一言に、男は言葉を詰まらせた。

「カメラはバッグにしまえ。現地人の振りをしろよ。でなきゃ風穴が開くのはお前じゃなく俺達の方だからな」

俺もホルスターに銃を挿し、シグラの背を追って歩き出した。立ち尽くす男の気配を感じていたが、俺達は振り返らなかった。男が無事に帰れるかは知らないが、送ってやる義理も無い。 


シグラの隣へ追いつくと、シグラは俺の服の袖を小さく引っ張った。子供の頃、シグラが偶にしていた微かな自己主張だった。俺が驚いてシグラを見ると、シグラも自分自身に驚いたような顔をした。俺は離れてしまったシグラの手を掴み、引き寄せた。

「シグラがアイツに着いていかなくて良かった」
「……行くわけない」

行ったって良かったんだぞ、と。言えなかった。俺は自分の為に、シグラを手放したくない。近付いた体温を抱き締めたいと思った。きっと子供の頃ならそうしていたのに、俺の手は迷って結局シグラの髪を撫でただけだった。片手で繋いだ手に一度だけ力を込めて、離す。

静かに微笑むシグラとまた歩き出せる事で、充分だと言い聞かせた。離れないで居て欲しいと願いながら、もっと近くに居たいと求める事は、強欲だろうか。狭い路地を二人で歩きながら、俺は子供の頃から続く時間と関係に、迷い始めていた。



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