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しおりを挟む「お前、一人で逃げたって」
シグラは見下ろしたイバンの額に銃口を向けていた。
シグラはあまり背の高い方ではない。
大抵は始末される奴の方が図体がデカいのだが、シグラにはどこか圧倒されるものがあった。
威圧感というよりは、何か別の、人ではない存在に映る。
ディスペルソの頭を張っているアグーリャがシグラを気に入っているのも、その何かのせいなんだろう。
「勝ち目が無かった!」
無傷で逃げ切ろうとしていたイバンは目を見開き、シグラに訴えた。
命を奪われたくないと縋る瞳の、剥き出しの生存欲を浴びるのは慣れていないと結構キツい。
それが嫌でこの仕事から外れたがる奴は多い。生きたがる人間の目が呪いのように夢にまで出ると言う。
俺にも経験はあるが、すぐに慣れてしまった。
俺はイバンの視線を受け止める事なく背後で背中を踏み付けていた。
縛った腕の上を踏み躙りながら、地に座らされたイバンの自尊心を傷付けていた。
イバンを見下ろすシグラの瞳には、憐みも蔑みも無く、そこに感情らしいものは見当たらない。
薄青色の硝子球のようで、銃の凶悪さすらその前では只の金属の塊に変わる。
シグラの銃には、殺意の燃料が入っていない。
「せめて報告を入れたら違ったかもな」
「殺されると……」
「どちらにしても、もうお前は死ぬ事になる。言い残した事は?」
「……胸のポケットにジョイントがある」
イバンはそう言った。
シグラは片手に銃を構えたまま、イバンのポケットを探った。俺はイバンの後頭部に銃口を当てて見張っていた。
シグラはイバンにジョイントを咥えさせ、火を着ける。一口吸わせてから、それを指先に挟んで待つ。
シグラは、これから死ぬ男の頭に薬が回るのを待ってやっていた。
俺もシグラも、イバンも。なにも言わなかった。
静寂が穏やかな空気を連れてくる。見上げると、空は狭い路地の闇の裂け目から青を覗かせていた。
どこかで夕食を作っている匂いがしている。水音や食器の音が聞こえた。誰かが今日を生きている気配が漂う。
シグラがジョイントをもう一口吸わせてやった。こんな悠長な最期を提供してやるのはシグラだけだ。
俺はその時間を護る為に標的を逃がさないよう注意を払う。視線を外していても、気配を見過ごす事はない。
銃口はいつでもイバンを処分できるよう鉛を喉に貯めている。
「俺にはギャングなんか向いてなかった……」
イバンの嘆きがぽつりと落ちた。
ハシャドゥーラのギャングに適性審査なんか無い。
この街に生まれたら、金を得る為に武器が要る。どこにも属さずに生きられる方法はそう多くない。
誰だってギャングになりたくて生きてきたわけじゃないし、此処へ生まれたくて生まれたわけでもない。
生きる前に戻るには死ぬしかない。
シグラに殺される人間は幸せだ。
ゴミとしてではなく、人として死ねるのだから。
こんなスラムで、そんな死に方が出来るだけマシだ。
だから、シグラは組織の中では救済者と呼ばれている。
殺されるならシグラに殺されたいと、誰だって思うようになる。ギャングに使われて生きて死ぬというのがどういう事か知れば、シグラに殺される奴は運が良いって事に、誰でも気が付く時が来る。
「安心しろ。俺が楽にしてやる」
シグラが囁きながら残りのジョイントを唇へ捧げた。イバンは肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。生きた身体で酸素を吸って、送り出す。残り僅かの命を使い切るように。
シグラはそれを見届けて、イラリオを殺した昨日と同じように、引き金を引いた。
イバンは悲鳴も上げずに絶命し、呆気なく死体に変わった。チームに入って数ヶ月の男だった。
他のメンバーの前では騒いで暴れ抵抗する奴も多いが、シグラを前にすると処刑対象は静かになる奴が殆どだ。シグラが現実を受け入れる時間と対話を提供するせいだろう。
それは同時に、逃げられないと悟る為の時間でもある。
見逃す事の無い指令に忠実なシグラの冷徹さは、最期の時間を作ってやる慈悲と同居している。そしてそれは変容する事なく、死んでいく人間に届くようだった。
「身寄りも無いみたいだな」
「ああ、今日はすぐに引き上げられる」
無線でチームに報告を入れ、今日のシフトの処理班に後を任せて俺達はそこを離れた。
遺品を探す必要も無かったので、昨日よりは気楽な脚取りで帰れそうだ。
交代までにはまだ時間があったので、俺達は巡回してから帰る事にした。
「カミロ、ペスカーダが入ったよ!」
「ああ、また今度な」
通りを歩いていると、魚屋の女店主が明るく声を掛けてきた。
俺は魚より肉の方が好きだと言っているのに、通り過ぎるたび売り付けようとするのを止めない。
どことなく近寄り難いシグラよりも、その辺の何の変哲も無いギャングの俺の方が絡みやすいらしく、ハシャドゥーラの商人達は物怖じせず俺に話し掛けてくる。
俺達の主な仕事は処刑だが、それは常にあるわけじゃない。事件の発生しない時は街を巡回している。
余所者が居ないか、トラブルは無いか。ただ街を歩いているだけでも様々な事がある。
最近住み着き始めたストリートチルドレンを把握する事だったり、そういう子供達の窃盗を阻止し勧誘する事、危害を与える薬中やアル中の処理。
事件を目撃する事もあれば、住人から虐待やレイプ被害の相談をされる事もある。街の住人は俺達にみかじめ料を支払っているので、住んでいる人間の治安維持は必要な仕事のひとつだ。
俺達は慈善団体でもクリーンな企業でもないが、金の流れを留めない為に必要な事をする。その基準に善悪や平等さは関係が無い。
結果や手順の性質は、事に当たったメンバーの性格に左右される部分が大半を占める。
「シグラ、カミロ。今日はパッションフルーツがたくさん入ったわよ」
次に声を掛けてきたのは、リアだった。店先には、たくさんの果物が盛られている。
彼女は俺達の幼馴染みで、ストリートで遊んでいた頃からずっと一緒に居た。
果物屋を営んでいる彼女の母親には、俺達も世話になった。
季節の果物を分けてくれるのは、碌に食えない子供だった俺達には有り難かった。
盗みが板につくまでは、ゴミ漁りでもするしかなかったのだから、命の恩人と言っても過言ではない。
リアは果物屋を継げば食うに困る事はないので、俺達にとっても彼女の生活が安定しているのは幸いだった。リアが身売りをしなければならないなんて事になったら、俺達はとても放ってはおけない。
「ね、持って行って。みんなで食べてね」
リアは花咲くように笑い、大きなパッションフルーツを四つ袋に入れると、シグラに差し出した。
熟れた果物の香りが店の香りなのか彼女の香りなのか、昔から区別が付かない。
「リア、ありがとう」
シグラが控えめに微笑んで、それを受け取った。リアが嬉しそうに笑う。
リアは幼い頃からシグラに好意を抱いている。けれど、リアがそれを口に出した事は無かった。
瞳にいつも募る想いが滲んでいるのに、言葉にはしない。果たしてシグラが恋愛感情というものを持ち合わせているのか、俺にはその片鱗すら見つけられた事が無い。
リアの白いワンピースや、シグラの瞳の色が嵌ったピアスが、誰の為にそんなに輝いているのか、きっとシグラは考えもしないのだろう。
黒い髪や黒曜石のような瞳、すらりと伸びた焼けた手足。リアがスラムに置いておくのが惜しい美人だって事に、シグラは一体いつ気が付くのか。
「リア、またな」
吹き抜ける風に乱れてしまったリアの長い髪を、耳に掛けてやりながら挨拶する。リアは綻ぶように笑い、また、と返した。
少女の名残の浮かぶリアの表情に卑屈さは無く、擦れた様子の無い彼女の存在に、俺達は救われていた。
散らない花は無いと知っているから、護りたいと思う。それはシグラも同じはずだ。この街では、たった一人護ることさえ、ままならない。
「リア、また綺麗になったよな」
「リアは元から綺麗だよ」
少し嗾けるような、探るような気持ちを忍び込ませて言ってみたが、シグラの答えはやはり一般的な男の標準とは少しズレている。
全く間違っちゃいないが、そういう事じゃないんだよな。
シグラは普通の人間とは違うものを燃料タンクに入れて生きてるみたいだ。
「カミロ、帰ったの?」
巡回のシフトを交替して家に帰ると、ベッドの母親が俺を呼んだ。
母はドラッグにもアルコールにも溺れていないが、代わりに病気だ。
いつも体調が悪いけど、医者に連れていく金もない。検査だけでも金が掛かるのに、治療なんかできやしない。
一度で済むなら殺しでも請け負えば稼げるが、継続的にできるようなものでもない。
助けてやりたいと思うのに、スラムで俺より長生きする事になるのも、きっと苦労でしかないだろうとも思う。
「ああ、帰ったよ」
銃を下ろしてベッドへ行くと、母親は身を起こしていた。
近年はいつも、笑顔を作ってみせても疲れ切った顔をしている。
「シグラは?」
「シグラも」
シグラは、産まれる前から隣に住んでいる。ちょうど同じ歳で、物心つくより先に一緒に居た。
俺もまだ産まれる前に、ここへ一人で越してきた妊婦がシグラの母親だったと聞いている。
その頃のディスペルソの頭の指示で、俺の家の隣に家を建てて住み始めたらしい。
うちの壁と繋げて作ったから、元々そっちの壁に有ったこの家の扉のひとつは、今は直接シグラの家へ繋がっている。だから、同じ家に生まれたのと同じだ。
扉を外して壁にする話はあったらしいが、両親は彼女の身を案じて、敢えて扉をそのままにした。
身一つでスラムに流れ着いた彼女は、命と引き換えにシグラを産んだ。
結局、シグラは俺の両親に育てられ、同じ年に産まれた俺と兄弟のように生きてきた。
「夕飯が出来たら呼ぶよ」
俺の父親は十五の時に刑務所で殺された。
それから見る間に元気を無くして病気になった母親は、殆どをベッドで過ごしている。
シグラと俺で稼いで家事をして、母親と弟を世話する日常になって久しい。
シグラが居て良かったと思う。
こんなに一緒に居るのに喧嘩をした事もないのは、血の繋がりが無いからかもしれない。
身寄りの無いシグラが当たり前のように俺の傍に居てくれたことで、俺はなんとか生きてこられた。
もしシグラに親が居て、ただの隣の幼馴染みであったなら、俺はシグラを頼り切れなかったはずだ。
自分本位な自覚はあるが、俺にとってシグラは、誰よりも失いたくない存在になっている。
「シグラ! おかえり!」
キッチンには既にシグラが立っていた。帰る扉こそ違うが、別室に住んでいるだけの状態のシグラは、家族同然に出入りしている。
包丁で野菜を切っているシグラの細い腰に抱き付いて、弟のノエが甘えていた。
「ただいまノエ。今日はどうだった?」
今年やっと五歳になるノエにしか見せないシグラの穏やかな横顔を、俺は壁に凭れて少しだけ眺めた。
片手でノエの頭を撫でてやっているシグラの仕草は、俺や母親よりも丁寧で繊細だ。
誰にもそうされた事がない筈なのに、どうして同じように育ったシグラは丸っきり俺と違うんだろう。
「ソニアと人形で遊んだ」
「ソニアは元気か?」
元気だよ、と答えるノエが嬉しそうで、俺はあまり邪魔をしたくなかったが、料理の手伝いをする為に横へ立った。
「ノエ、座って待ってろよ」
「うん!」
大きく頷いて、ノエは後ろの椅子に座り食卓のテーブルへ本を置いて読み出した。それはシグラが昔読んでいた、小学生向けの教科書だ。
ノエにはまだ難しいが、シグラが読んでいた本ならアイツにとってはなんでも良いらしい。
最も、おそらく俺が読もうとしても、シグラが普段読んでいる本なんか、参考書から小説まで碌に読めないだろう。
「カミロ、リアに貰ったフルーツを切ろうか」
「そうだな。食後まで冷蔵庫へ入れておこう」
俺が果物を切るシグラの隣に立ち、フライパンで肉と野菜を炒めていると、教科書よりもシグラに相手にして貰いたいって気持ちを分かりやすく視線に載せたノエが退屈そうな声を上げた。
「カルルーが食べたい」
「は? バカ言うな、あんなクソめんどくせぇもん」
「はは、あれ美味いもんな」
「ワガママ言うと肉やらねぇぞ」
「肉は食べる!」
俺もシグラも別に好きで料理をしているわけではない。だから凝った料理なんかわざわざ作らない。
切って焼いたり炒めたり、偶に時間のある時に煮込んだり、とにかく手間と材料が少ない物に限る。カルルーとかそういうものは、外で食べるものだ。
「今度食べに連れてってやるよ」
「本当?」
ノエはその一言であっさり笑顔になる。今度の休みに緊急の用件が入らないよう願うばかりだ。俺が叶えてやれるノエの希望は、殆ど無いのだから。
俺達はリアに貰ったパッションフルーツを最後に食事を終え、食器を片付けた。
ノエや母親のいるテーブルで、仕事の話はしない。他愛も無い会話をしている時だけ、凄惨な命の遣り取りを忘れられた。一日のうちの、僅かな時間だ。
シグラの家に繋がる扉は、ちょうど俺の寝ている部屋の壁にある。部屋と言っても壁の少ない家だ。
個室と呼べるほどの代物でもない簡素なものだが、家の隅に自分の居場所を構築しただけだ。毎晩シグラとは玄関ではなく、そこで別れる。
「明日、行くだろ?」
「ああ。朝食を取ったら行こうか」
おやすみ、と声を掛け合って、シグラは扉の向こうに消えた。
明日は休みで、エリの命日だ。
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