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その二 不動明王呪

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「また随分と集めたものだな。盛況なことで何よりだ」
「何だ、その口ぶりは。文句でもあるのか?」
空海と田村麻呂が高雄山寺の廊下を歩きながら話している。
九月、高雄山寺は都より夏の終わりは早い。それでもまだ、この時期は十分に夏の気配を濃厚に残している。
「誰でも知っているような貴種・権門の方々ばかりだな、ここに集まっているのは」
「そうだ。それが不満か?」
「空海、お主はこの前、『人を救うてこその仏法』と言ってたではないか。寺に集まっている『人』は身分の高き方々や分限者ばかり。お主の言う『人』とはそういうことか?名もなき民は『人ではない』という事か?」
「分限者も貧乏人もない。身分の上下もない。男、女、若い、年寄もない。悪人だろうが善人だろうが、それもない。全ての人が業を背負い仏と成れる。それが密の教えだ。俺は何度もそう言っている。貴種や分限者などはとるに足りない事だ」
空海は楽しそうだ。空海は実のところ、田村麻呂と「密」について話すことが、楽しくて仕方がないのである。
「だったら、なぜこの場に貧乏人を呼ばない。おかしいではないか。所詮、空海も富や権力におもねっていると言われかねないぞ」
空海はこの日、高雄山寺の境内において「不動明王呪」による「無病息災」・「諸願成就」を願う「護摩祈祷」を行うとして、多くの権門・富者を招いたのである。
それはいいのだが、この催しに一般の民衆はいないのだ。それが田村麻呂は不満なのである。
「民衆をないがしろにしている怒り」というより、この事で空海の評判が落ちてしまうことが、田村麻呂は嫌なのである。
無論、空海はそういう田村麻呂の自分への思いを良く分かっていた。
「俺はな、大学を作りたいのだよ」
空海は田村麻呂を見上げながらそう言った。
「大学?大学寮ならあるではないか。お前が作るまでもあるまい」
「大学寮」とは、律令制において式部省が管轄した教育機関である。卒業試験で8割の成績がとれた者は、さらに上級試験を受け、それに合格した者は、官位が与えられた。唐の科挙の制度をまねた官僚養成機関である。
そこでは主に、紀伝(中国の歴史)、文章(漢文)、明経(儒教)などが教えられ、原則五位以上の位を持つ貴族の子弟が入学を許された。
後にこの大学寮の制度は、律令体制の崩壊や藤原氏の摂関政治の進展により、官僚養成機関としての基盤と意義を失い、消滅していくのだが、空海のこの時代は大学寮が最も充実していた時代であった。
「あんなものが何の役に立つ。頭でっかちの役立たずを作るだけのものだ」
「『あんなもの』って、お前はその大学で学んでいたのだろうが」
空海は延暦十一年(792年)に京の大学寮に入学した。地方の郡司の子でしかない空海が、入学を許されたのは、空海の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)が桓武天皇の第3皇子である伊予親王(いよしんのう)の家庭教師を務める大学者であったためである。そこで、空海は明経を中心に学んでいた。
「だからさ。学んでいたからこそ、分かるのだ。あそこで学んだことは、何の役にも立たん。人々を救い、この世を糺す(ただす)ことなど到底無理な話だ。だから俺は辞めた」
空海が大学に入るには、叔父のコネは勿論、多くの人々の尽力があった。しかしながら空海は、何の未練もなく辞めている。空海が大学で学んだ期間は、1年足らずであった。
「ではなぜ『大学を作る』などと言う?おかしいではないか」
「俺の作る大学はな、全ての人に門戸を開く。貴賤貧富、男女を問わずに学べるのだ。すべてのことを学ぶ。今ある大学は儒教のみを教え、寺院は仏教だけを教えている。俺の大学では儒教、仏教、道教をはじめとしてあらゆるものを学ぶのだ。そしてな、誰もが学べるために学費は無用とする。俺が死んでも、ずっとずっと続いていく。それが俺の作る大学の姿だ」
空海の顔が紅潮する。夢を語る少年のように、空海の目が光り輝く。
「まるで密だな。お前の言う大学は・・・」
田村麻呂がぽつりと呟いた。
「ああそうさ。そうなのだよ。この世の全てを貴賤貧富・老若男女の区別なく、永遠と脈々と学んでいく。『全てを可(よし)』とする密の世界そのものさ。だがな、これには金がいる。途方もない金がな。そんな金は俺にはない。ならば持っている方々から出していただくしかあるまいよ。貴族・分限者から金を吐き出させるのさ」
「なるほど、そのための護摩祈祷の催しという事か。だが、連中がそう簡単に金を出すか?金持ちほど、金を手放さないものだからな」
「まあ、見ていろよ。多少あざといがな」
そう言うと、空海の口元には、あのかすかな笑みが浮かんだ。
アルカイックスマイルと呼ばれる「仏像の笑み」だ。
「空海の大学」は後に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)として実現することになる。それは、空海入定の八年前のことではあるが。
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