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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】
55 逃さない
しおりを挟む「ルシア、もうじきお客が到着する」
「ではお出迎えしなければなりませんね」
「ああ」
「では」
「ああ」
アスへと向けたものではない淑やかなルシアの声。
おそらくは私的な時間であったのだろうこの時間の終わりを告げる切り替えは、少し前から気にならなくなっていたルシアへの焦がれ際限なく求めたくなる心の飢えを思い出させる。
続けてアスにだけ向けられた伏せて見せる目蓋の動きが、場を去る謝辞を告げていて、思わずと言う様に引き止めたくなる衝動をやり過ごす為に、アスは深い意識的な呼吸を数回繰り返した。
その間にもああと繰り返された、この場にいるもう一人のそれだけの返事は空返事にしか聞こえず、最初の要件だけ伝えてしまえばそこに興味の一欠片すらも窺い見る事が出来ない反応だと思った。
場所を譲られルシアと入れ替わる様に今はルカがそこにいた。
そしてルカをそうだとアスが認識したその時には既にルシアの姿は何処にもなかった。
「············」
アスは起こしていた身体を言葉なく背後へと倒す。
特に受け身等の考えもなく、本当にただぱたりと身を投げ出す様にして。
けれど、そんなアスの無造作な動きもベッドのマットレスは労り受け入れてくれるらしい。
どんな高級素材で、どれ程の匠の手によって手掛けられたものか、全ての衝撃を吸収しアスの身体は受け止めてられている。そもそもがそれなりの時間横になっていた筈だが、筋が強張るなど身体への負荷を一切感じていなかったのだ。
「何を考えていますか?」
「ん、献身的なマットレスへの感謝か?」
「は?」
素直にその時思っていた事を伝えれば、その顔を見なくても分かる、何言っているんだコイツは的な反応が返された。
「············」
その反応に律儀に説明をする義理は感じず、口を開く事も億劫で、そのまま目を閉じると闇に包まれた世界を何処までも落ちて行くかの様に。
ルシアとの会話疲れもそうだが、今あるルシアが去ってしまったのなら、もう何も見えないどころか、聞こえず、自分自身の息遣いすらここでは曖昧で、そこにいるルカの存在すらもとうに分からなくなっていた。
酷く重い目蓋を再び持ち上げる気力は既になく、その必要性も感じないからまあ良いかと思う。
「ここにいれば何も気付かなくて済む
何が傷付いて、何が壊れて、損なわれて、失われて、そうして決定的に取り返しがつかなくなっても知らないままでいられる」
「············」
遠く近く揺蕩う意識は夢現で、けれど、声として発せられてしまえば、自然に耳は音を拾い、それが言葉だったのなら無意識下にも意味を理解しようとしてしまう。
柔らかく耳に心地良い声が言葉を紡ぎ、触れるか触れないかの指の動きがアスの顔へと掛かっていた髪を払い整えて行く。
「“彼”を殺してしまおうか?」
耳もとへとかかる吐息が擽ったくも何事かを告げている。
何事か、看過しても良いが少しだけ考えさせられる不穏当な内容だった。
ーシャラシャラシャラー
繊細な鎖の音が耳朶を通過し聴覚を滑って行く。
アスが身動きしている訳ではないので、アスを繋いでいる鎖が何等かの操作を受けているか、それともそもそもがアスを繋いでいるものとは別の鎖が奏でている音なのか。
「それとも“翼”を毟るか常盤の領域を焼き払うのでも良いし、ねぇ、姉さん。どうすれば姉さんを壊す事が出来る?」
「············」
軋む音はないが、直ぐ側でベッドに体重をかけられている加減でアスの身体が気持ち傾いている。
広いベッドの真ん中で寝ているのに耳もとで声がしている段階で気付いていたが、何時の間にかルカも同じベッドの上にいるらしい。
「じゃあ、あの出来損ないの人工精霊を、」
気が付けば右手に感触があった。
途切れた言葉の先に頓着する事なく、けれどアスは目を開く。
手の平全体で感じる自分以外の確かな体温。親指の腹にトク、トクと脈打つものを感じている。
このままその親指へと力を込め続ければルカは意識を失う。そして、更に続ければ命を奪う事も可能になる。
そう言った意図を持ったアス自身の手。
掴んでいるのはアスの手で、アスの手によって掴まれているのはルカの首筋。
それはルカも理解している筈で、なのにアスが今も感じているルカの鼓動は変わる事なく平静そのものだった。
「キティに手を出すのは許さない」
目を開けた時そこにあった顔へとアスはただ告げる。
怒りがある訳でも、警告の意味合いを持たせる訳でもない抑揚を欠いた声音だった。
アスの頭の両側へとそれぞれ置かれたルカの両手。
覆い被さる様な体勢で見下ろして来ている、そこだけは明確に変化した驚いている様な眼差しをアスはただ無機質に見上げていた。
「うん驚いた、あんな何の力もないような“鳥”なのに」
瞬かせた目に、ルカの表情から驚きが消え失せてしまうのは一瞬だった。
キティとはアスの繋がり、アンティキティラの事である。
紅い瞳と真っ白な羽の鷹に似た鳥の姿をした精霊の一種で、時たまアスのそばに来ているが、戦闘に参加させる事等はまずないのだ。
「あの子に戦う力は求めていないよ」
「姉さんを守れもしないあんなものが姉さんの繋がりだなんて認める訳がない」
魔女の繋がりは、その魔女自身の魂の片割れと呼ぶべきもの。自らと繋がる魔女の為にあり、魔女だけを守り、剣と成る存在。
けれどアスは通常の魔女の繋がりとしての在り方等キティには求めてはいなかった。
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