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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】
39 誘惑
しおりを挟む「私達の愛しくも可愛くない妹、これで良かった?」
「いや、良くない。良くはないが、どうしようもない」
声は変わらず耳に馴染み心地好く、だからアスはやはり目を開かないままに、それでも沸き上がる心情の何かをそのままに笑む。
「やっぱり可愛くないね、素直に任せるって言えない強がりなところは、私達の妹らしいけどね」
自分が可愛くないと言うのは分かる。
アスの中で、可愛いに分類される一人が今目の前にいるのだ。
だからこそ、その可愛い相手に自分が可愛いくないと言われても、そうなのだろうとただそう思う。
けれど、微笑んでいる筈なのに可愛くないと言うのはどうなのかとも思っていた。
笑いながら悪意なく人を貶す相手と、意図してそう言う言葉を選ぶ、それをしそうな相手はリディアルのそばに確かにいたのだがと、そんなかつての事をアスは思い出していて。
そして思い出しながらも表情に関しての事でないのだと、続く発言を聞くまでもなく分かっているのだから、まずそう思ってしまうその段階こそが既に可愛くないのだろうと納得して頷いてみせた。
そう可愛くないなら可愛くないで良いと結局は流してしまう思考のまま、アスはただ素直に告げるのだった。
「私が望まないし、その為に呼んだ訳じゃない」
「んん?」
閉じたままの目、瞼の裏に朧に浮かぶ記憶に引かれるが、浸るまでは行かない。
リディアルの戸惑いへは率直に、そしてアスは追い討ちとなる言葉を吐く。
「リディにこれ以上を願う事はないよ」
他者の心の機微が分かっていながら理解しない、する気もないアスは、自分の言葉が相手へとどう受け取られているかにも頓着しない。
いっそリディアルを突き放すその言葉に、けれどリディと呼ぶその意味を、そう呼ばれていたからこそリディアルは正しく、寧ろ過剰な程に受け取っていた。
「昔みたいにお姉ちゃんて呼んでくれればもっと頑張るよ」
「・・・何時の何時かだそれは、呼んだ事ない筈だぞ他の誰の事も」
一瞬の逡巡で記憶を浚い、リディアルへと否定する。
“姉”と言えなくもない“彼女達”の存在に、嘗てを思えばねだられて一度くらいは言ったかもしれないと、そう考えたが為の躊躇だった。
「む~、翡翠緑珠の子を兄って呼ぶのに」
可憐な少女の面影が膨らませる頬。
そこにいる、異形の乙女が瞼の裏で幼くむくれる。
そうこれこそが可愛くて愛らしいなのだと、共有する相手も同意を求める誰かもここにはいないがアスは一人で頷いていた。
頷き、そして可愛いを確認した事でふと疑問に思った事を問う。
「翡翠緑珠、“鳥”は飛び去ったままだから、常盤の魔女の子か?」
「そう、比翼の鳥はまだそてぞれを失なったまま、なんだね」
“姉”と呼べるかもしれない相手はいる。けれど、“兄”と自分が呼ぶような相手とは果たして・・・
戸惑い、けれど比翼の鳥と出てきた名 にその戸惑いはアスの中で重要度がないものとなった。
「まあそうだな、あそこと今回はなかなかに似ていた」
その考えこそが、アスの中での最優先事項だったかただ。
「同じ願いのようで、向いてる方向が違う。お互いを理解してるって慢心・・・?
違うくて、翡翠緑珠の系譜、常盤、には、とても綺麗な銀色の鹿がいたでしょう?」
それを告げるリディアルはアスとは異なる目、もとい価値観のもとにあるのだろう。
話を進める為にも、アスは一先その優先順位に乗る事にした。
単純に気になったからというのもあったからだが。
「常盤の繋がりの銀鹿ならここに来る前にあったぞ」
特に感慨等もなく、ただそう言う出来事があったと、アスは報告する。
「そう・・・」
アスにとっては本当にただの世間話程度の報告で、けれど、おそらくその言葉のどこかで、リディアルはリディアルが知ろうとした事の答えを得たのだろう。
そう、と、たったそれだけで途切れてしまった返しに、アスは気付いていた。
「・・・ねえ、目を開けて、私を見て?」
「無理」
間髪入れずの拒否を伝えるが、それはアスの精一杯の抵抗だった。
甘やかに、強請る様な声の響きが耳朶を震わせ、まるで酩酊する様にアスの思考に霞がかる。
ー切れた繋がり、再び繋ぎ直すことは叶わず、新たに結び直すことも難しい、
集めた端から零れ落ちてゆく、そうして失ったことすら気付くことを許されないあなたの手の中には、きっと何ものこらないー
震える水流が“聲”を奏でる。
謳う様に節をつけながら、けれど抑揚に欠け、情緒を感じさせる事のない詞が酔った意識を侵す。
「失う事を識っている。だから気付いていない訳ではないよ
あった筈の何かは、それはたぶん“私”にとって大切だった筈のもの」
「代償、あるいは対価、分かってる?」
あったものがなくなっている。
なくしてしまったのだと、その感覚だけがアスと言う存在に残されるもの。
今回は気付かせてくれる者がいた。
フェイの戸惑いから、そうなのだと分かったに過ぎない。
なくしたと気付かない事もある。そんな時は本当に何も残らないのだ。
「ふふ、ふふふふふ」
文章をただ読み上げる様に笑う声。
アスを抱く水の緩やかさが、その声に鳴動する。
「連れていってあげる。そばにいてずっとずっと、深く光も届かない水の底、
誰の声も、誰の想いも届かない処、きっとそこなら、あなたもゆっくり眠れるよ、ね」
酩酊し麻痺した思考へと、甘やかな声がただ優しく染み入る。
意識へと作用する甘露の如く、思いは絡め取られ、考える意思さえも泡沫の夢の様に消えて行く。
声が誘う場所へと沈んでゆく。
ー物語が終わるその時まで、眠って一緒に待とうー
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