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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】

80 誰の為に秘するのか

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「アクアーリウス」

 アスは呼ぶ。
 その名前にアス以外が怪訝そうな顔を見せたのは一瞬の事。驚愕に、動揺に、表情なく、それぞれがそれぞれの反応のもとにアスを、そしてを見ている。

 うねる触手がぴたりと動きを止め、粘度ある気泡が弾け続けていた水面もまた、細波一つなく凪いだ様。
 瞬きの間に切り替わりでもしたかの様に、禍々しいばかりだったその光景は、何処か緊張感を孕んだ絵画の様にも見えた。
 そしてその絵画の主役たる少女アスと、先程までより随分と小さくなってしまった澱みの龍の存在。
 対峙し、感情のない冥い瞳孔がアスを僅かに見下ろす様にして見詰め、けれどアスは、その澱みを煮詰めた様にして在る目と呼ぶ事を躊躇う様な眼窩にも気にする事なく、自らの手を不確かな龍の眼差しへと向けて伸ばして行く。

「どうした?まだ怖い夢でも見ているのか?なら目を覚まそう、起きて、アクアーリウス」

 小さくなったとは言え、その体長としては未だにアスを見下ろせるぐらいにはある。
 そんな相手へと、アスは母親が悪夢にぐずる幼子をあやす様に、ただただ優し気に語りかけ両の腕を広げ差し伸べ続けていた。

 触れるか触れないかの距離、少しずつ龍から伸ばされて来た鼻面とアスの伸ばした手のその指先だけが接する。
 音はなく、光もなく、そこに在る光景だけが差し替えられでもしたかの様に切り替わるその瞬間。
 深沈とした水底の静謐さを、無数の微細な光の瞬きと共に纏い、先程までいた澱みの龍よりも更に小さく、一匹の龍はそこに佇んでいた。
 触れたアスの指先の先、龍には既にアスと変わらないぐらいの大きさしかなく、瞼の代わりに下ろされた透明な鱗の向こうにある深い青色の目が未だ定まらない焦点に揺れている。

 ぱしゃりと清らかな流れの中で、小魚が無邪気に跳ねる光景を幻視する様に、尾鰭へと向かうにつれ細くなる体躯に、水の中から出された煌めく鰭が水面を叩く。

 佇む龍の、湖の澱んだ水に浸した場所は濃い紫がかった藍色に、頭部へと向かうにつれて、群青や紺碧と言った澄んだ色合いを湛え、その微細な鱗へと彩りを揺らめかせていた。
 ぱしゃりと再び尾鰭が叩く水面。
 そして目を保護していたであろう透明な鱗が消えて、そこにある瞳には、清流の青に南海の穏やかな碧色を紛ぜ込んだ、宝石の如き藍珠の輝きが柔らかく煌めいてアスを映している。

ー・・・・・・ー

 鰐の様な蛇の様なあぎとからは如何な言葉も、鳴き声すらも発せられる事はなく、けれど寄せる鼻面に、アスの首筋へと擦り寄る仕種は、まるで愛玩動物ペットが飼い主に甘えて示す思慕の様に見え、アスもまた、愛おし気にその仕種を受け入れている。

 龍の顔を寄せる仕種に、フェイはその瞬間こそ動きかけたが、けれど、今はどうするべきかと静観の構えを見せているようだった。
 それで良いとアスも思う。

青き石にラピス・祈り仰ぐフィデス・秘されしセクレートゥム=霊薬のリディアル・水瓶アクアーリウス

 呼ぶ名前に、呼ばれた名前に、その存在は再度アス達へと見せる姿を変えた。
 龍はその細長い身体を水流に変え、水流は渦巻く様に身体の中央だった場所へと向けて集束する。
 水流越しに見た、揺れる向こう側の景色。
 けれど、流れだったものはやがて形を得て、そして、透明だったところは色を持つ。
 そこにあるのは未だ半透明のままだが、緩やかに波打つ青銀の長い髪を揺蕩わせた愛らしい少女の姿だった。
 纏った藤色から空色へと移り行く裾へのグラデーションで彩られた丈の長いワンピースから細過ぎる四肢が覗く。
 その少女は素足で爪先立ち、何もない水面で佇んでいる。
 アス達がいる見えない足場とは違い、少女がいる場所は本当に水しかない場所。それにも関わらず少女は沈んでしまう事なく佇み、伏せ目がちにした双眸にもアスを眺めていた。
 それを見詰め返すアスは、微笑む表情のまま、ただ愛しいと言う感情を伝え続ける様に。

 少女は、磨き上げた青い宝石の様な大きな瞳を持つ、十代前半か半ば程の、今のアスと同じぐらいか、少しばかり幼いかと思わせる姿をしているが、その血の巡りを感じさせない白磁の肌の中で、唇だけが紅を引いているかの様な赤色をしている事で何処か作り物めいて見えていた。
 けれど、震える睫毛に目蓋を押し上げ、アスと目が合ったと思ったその瞬間、少女はニコリと無邪気で無垢な微笑みを浮かべ、そして、その姿は朝日を浴びた朝靄の様にすっと消えてしまった。

「・・・・・・」

 理解が追い付かないが故の沈黙か、声を出すことすらも憚られるかの様な静寂か。

 何時の間に日は落ちていたのか、深く沈んだ闇夜の気配が直ぐ側まで迫っていた。
 
 そんな中、不意に細波立った水面に、アス以外の者達は反射的にも身構える。
 何処か惚けた様なアスは感情に薄くも、その水面を眺め、そして細波は絡み合い、水面に渦巻く様にして水流は立ち上がった。

 視線は、自然に一点へと集う。
 螺旋を描く水流は鰭持つ蛇の尾の様にも見えて、そこには澱みの中へと取り込まれたルキフェルの姿があった。
 水の尾へと巻き付かれたルキフェルに意識はない様で、そこだけは凪いで見えた水の中でぐったりとしている。
 見える範囲に外傷等が確認できない事に、アスは密かに詰めていた息を吐き出す。
 ルキフェルの身体を抱く水流は伸び、水上での水平移動でアスの前を素通りし、フェイの前で止まりかけ、けれど結局はやはり通り過ぎ、そして結局はカイヤの前で止まった。

「・・・は?あ、いえ分かります、ええたぶん」

 直ぐの反応が出来なかった沈黙は動揺か、カイヤはややぎこちなくも目の前にあるルキフェルの身体へと向け、受け取る姿勢で両の手を伸ばして行く。

「配慮されたのだと思いますが、その人、私より腕力的なものも体力的なものも、ないですよ?」

 緊張が溶け、何事もなかったかの様にフェイの浮かべる苦笑の意味を、見遣るカイヤのどうにも必死そうな顔にアスはなんとなくにも察した。
 そしてそれは、ルキフェルを支える水の尾も同じらしい。
 水の流れが象った今の姿に、目に類するものはなくとも、感知する為の機能は何かしらがあるのだろう。
 けれど、気付いたその時には、既にルキフェルの身体はカイヤへと託されていて、覚悟を決めて託された筈のカイヤは、狭い足場の事もあいまり、支えきれず、抱き止める身体ごと急速に傾いでいった。

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