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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】
79 銀礫の魔女の隠し事
しおりを挟む「誓約の先をすげ替えて、今は誤魔化せたとしても欺き続ける事は不可能で・・・代償を支払わねばならないのだろうな私も、お前も」
目を向ける送り出したルキフェルの背中へとアスは呟いていた。
左手に黒い鞘を、右手にその刃を露とした長剣を持ち、ルキフェルは澱みの龍のもとへと駆けて行く。
磨き上げた金属の様に光を反射する事なく、一見すればその場所に底の見えない穴でも空いているかの様に闇がある。
その闇こそこが刃の形を成していた。
地面と水平にして構えられれば、その場所の空間に亀裂でも入っているかの様な錯覚に陥る程の、窺い知る事の難しい闇の刀身を、アスは感情を映さない眼差しのまま見詰める。
ー遍く全てに意味はなく 幾重の想いは響かぬままにただ潰えしー
見詰め、そして口ずさんでいた。
節を刻みながらも抑揚を欠いた声音で、響かせる声音にも感情を乗せる事なく、ただ何時かの記憶に聞いた音をなぞる様に。
ー報われるものはなく 嘆きの聲は等しく世界を覆うー
ー然れど お前が願うべくを識るならばー
ー然れど お前がが望むべくを乞うならばー
直前で右から左へと鋭い動きで翻弄し、踏み切る勢いのままにルキフェルは切り上げる一撃を放ち、まるで大木を薙ぎ倒すかの様に澱みの龍の胴を切りつける。
狙い違わず、それでも長剣の刀身では龍の胴の三分の一程を切り裂く事がやっとの事で、けれど、次の瞬間、切り裂かれた腹からは、血の代わりにぼこぼこと泡立つ澱んだ青暗色の粘液が吹き出しルキフェルを襲った。
冷静な眼差しで踏み切る動きに迷いはなく、多量に溢れるその粘液を、ルキフェルは大きく跳ぶ右方へと回避する。
その瞬間に、アスのいる場所の四方から同時に澱みが噴き上がり、擡げられた蛇の鎌首の様にアスの頭上での切り返しでその全てが一勢にアスへと向かった。
「アス!」
動揺するルキフェルへと、アスは凪いだ眼差しへと笑みの感情を乗せる事で大丈夫だと伝える。
斬られた事で重心が崩れ、だからこそルキフェルのそれ以上の接近を嫌がる様に、澱みの龍がその短い腕を振るい、尾を叩き付けるべく動く。
未だに、アスへと向いているルキフェルの目へと、軋む心臓の痛みにも、張り直して見せた防護壁の中で僅かに顎を引く動きで頷いてみせ、それだけで成される意思の疎通に、ルキフェルは着地からの一直線の動きに澱みの龍へと向かう。
ルキフェルが駆け、見据える視線の先で、風の刃が龍の右の腕と翼を切り落とし、切り裂かれた腹に突如として出現した幾本もの氷の棘がその傷口を更に刺し貫き押し広げる。
ぶじゅぶじゅと、耳朶を侵す悍ましい音が咆哮の代わりに響き、堪らず、澱みの龍はその形を崩れさせながら擡げていた頭を湖面へと倒した。
そうして、何時の間にか湖面の澱みごと白く灰色に凍り付いていた場所へと、落ちた頭と胴が氷塊を弾けさせる。
烟る黒煙を映す微細な氷粒に、倒れた頭がそれでも氷の上で向きを変え、退化した目がアスの存在を捉えている。
渦巻く風が唸る低い音。
膨らむ喉の動きの、それが意味しているのは龍の吐息による攻撃。
ー全てを還す その先を識る “無限”ー
「ルキ、躊躇うな」
告げるアスの言葉に躊躇を捨てたルキフェルは、膨らみきる前の喉へとその剣を突き立てた。
収束しきらなかったブレス。
バキリと何か硬いものが砕ける致命的な音。
ー、・・・・・・ー
息を呑んだのか、何かを言うべく息を吸ったのか開閉する龍の顎は結局のところブレスどころか如何なる音を洩らす事もなかった。
そして、その瞬間に大きく蠕動した澱みの龍の喉、それから体躯そのものまでが、あまりにも脆く呆気なくその存在を崩れさせて行った。
サラサラと、烟る黒霧に混ざり、龍の身体だったものが形を失って行く。
「終わった、のか・・・?」
足場の一つに着地を果たしていたルキフェルが呟く声を聞いた。
今、その手に何もないのは、澱みの龍へと突き立てた状態の長剣から手を離さざるを得なかったからだろう。
あの一撃への確かな手応えを感じていた為に、ルキフェルは無理矢理引き抜くよりも、崩れる体躯から巻き込まれない為の避難を優先した。
ルキフェルとしては、最悪長剣は湖に潜って回収としよう決めているのだ。
ほんの一瞬だけ、役目を遂げた自らの長剣の行方を目で追うべくルキフェルの注意が龍だったものの存在から逸れた。
「ッ駄目だ!」
アスは感じた瞬間に叫ぶ。
烟る黒煙へと消えた澱みの龍。けれど、湖面を覆う粘性ある闇、その闇の塊たる存在が、確かに脈動を続ける様をアスは見ていた。
「っ」
「アス!!」
何かを言おうとして、言葉に出来ないまま、アスは再び競り上がって来たものに堪えきれず、自身のその口を血に染めた。
持ち直したとはいえ、それは気力だけの事だったのだ。既に負っている損傷や消耗はどうにもならない。
見てしまったその光景へと焦るルキフェルがアスのもとへと急ごうとして、だが、その瞬間こそが、動き続けていたものに対しての致命的な隙となった。
音はなく、気配すらも乏しく、水面から伸びた細い触手の一本がルキフェルの足を絡め取ると、勢い良く水中へと引き込む動きにその身体を引き摺り倒す。
「ルキ!」
叩き付けられた足場に、打ち所が悪かったのか目の焦点がおかしい。
それを見て取ったアスは、ルキフェルを呼び、けれど、次々と噴き上がる様にしてその身を伸ばし来る澱みの触手は間髪入れる事なくルキフェルの身体を絡め取って行く。
「ルキ!ルキフェル!」
アスは口を濡らす鮮血すらもそのままに強く呼び掛ける。なのにルキフェルの青い瞳からは意思の光が失われて行く。
触手はルキフェルの存在を取り込まんとしているかの様に蠢き、今やルキフェルの身体のほとんどが澱みの中へと沈んでいた。
どうにか立ち上がるアスは、ルキフェルのもとへと行こうとして・・・
「いいんじゃないですか?」
何時の間にかそばに来ていたフェイに言われた言葉へと、アスは足場から離せなくなった自身の足に気付く。
「そうですね、あれはもう魂にまで侵食を許しかけている」
カイヤがフェイの隣、静かな声音でそんな見立てを告げる。
「だそうですし、巻き込まれる必要性、貴方にはないのでしょう?そもそも逃げたがっていた相手が、こちらが動かなくても消えてくれようとしているんですから」
「彼が堕ちた勇者だと言うのなら、ここで助かろうと、使命に失敗している限り、長くはもちません。ならばここで眠る様に終らせて上げることも慈悲だと思いますよ?」
フェイはアスの為に、カイヤはルキフェルの為に、それぞれがこの状況を是としていた。
アスは動かない。望まれない事に、ただ動けないまま、そして、淡い紫の瞳が何処を見るでもなく色濃く諦感の感情を映した。
血に染まる不自然な程の赤い唇が浮かべる笑みは儚くも愁いを宿し、けれどその瞳が再び澱みの龍の残滓とも言うべきものへと向けられる時には、慈しむ様に愛おしむそんな柔らかな感情だけを宿していた。
「アス?」
「銀礫の魔女?」
「アクアーリウス」
アスはそう優しげな声音で呼んだ。
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