月白色の叙情詩~銀礫の魔女が綴るもの~

羽月明香

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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】

69 溢れるもの

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 見遣る手に焦点を結び、過去へと馳せていた意識を呼び戻す。

「駄目だな・・ー」

 呟く事で感傷に近い思考を散らした。
 そうしてアスは、腰に回されている腕へと明確な意思をもって触れる。

 聞いたであろう呟きと、そっと、指先だけを添わせる様な触れ方に何を感じ取るのか、ルキフェルの身体がびくりと振るえた。
 そんなルキフェルを宥める様に、或いは慰める様に触れたままの指先を僅かに動かし、そしてアスは告げるのだった。

「放せ」

 仕種に対して、恐らくは想定外としか言い様のない、一言だけの素っ気ない言葉。
 たったそれだけの言葉に温度はなく、アスの茫洋とした瞳は、見下ろしていたルキフェルの腕から、凪いだ水面の沖合いへと眼差しを向けて行ってしまう。

「っ、嫌だ」

 受けた衝撃に言葉を詰まらせかけながら、ルキフェルは拒否を叫んだ。

 その明確な拒絶と、譲らない事をアスへと確信させるだけの意志の強さを思い、アスの双眸は細波立つ水面のある一点を見詰めて、表情へと淡く、そして呆れた様な笑みを刻むのだった。

「もう一度言う、放せ」

 温度はないが硬質的でもない声は、何処か言い含めるかの様な響きがあった。
 
 アスはルキフェルを見る事のないまま告げ、アスの背中側にいるルキフェルからは、角度的にアスの表情を窺う事は出来ない。
 ルキフェルに余裕はなく、アスは他者の感情の機微は分かっても、自分のものとして受け取る事を苦手としている。
 だから寄り添いきれず、擦れ違ってしまう事がある。
 そして、かつてとは違い、周りにそれを手助けしようとしてくれる者は誰もいないのだった。
 
 そもそも、十代半ばに見えるかどうかと言う少女と言った外見のアスの腰へと腕を回し縋り付く、二十代前後である青年の姿。
 拒否をされても聞き入れないそれは、端から見ればかなりの何だこれな状態なのだ。アスが魔女で見た目通りではないと一応の実情を知っている為に、誰も口を挟む事がないそれだけであり、そして今やそんなに気を割いている余裕等、既に許されなくなっていた。
 
 静か過ぎる空気が孕むものに、ただ必死であるルキフェルだけが気付いていない。
 だから、アスは会話の相手を変える事にした。
 
「フェイ、カイヤは何故あの時に呼びかけたシャゲではなく、勇者を使ってまで私を殺そうとしたのか分かるか?」

 有耶無耶になってしまってはいるが、ルキフェルが空からの大行な登場を以て割り込んで来たそもそもの原因をアスは問う。

「勇者の刃でなければ貴方には届かない」

 坦々とした答えにアスは可笑しそうに、そして満足そうに、細める目だけで笑った。
 フェイは気付き、そして、きちんと理由へと考えを及ばせ、正解に近い考えにまで辿り着いていたのだと。

 あの時、ルキフェルの行動で防がれはしたが、ミハエルは明確な殺意を抱き、その刃をアスへと向けた。
 戦いに身を置くものとしての直感からある種の危機感を感じ取り、勇者としての有り様がその行動を促す。
 けれど、未だ浅い経験からか、実際に動き出す迄には至ってはいなかった。

「あの勇者は禍の萌芽を摘み取る刃を持ってはいても、目にしているそれがそうだと分かってはいなかった。花開く時には手遅れなそれ。だから、庭師カイヤは促した」 

 答えへの解説の様に、アスはフェイへと話し続ける。
 見て聞いていたフェイは正しく事象を拾い、アスはその答えへと合わせて説明をしていた。

 行動への引き金を引いたのが、ミハエルを呼んだカイヤの一言であり、それに、気付いていたからこその、次はないとの言葉を実行に移したフェイなのだ。

「私は私の為に、貴方を逃がす訳にはいきませんので」

 アスは魔女たる存在を不用意にきずつける存在を許容しない。
 あの時、それをしようとしたカイヤ達へ『次はない』と宣言を下し、それを知っていて、その意思に自身との利害の一致を見たフェイは今回、制裁へと動いた。
 フェイもまた、不用意にアスへと手を出す事は許さないと示す様に。

「ですが、・・・これはあまりにも、っ」

 戦慄きかける唇を引き締める様にしてフェイは息を呑む。
 フェイは今、ようやくカイヤがアスを弑てまで避けたかった事態に気付いたのかもしれなかった。

ーこぽりー

 遥か水底で、澱み滞留した汚泥からガスが沸き上がる様に、そして、何処か粘性を帯びた、耳朶へとへばりつく音は、酷い不快感と嫌悪感、強い忌避感をも抱かせ、周囲へと緊張を強いて行く。

「澱みが溢れ落ちる」

 アスは呟く様に告げる。
 こぽり、ごぽりと何かが水底から沸き上がって来るかの様な光景に、けれど、それは、アスが言う様に、器へと湛えられ、表面張力で堪えていた液体が、今にも溢れ行こうとする瞬間に酷似して見えた。

 アスが、フェイが、カイヤやシャゲが見詰める水面の一点へと、沸き上がる気泡に色付き、濃く、暗く、その場所を汚した色彩に意識が絡め取られた瞬間、それは一息の内に溢れ、清らかな水面を侵食し穢し覆い行く。

 青く澄んだ清澄たる流れが、瞬く間に暗く冥く、時に燻し銀の如き鈍い反射を見せる暗灰色の澱みを湧かせ、漂っていた白い霧の変わりに、重く色付き煙る視界を曖昧に遮る黒灰と紫紺色に暗緑色を様々な濃さで混じり会わせ濃淡を描く。そんな禍々しいとすら表現されそうな光景。

「これを見越しての“勇者”か」
青の集落カエルレウスの長としてこの地の限界を感じていました。そして、あの方にて戴いた事で、予定される手札を揃えたつもりでした」
「住民の避難が終わっているのは安心だが、一番重要な勇者手札が欠けていないか?」
「予定外です」

 本当に、想定していなかった事態なのだろう。
 本来ならこの状態になった時、ここには今代の勇者であるミハエルとそのパーティがいる筈だったのだ。

「アス?」
「澱んだ魔粒子マナパーティクルの滞留、言うなれば瘴気溜まりだ・・・いい加減、本当に放せ、対処に動く」

 ルキフェルがアスの背中から離す頭に、不思議そうにアスを呼び、今更の様に周囲を窺っていた。
 その仕種の緊張感のなさと、場にそぐわず、暢気さすら感じさせる雰囲気に、僅かばかり張り詰めた空気が弛緩する。

「澱みの耐性がない生き物が死ぬか、魔物に変異する。いや、耐性があっても生半可なのじゃ駄目なレベルだ」
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