月白色の叙情詩~銀礫の魔女が綴るもの~

羽月明香

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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】

30 アス改め

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 カイの左前足の付け根付近から胸にかけて、そこにはアスによってつけられた裂傷が口を開けていた。筈だった。
 同じ時にアスが負った傷に気を取られ、今の今までルキフェルは気付いていなかったのだが、カイに生じた傷、そこからは一滴の血も流れてはいなかったのだ。
 傷が血も出ない程度の浅さと言う訳ではない。ある筈の毛皮の防御をものともせず、ぱっくりと開いた傷口は、ルキフェルの片手の手の平を大きく開いた時の親指から小指の先までの距離よりも広く、それなりの深手である事を窺わせる。
 けれど、胸と言う位置的にも本来ならばそれなりの出血を伴っていたであろうその患部が、今、夥しい量の血液の代わりに、ぬらりと暗く艶めいているのをルキフェルが見ていた。
 血か溜まっている訳でも、変色した内臓が見えている訳でもなく、けれど、何処かそんな色合いを想起させる、そんな生理的な気分の悪さを感じさせる何かがそこにあるようだった。

「眷属の蛇、それも幼体だな・・・ホント、どれだけ余裕をかましたらこんなのにイイようにされるんだかな、なあ月代つきしろの?」

 口もとに刻む不敵な笑みとは異なり、鼻を鳴らし細める双眸にカイを見る様は面白くなさげだった。

「は、・・・お前、自身の命を危険に晒して、主の命令よりも優先させて、なお失うワケだ」

 一転して、それは哀れむような響きを帯びた声音のもとに発せられた。
 けれど、カイを見据えるその赤い瞳は何処までも冷たく厳しく、凍てついた峻厳さがあり、そして、アスであり、アスでは有り得ない“誰か”は、嗤った。

 残像すら見えるか見えないか、静から動へその一瞬にも満たない刹那の挙動に、カイの胸から僅かばかりの赤黒い鮮血の飛沫が散り、そして、アスの姿をした“誰か”は、そのしなやかな指を持つ少女の手には似つかわしくないものを手にしていた。

「・・・うん?」

 怪訝そうに傾げる首と瞬かせる赤い双眸。
 けれど、びちっびちっと掴まれた状態で蠢くそれに、その場にいる者の視線が集まっていた。

 その生き物を例えるなら蛇と言うよりも蛭だろうか。赤黒い表皮はぬらぬらとした光を纏い、一見して目も口もないが故にどちらが頭かも分からない細長くも、はち切れんばかりに太っていると分かる胴体。
 キーキーと、何処から発せられているものなのか、甲高く耳障りな鳴き声とおぼしきものが、のたうつ動きに合わせて聞こえていた。
 その嫌がる様な鳴き声の原因は、二十センチ程のぬらつく胴体の中程を鷲掴みにする手だろう。
 掴まれた場所からシューシューと白煙を上げ、びちびちと激しく蠢く様は死に物狂いで拘束から逃れんとしているかのようだったのだ。

「表皮から分泌される粘液に、痛みの感覚を鈍らせるとか、幻惑するだとか、魔力を高めさせる為の興奮作用とか、まあ色々あるワケだ」
「上手く使えば良い薬が作れそうですね」

 白煙と一緒に生じ始めた臭気に顔を顰めながら、フェイはニーズヘッグの幼体と言う生き物を繁々と眺め、そう発言した。

「ん?飼育するにはむかないが、欲しいならやるぞ?」
「いえ、私の手にはあまりそうなので、いりません」
「可愛くも格好良くもないしな、コイツ」

 何の溜め息なのか、眺め見る赤い瞳から興味なさげに呟く様子。そして、ニーズヘッグの幼体の全身が一瞬にして炎に包まれた。
 見張る目にやや仰け反るフェイは、悪戯が成功したかのように可笑げに弧を描いた口もとを見る。

煉狗れんくの魔女」

 そんな笑みへとフェイが告げると、手の中に残った僅かばかりの塵か灰のようなものを払う仕種のままの、虚を突かれたように瞬く赤い双眸と目が合った。

「違うようですね、ですと、緋燕ひえん朱架しゅか?それとも、蓮戯れんき赤鵞しゃくがになりますか?」
「ああ、何だ、いやどれも違う。たぶんイイ線はいっているんだろうが、あとアタシからは名乗れない」 
「応えることは出来る、そういった制約ですか」

 フェイは会話から情報を的確に拾い集めているようだった。
 くくっと喉を鳴らし、フェイを見る愉しげな笑みから、けれど、その感情を窺い見る事が難しいのは、それがアスの顔をしているからだろう。

「アキって呼ばれてるな、今は。ココがアタシのギリギリで、ついでに、コイツもそろそろマズイ感じだな」

 アスではなくアキだと名乗ると、アキは見据える赤い眸に虚ろな双方で佇むカイを見ていた。
 カイの胸にあった裂傷は、今、そこにいたニーズヘッグの幼体が引き摺り出されたが為に、ぽっかりと暗い空洞を晒し、そこから流れ出た僅かばかりの血が周囲の毛並みを赤く染め始めている。

「アキ、ですか」
「そ、でだな、なんでコイツこんなちんまくなってる?」
「小さく?」
「今はアス?か、上手く距離感が取れなくて、無駄な怪我をさせた」

 忸怩たると言った表情は、カイの身を案じていると言うよりも、自分の技術で予想外の傷を負わせたと言う事に向いているようだった。
 そう言えばとフェイが思い出すのは、カイの身体から、ニーズヘッグの幼体を素手で引き摺り出したアキが浮かべていた怪訝そうな表情だ。
 素手でと言う衝撃に忘れかけていたが、あの時の反応の理由にフェイは小さくなっていると言ったアキの言葉から答えを察した。

「アスティエラだ」
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