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7 領地
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空は青く、緑の丘はどこまでも続いていた。白い羊の群れが犬に追い立てられながら、丘を登っていく。
領主の館から抜け出して、メアリーと一緒に近くの丘にピクニックに行くのが日課だ。
今までの私は地下室と迷路の庭しか知らなかった。でも、ここは違う。どこにも遮るものがない広い丘をどこまでも登って行ける。どこまでも自由に走って行ける。
あの丘を登ったら、いつものようにランチにしよう。
柔らかいパンにはたっぷりのバターを塗って、分厚いハムとチーズをかじって、デザートにはみずみずしい果実を頬ぼって。まぶしい太陽の光を浴びて、そよ風に吹かれながら食べる食事は最高なのだから。
「お嬢様、待ってください!」
後ろから追いかけてくるメアリーを待つために、足を止めた。
「はぁ、はぁ、お嬢様は王都で暮らされてたのに、どうしてこんなに足が速いのですか?」
「それはね、外の世界がこんなにも美しいからよ。もっと見てみたいと、その先へと急ぎたくなるのよ」
14歳にもなってワンピースで走り回る貴族の令嬢なんてきっと王都にはいない。でも、今だけは、この限られた半年の間だけは、リリアーヌではなく、本当の私として生きてみたかった。自由にどこまでも行ってみたかった。
「ねえ、メアリー。明日お茶会に行くコンロード子爵夫人ってどんな方なの?」
メアリーはデュボア侯爵家の分家の男爵家の出身で、伯母はコンロード子爵家に嫁いでいる。
「コンロード家は隣国との貿易が盛んで、すごいお金持ちですよ。伯母様はいつも私にお土産をたくさんくれる気前のいい方です」
「そうなの?」
病気がちだったリリアーヌは社交を全くしていなかったから、コンロード夫人にも会ったことはない。
初めて行くお茶会は緊張するけれど、メアリーの伯母なら優しい方なのかしら。
午後の家庭教師の授業ではお茶会の会話のマナーを復習しよう。地下室には話し相手がいなかったから、上手な会話の仕方が分からない。
「メアリーも男爵令嬢として一緒に出席してくれる?」
初めてのお茶会は不安でたまらない。召使いとして連れて行ったら、一緒にテーブルに着くことはできないけれど、男爵令嬢としてなら会話に加わることができる。
「もちろんです。でも、田舎育ちの私のマナーの悪さも気にしない伯母様は、優しい方ですよ」
メアリーは私の不安を吹き飛ばすように明るく笑った。
コンロード子爵家は馬車で半日ほどの距離で、大きな港の近くにある。海沿いに立つ白い壁の館は、ぎらつく太陽の光を反射していてまぶしい。
「ようこそ。リリアーヌ様。お会いできて光栄です」
子爵夫人は40代半ばのはずなのに、もっと若く見える。隣国のドレスや化粧など、最先端のものを取り入れているからだろうか。
少し酸っぱいハイビスカスのお茶をいただきながら、談笑していると、同じ疑問を持ったメアリーが若さの秘訣を問うた。
「伯母様はうちの母よりもずっと年上のはずなのに、どうしていつまでもそんなに若いんですか? この前会った時よりも若返って見えます」
メアリーはそう質問しながらも、右手は珍しい異国のチョコレート菓子に伸ばしている。
子爵夫人は翡翠色の瞳をキラキラ輝かせながら、内緒話をするように声を潜めた。
「実はね、お隣の国から魔法医の先生に来てもらってるの」
「え?」
「隣のシュトルム帝国は我が国と違って医療が進んでいるでしょう? 魔法を使って施術をする医者がたくさんいるのよ」
我が国の医療は治癒魔法を持つ聖女に支えられている。聖女の治療や聖水を得られない貧しい平民は、薬草に頼る。でも、隣国のシュトルム帝国は聖女が生まれない代わりに、医術が発展していると本で読んだことがある。
その国の魔法医が来ているの? 頭の中で、黒髪に赤い瞳の美貌の魔法医の姿がよみがえった。あの時の死神もシュトルム帝国の者だったのかしら?
「先週手術してもらったら、しわがきれいに消え去ったのよ!」
夫人はぱっちりと大きな翡翠色の瞳の近くを指さした。
張りと艶のある肌は20代にしか見えない。
「本当に素晴らしいのよ。まあ、あなたたちにはまだまだ必要ない手術だけれどね。そのお医者様はね、すごく美形なのよ。見ているだけでも眼福よ。よかったら紹介するわ」
「ええー。そんなにかっこいいの?」
「待ってて、今、呼びに行かせるから」
面白がってはしゃぐ二人を見ながら、クッキーをつまんだ。
メアリーに来てもらってよかった。夫人はとても良い方だけど、私は雑談が苦手みたい。何を話して、どう反応していいのかさっぱりわからないもの。
その魔法医が来たらとりあえず容姿をほめればいいのかしら?
でも、やってきたその人物を見たとたん、言葉を失った。
「初めまして、お嬢様方。魔法医のゼオン・イースタンと申します」
肩まで伸びた癖のある黒髪に赤い瞳の美貌の医者は、間違いなくあの時に見た死神だった。
「夫人の妹さんですか? お美しいご令嬢ですね」
死神を目にして固まった私を気にせずに、ゼオンは子爵夫人に勧められるまま空いていた椅子に座った。
「まあ、妹だなんて。ほほほ。私の弟の娘なんですのよ。今日は姪のお仕えする侯爵家のお嬢様に来ていただいて、一緒にお茶を楽しんでますの」
「そうですか。美しい方が集まると場が華やかになりますね」
「ふふ、ありがとう。あなたも男性なのにとても美しいわ。もしかしてご自分にも奇跡の施術を施していらっしゃるの?」
「残念ながら、自分で自分には手術できないのですよ」
ゼオンは優雅にハイビスカスティーの入ったカップを持ちあげながら微笑んだ。自分の容姿の良さを最大限に生かすような仕草に、夫人もメアリーもうっとりとゼオンを見つめている。
その視線に応えて、ゼオンはハイビスカスティーと同じような赤い瞳で、二人を見つめながら巧みな話術で賛辞を送った。
こうやってこの男はリリアーヌの信用を勝ち得たのだろうか? 三人の会話に耳を傾けながら、じっと彼を観察する私の視線が赤い瞳と交わった。彼は愉快そうに瞳をきらりと輝かせて笑った。
「ご令嬢はこちらに療養に来ているのですか?」
凍り付いたように何も言えなくなった私の代わりに、メアリーが答えた。
「リリアーヌ様は病気が治ったばかりなんです。ゼオン様と同じシュトルム帝国の魔法医が治療したそうですよ。初めて会った時は包帯でぐるぐる巻きだったのに、もうすっかり良くなって、今では毎日、羊と一緒に丘を走り回ってます!」
素直なメアリーは思ったことを考えなしに口に出してしまう。侍女としてどうかと思うけれど、ゼオンの反応が知りたくて止めなかった。
「そうですか。快癒なされてなによりです。我がシュトルム帝国は医療が発達してますので、ご令嬢の力になれることもあるでしょう。もう、どこも具合の悪いところはありませんか?」
テーブルの上で長い指を組みながら、ゼオンはにっこりと私に笑いかけた。
「……そうね。順調に治っているわ。……もし、良かったらこの後、診察していただけないかしら?」
彼に聞かなければいけないことがあった。なぜ、私がリリアーヌになったのか。彼なら知っているかもしれない。
「よろこんで。ではさっそく始めましょう。ああ、医療情報は守秘義務がありますので、二人だけにしていただけませんか?」
え? 未婚の貴族の令嬢が男性と二人きりになるなんて許されるわけない。
そう思っていたのに、子爵夫人もメアリーも、ゼオンに言葉巧みに誘導されて、あっさりと部屋から出て行った。
絶対に、おかしい。
いぶかしむ私に、ゼオンは笑いかけた。
「便利でしょ。俺の魔法はこれくらいの精神作用なら簡単なんだ」
精神の魔法? そんな魔法は聞いたことがない。
「まあ、俺に好意を持ってくれる女性限定だから、万能ではないけどね。それに、妹ちゃんには効かなさそうだ」
「! 今、なんて?」
「ん? 妹ちゃんには俺の精神魔法が効かないってこと? まあ、闇属性は聖属性には弱いからね。妹ちゃんの聖属性魔力はとても多いから、効き目が悪いんだよね」
「私のことを妹って?」
「うん、ごめん。名前を知らないんだ。でも、リリアーヌじゃないことは確かでしょ」
! やっぱり、私がリリアーヌとして目覚めたのは、この男の仕業なの? この男が私をリリアーヌにしたというの?
「どうして、こんなことしたの?」
震える声で、問いただした。
声だけでなく、手も震えている。テーブルに置いた手のひらがソーサーに当たって、ガチャッと小さく音を立てた。
「どうしてって、君に助けを求められたからだよ。手術室で、俺に助けてって君の目が言ってたんだよ」
ああ、あの時、死神に救済を願った。私の願いはこんな形でかなえられたの?
「まあ、看護師のアンナから頼まれてたのもあったしね。幼い子供が無理やり魔力譲渡させられているから助けてほしいって」
アンナが? そう、アンナはいつも一緒にいてくれた。でも、地下室に鍵をかけて私を閉じ込めて、私を監視して両親に報告していたのもアンナだった。
「まあ、罪滅ぼしみたいなもんじゃない? 子供に魔力譲渡させるなんて残酷すぎて、大金を積まれても罪悪感が大きいよね」
アンナのおかげだったというの? 手術後にアンナと一緒にいなくなった庭師も協力者だったのかしら。
「それよりさ、シュトルム帝国においでよ。妹ちゃんの作る聖水があれば、一財産築けるよ。俺と一緒に行こうよ」
ゼオンは突然立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「シュトルム帝国?」
そんなこと、今まで考えたこともない。だって、私は、ここでリリアーヌとして生きていくのだもの。大聖女になって、あの太陽のような王子様に会いたいのだから。
「ああ、もしかして、俺は振られちゃう?」
私の顔色を読んだのか、ゼオンは残念そうに手を振った。
「まあ、いいよ。もし、一緒に行きたくなったら教えて。待ってるから」
そのまま、振り返りもせずに開いた扉から出て行った。
どうしてそこまで私を助けようとするの? ああ、そうか聖水のためね。効果の高い聖水はどこの国でも求められているから。
ゼオンの好意は全て聖水のためだと気が付いて、気落ちした自分が情けなかった。
私はすっかり冷めてしまったお茶を飲みほした。
私は、ここでリリアーヌより優れた聖女になるのよ。夢に見た王子様と一緒になるの。
そう自分に言い聞かせた。
そんな領地での半年間はあっという間に過ぎた。誰にも私の自由を邪魔されることなく、メアリーと一緒に領地のあちこちを見学して、本当に心から穏やかに過ごせた。何も知らない使用人は全員とても優しかった。私はそこで家庭教師からマナーを教わった。病弱だったので何も知らないという嘘を信じて、家庭教師は一から教えてくれた。本から得た豊富な知識を優秀だと褒めてもらった。
ただ、平民に対しての接し方は注意された。
掃除や料理をする下働きにまで感謝を伝えるのはだめだそうだ。私は今まで、使用人以下の扱いをされていたから、貴族としての振る舞いは難しい。でも、リリアーヌなら、決して平民とは仲良くしないだろう。王都へ戻ったら気をつけないといけない。
ずっとここにいられたらいいのに。
楽しい時間はすぐに終わり、もう王都に戻らないといけない。
リリアーヌは聖女を目指していたのだから、私もそうしないといけない。
私は鏡の中のリリアーヌに、何度も練習した完璧な笑顔を送った。紫の瞳がきらりと銀色に光った。
領主の館から抜け出して、メアリーと一緒に近くの丘にピクニックに行くのが日課だ。
今までの私は地下室と迷路の庭しか知らなかった。でも、ここは違う。どこにも遮るものがない広い丘をどこまでも登って行ける。どこまでも自由に走って行ける。
あの丘を登ったら、いつものようにランチにしよう。
柔らかいパンにはたっぷりのバターを塗って、分厚いハムとチーズをかじって、デザートにはみずみずしい果実を頬ぼって。まぶしい太陽の光を浴びて、そよ風に吹かれながら食べる食事は最高なのだから。
「お嬢様、待ってください!」
後ろから追いかけてくるメアリーを待つために、足を止めた。
「はぁ、はぁ、お嬢様は王都で暮らされてたのに、どうしてこんなに足が速いのですか?」
「それはね、外の世界がこんなにも美しいからよ。もっと見てみたいと、その先へと急ぎたくなるのよ」
14歳にもなってワンピースで走り回る貴族の令嬢なんてきっと王都にはいない。でも、今だけは、この限られた半年の間だけは、リリアーヌではなく、本当の私として生きてみたかった。自由にどこまでも行ってみたかった。
「ねえ、メアリー。明日お茶会に行くコンロード子爵夫人ってどんな方なの?」
メアリーはデュボア侯爵家の分家の男爵家の出身で、伯母はコンロード子爵家に嫁いでいる。
「コンロード家は隣国との貿易が盛んで、すごいお金持ちですよ。伯母様はいつも私にお土産をたくさんくれる気前のいい方です」
「そうなの?」
病気がちだったリリアーヌは社交を全くしていなかったから、コンロード夫人にも会ったことはない。
初めて行くお茶会は緊張するけれど、メアリーの伯母なら優しい方なのかしら。
午後の家庭教師の授業ではお茶会の会話のマナーを復習しよう。地下室には話し相手がいなかったから、上手な会話の仕方が分からない。
「メアリーも男爵令嬢として一緒に出席してくれる?」
初めてのお茶会は不安でたまらない。召使いとして連れて行ったら、一緒にテーブルに着くことはできないけれど、男爵令嬢としてなら会話に加わることができる。
「もちろんです。でも、田舎育ちの私のマナーの悪さも気にしない伯母様は、優しい方ですよ」
メアリーは私の不安を吹き飛ばすように明るく笑った。
コンロード子爵家は馬車で半日ほどの距離で、大きな港の近くにある。海沿いに立つ白い壁の館は、ぎらつく太陽の光を反射していてまぶしい。
「ようこそ。リリアーヌ様。お会いできて光栄です」
子爵夫人は40代半ばのはずなのに、もっと若く見える。隣国のドレスや化粧など、最先端のものを取り入れているからだろうか。
少し酸っぱいハイビスカスのお茶をいただきながら、談笑していると、同じ疑問を持ったメアリーが若さの秘訣を問うた。
「伯母様はうちの母よりもずっと年上のはずなのに、どうしていつまでもそんなに若いんですか? この前会った時よりも若返って見えます」
メアリーはそう質問しながらも、右手は珍しい異国のチョコレート菓子に伸ばしている。
子爵夫人は翡翠色の瞳をキラキラ輝かせながら、内緒話をするように声を潜めた。
「実はね、お隣の国から魔法医の先生に来てもらってるの」
「え?」
「隣のシュトルム帝国は我が国と違って医療が進んでいるでしょう? 魔法を使って施術をする医者がたくさんいるのよ」
我が国の医療は治癒魔法を持つ聖女に支えられている。聖女の治療や聖水を得られない貧しい平民は、薬草に頼る。でも、隣国のシュトルム帝国は聖女が生まれない代わりに、医術が発展していると本で読んだことがある。
その国の魔法医が来ているの? 頭の中で、黒髪に赤い瞳の美貌の魔法医の姿がよみがえった。あの時の死神もシュトルム帝国の者だったのかしら?
「先週手術してもらったら、しわがきれいに消え去ったのよ!」
夫人はぱっちりと大きな翡翠色の瞳の近くを指さした。
張りと艶のある肌は20代にしか見えない。
「本当に素晴らしいのよ。まあ、あなたたちにはまだまだ必要ない手術だけれどね。そのお医者様はね、すごく美形なのよ。見ているだけでも眼福よ。よかったら紹介するわ」
「ええー。そんなにかっこいいの?」
「待ってて、今、呼びに行かせるから」
面白がってはしゃぐ二人を見ながら、クッキーをつまんだ。
メアリーに来てもらってよかった。夫人はとても良い方だけど、私は雑談が苦手みたい。何を話して、どう反応していいのかさっぱりわからないもの。
その魔法医が来たらとりあえず容姿をほめればいいのかしら?
でも、やってきたその人物を見たとたん、言葉を失った。
「初めまして、お嬢様方。魔法医のゼオン・イースタンと申します」
肩まで伸びた癖のある黒髪に赤い瞳の美貌の医者は、間違いなくあの時に見た死神だった。
「夫人の妹さんですか? お美しいご令嬢ですね」
死神を目にして固まった私を気にせずに、ゼオンは子爵夫人に勧められるまま空いていた椅子に座った。
「まあ、妹だなんて。ほほほ。私の弟の娘なんですのよ。今日は姪のお仕えする侯爵家のお嬢様に来ていただいて、一緒にお茶を楽しんでますの」
「そうですか。美しい方が集まると場が華やかになりますね」
「ふふ、ありがとう。あなたも男性なのにとても美しいわ。もしかしてご自分にも奇跡の施術を施していらっしゃるの?」
「残念ながら、自分で自分には手術できないのですよ」
ゼオンは優雅にハイビスカスティーの入ったカップを持ちあげながら微笑んだ。自分の容姿の良さを最大限に生かすような仕草に、夫人もメアリーもうっとりとゼオンを見つめている。
その視線に応えて、ゼオンはハイビスカスティーと同じような赤い瞳で、二人を見つめながら巧みな話術で賛辞を送った。
こうやってこの男はリリアーヌの信用を勝ち得たのだろうか? 三人の会話に耳を傾けながら、じっと彼を観察する私の視線が赤い瞳と交わった。彼は愉快そうに瞳をきらりと輝かせて笑った。
「ご令嬢はこちらに療養に来ているのですか?」
凍り付いたように何も言えなくなった私の代わりに、メアリーが答えた。
「リリアーヌ様は病気が治ったばかりなんです。ゼオン様と同じシュトルム帝国の魔法医が治療したそうですよ。初めて会った時は包帯でぐるぐる巻きだったのに、もうすっかり良くなって、今では毎日、羊と一緒に丘を走り回ってます!」
素直なメアリーは思ったことを考えなしに口に出してしまう。侍女としてどうかと思うけれど、ゼオンの反応が知りたくて止めなかった。
「そうですか。快癒なされてなによりです。我がシュトルム帝国は医療が発達してますので、ご令嬢の力になれることもあるでしょう。もう、どこも具合の悪いところはありませんか?」
テーブルの上で長い指を組みながら、ゼオンはにっこりと私に笑いかけた。
「……そうね。順調に治っているわ。……もし、良かったらこの後、診察していただけないかしら?」
彼に聞かなければいけないことがあった。なぜ、私がリリアーヌになったのか。彼なら知っているかもしれない。
「よろこんで。ではさっそく始めましょう。ああ、医療情報は守秘義務がありますので、二人だけにしていただけませんか?」
え? 未婚の貴族の令嬢が男性と二人きりになるなんて許されるわけない。
そう思っていたのに、子爵夫人もメアリーも、ゼオンに言葉巧みに誘導されて、あっさりと部屋から出て行った。
絶対に、おかしい。
いぶかしむ私に、ゼオンは笑いかけた。
「便利でしょ。俺の魔法はこれくらいの精神作用なら簡単なんだ」
精神の魔法? そんな魔法は聞いたことがない。
「まあ、俺に好意を持ってくれる女性限定だから、万能ではないけどね。それに、妹ちゃんには効かなさそうだ」
「! 今、なんて?」
「ん? 妹ちゃんには俺の精神魔法が効かないってこと? まあ、闇属性は聖属性には弱いからね。妹ちゃんの聖属性魔力はとても多いから、効き目が悪いんだよね」
「私のことを妹って?」
「うん、ごめん。名前を知らないんだ。でも、リリアーヌじゃないことは確かでしょ」
! やっぱり、私がリリアーヌとして目覚めたのは、この男の仕業なの? この男が私をリリアーヌにしたというの?
「どうして、こんなことしたの?」
震える声で、問いただした。
声だけでなく、手も震えている。テーブルに置いた手のひらがソーサーに当たって、ガチャッと小さく音を立てた。
「どうしてって、君に助けを求められたからだよ。手術室で、俺に助けてって君の目が言ってたんだよ」
ああ、あの時、死神に救済を願った。私の願いはこんな形でかなえられたの?
「まあ、看護師のアンナから頼まれてたのもあったしね。幼い子供が無理やり魔力譲渡させられているから助けてほしいって」
アンナが? そう、アンナはいつも一緒にいてくれた。でも、地下室に鍵をかけて私を閉じ込めて、私を監視して両親に報告していたのもアンナだった。
「まあ、罪滅ぼしみたいなもんじゃない? 子供に魔力譲渡させるなんて残酷すぎて、大金を積まれても罪悪感が大きいよね」
アンナのおかげだったというの? 手術後にアンナと一緒にいなくなった庭師も協力者だったのかしら。
「それよりさ、シュトルム帝国においでよ。妹ちゃんの作る聖水があれば、一財産築けるよ。俺と一緒に行こうよ」
ゼオンは突然立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「シュトルム帝国?」
そんなこと、今まで考えたこともない。だって、私は、ここでリリアーヌとして生きていくのだもの。大聖女になって、あの太陽のような王子様に会いたいのだから。
「ああ、もしかして、俺は振られちゃう?」
私の顔色を読んだのか、ゼオンは残念そうに手を振った。
「まあ、いいよ。もし、一緒に行きたくなったら教えて。待ってるから」
そのまま、振り返りもせずに開いた扉から出て行った。
どうしてそこまで私を助けようとするの? ああ、そうか聖水のためね。効果の高い聖水はどこの国でも求められているから。
ゼオンの好意は全て聖水のためだと気が付いて、気落ちした自分が情けなかった。
私はすっかり冷めてしまったお茶を飲みほした。
私は、ここでリリアーヌより優れた聖女になるのよ。夢に見た王子様と一緒になるの。
そう自分に言い聞かせた。
そんな領地での半年間はあっという間に過ぎた。誰にも私の自由を邪魔されることなく、メアリーと一緒に領地のあちこちを見学して、本当に心から穏やかに過ごせた。何も知らない使用人は全員とても優しかった。私はそこで家庭教師からマナーを教わった。病弱だったので何も知らないという嘘を信じて、家庭教師は一から教えてくれた。本から得た豊富な知識を優秀だと褒めてもらった。
ただ、平民に対しての接し方は注意された。
掃除や料理をする下働きにまで感謝を伝えるのはだめだそうだ。私は今まで、使用人以下の扱いをされていたから、貴族としての振る舞いは難しい。でも、リリアーヌなら、決して平民とは仲良くしないだろう。王都へ戻ったら気をつけないといけない。
ずっとここにいられたらいいのに。
楽しい時間はすぐに終わり、もう王都に戻らないといけない。
リリアーヌは聖女を目指していたのだから、私もそうしないといけない。
私は鏡の中のリリアーヌに、何度も練習した完璧な笑顔を送った。紫の瞳がきらりと銀色に光った。
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