三十路の魔法使い

高柳神羅

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第56話 純粋な欲から生まれた災禍

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 魔帝が放った黒の鎖は、今し方俺たちが立っていた場所を槍のように貫いた。
 石の地面はガラスのようにあっさりと砕け、石が捲れ上がってその下にあった土の面が顔を覗かせる。
 こいつ、見た目はただの鎖なのに、下手な魔法よりも破壊力がある。もしも迂闊に食らおうものなら、生身の人間の骨なんか簡単にへし折られてしまう。
 繰り出されるスピードもかなり速い。俺の足の速さと体力でこれを延々と回避し続けるのは困難だ。
 それならば。
 俺は魔帝から二十メートルほどの距離を置いたところで立ち止まった。
 ミライの手を離し、彼女の背を押して、言う。
「あいつは俺が引き受ける。その間に、あんたは他の賢者たちを呼んできてくれ」
「……え……そんな、相手は魔帝ですよぉ? 一人でなんて危険すぎますぅ」
「あいつの狙いは俺らしいからな。俺が此処にいる限り、あいつも此処を動かない。その間にあんたが他の賢者たちを呼んできてくれれば、あいつを何とかできる確率がぐっと上がるんだ」
 正直に言おう。今の俺に、奴を確実に仕留める自信はない。
 国を幾つも滅ぼしたという魔法を操るような奴に真っ向から対抗できる力が俺にあるとは、どうしても思えないのである。
 刺し違える覚悟で挑めば、ひょっとしたら相打ちという形で倒せるかもしれない。しかし俺だって、命は惜しい。死んだ英雄になどなりたくはない。
 でも、俺が身を守ることに専念したら。その間に援軍を呼んできてもらえるだけの時間を稼げたら。
 そうすれば、無理難題が難題でなくなるかもしれない。
 これは、会社のプロジェクトと同じなのだ。一人で全てを背負う必要はないのである。
 俺には、全ての魔法を無効化するアンチ・マジックがある。魔法を防ぐことだけだったら、この世界の誰にも負けない。
 だから俺は盾となり、矛の役目は別の誰かに委ねるのだ。
 ミライは俺を残して行くことを躊躇っていたようだったが──最後には俺の意図を汲んでくれたようで、引き締まった面持ちで頷いた。
「……分かりましたぁ。貴方を信じますぅ。なるべく早く戻ってきますから……どうか、御無事で」
「おう」
 彼女は自らの身に身体強化の魔法を施すと、チーターのような速度で走っていった。
「君は、逃げないのかい」
 こちらへ少しずつ近付いてきながら、魔帝が疑問を投げかける。
 その様子は、分かっていることを敢えて口にして俺の反応を楽しんでいるようにも見える。
 俺はふんと鼻を鳴らした。
「最初から逃がすつもりなんかないくせに白々しいな」
「そうかな。逃げる兎さんを追いかける遊びも面白いと思うけどね」
 魔帝にとっては、俺とのこの遣り取りも所詮は遊びの一環でしかないということか。
 ……舐めてくれやがって。
「さあ、可愛らしく跳ね回って逃げてごらんよ、ぼくの兎さん! 君が無様に許しを乞いながら足下に這い蹲る姿を見せておくれ!」
 魔帝の周囲を漂っていた闇のオーラが収束する。
 それは鎖となって、一斉に俺へと襲いかかった!
 俺は両手を前に突き出して、叫んだ。
「アンチ・マジック!」
 ヴン、と俺の周囲を虹色の障壁が取り囲む。
 ドーム状に展開したアンチ・マジックフィールドは迫り来る鎖を受け止めて、それらを元の形のないオーラへと変えていった。
 ──やはり、未知の攻撃とはいえこれも魔法。俺がこの領域を展開させている限り、奴の攻撃は俺には効かない。
 このまま、ミライが戻ってくるまで時間を稼ぐ!
「へえ……ぼくの魔法を防ぐとはね。そんなことができた魔道士は今までに一人もいなかった。やはり君は、只者じゃないね」
「あんたの魔法は俺には効かない。嘘だと思うなら試してみろよ。残らず受け止めてやる」
 感心の声を漏らしている魔帝に、挑発の言葉を向ける。
 これは、魔帝が持っているであろう自分の魔法の力に対する絶対的な自信を刺激して、その気にさせるためだ。
 奴が魔法以外の攻撃を仕掛けてくる方が俺にとっては危ない。奴には、何としても魔法を使ってもらう必要があるのだ。
 魔帝は笑った。
「いいよ。せっかくだから少し遊ぼうか。ぼくの魔法の力、見せてあげる」
 闇のオーラが一気に膨れ上がる!
 魔帝を中心に全方位に放たれた闇の波動は、周囲の建物や徘徊していた虚無ホロウを一瞬にして吹き飛ばした。
 ただの瓦礫と化した建物や虚無ホロウの残骸が波動の余波に押し流されて、転がっていく。
 波動が消えると、魔帝を中心とした大きなクレーターができていた。
 これが、国を滅ぼしたという奴の力の片鱗。
 しかし見た感じ、奴はまだ全然本気を出している様子はない。
 文字通り、遊んでいるのだ。奴は。
「本当だ、効かないね! 凄い凄い! こんな力があるなんて、君はラルガの宮廷魔道士以上だよ! ただの人間にしておくには勿体無いくらいだ!」
 随分とはしゃいだ様子でクレーターと化した辺りを見回す魔帝。
「でも……そうして結界の中に閉じ篭っているだけじゃ、何もできないよ? 少しは君の方からもぼくに何かしてくれないと。せっかく、こうして遊んでいるんだから」
「そう強請るな。ちゃんと、相手にしてやるよ。俺以外が……な」
 俺は傍らにちらりと目配せした。
「ヴァイス!」
「わうっ!」
 それまで片時も俺の傍から離れなかったヴァイスが、勇ましい吠え声を上げながら領域の外へと飛び出していった。
 額に填まった賢者の石が、光る。
 ヴァイスの前に現れた赤白い極太の光線が、魔帝の全身を飲み込んだ。
 魔帝は吹っ飛んで、クレーターの外へと転がっていった。ごろごろと地面の上を転がっていく様は、まるで俵のような物体を転がしているようだ。
 見た目に変化がないのでどれほどのダメージになっているかは分からなかったが、流石に何も感じていないはずはない。
 俺はヴァイスに命令した。
「ヴァイス、手加減はしなくていい! 全力でやれ!」
 きいぃぃぃぃん、と耳鳴りにも似た音が辺りに満ちる。
 地面に転がる魔帝を中心に、真っ白に輝く複雑な模様の魔法陣が展開した。
 オオオン、と空高く響き渡るヴァイスの遠吠え。
 どうっ、と光が柱となって天へと昇っていく。光に押し流されて空高く吹き飛ばされた魔帝の体から、全身を縛っていた鎖がほどけ落ち、奴が纏っていた紫の衣がはらりと落ちた。
 あれは……服じゃない。ただの、布?
「ああ……見られちゃった。誰にも見せたことがなかったのに」
 纏うものを失い、裸体となった体を恥じることなく堂々と晒しながら、魔帝がゆっくりと地上へと下りてくる。
 しみひとつない、白くて若々しい肌をした体。それには腕も、足もない。まるで組み立て途中の人形の胴体のようだ。幼いが故に毛も生えていない恥部には、あるだろうと思っていた男の象徴はなく、つるりとした肉の面がそこにある。
「そう……ぼくは、莫大な対価と引き換えにこの力を手に入れた。今ぼくがこうして世界の頂点に立てているのは、支払える限りの代償を支払ったが故のことなのさ。だから、正直……対価なくして自由に魔法を使うことができる君のことが羨ましくて仕方がない。ぼくが失ったものを今でも君は当たり前のように持ち続けながら、魔法という神の力まで手にしているんだから」
 魔帝の顔半分を覆っていた目隠しが、引き解かれたようにずるりと落ちる。
 露わになった、目。開かれた瞼の下には、眼球がなかった。ぽっかりとした二つの空洞の奥には闇があり、それが目の代わりとでも言わんばかりに無表情に俺のことを見つめている。
「ああ、羨ましい。憎らしい。どうして異世界人は、ぼくたちにないものばかりを持っているんだろうね? それを恵まれていることだと気付きもしないで当たり前のことだと思っている、どうしようもなく救いのない愚か者!」
 あはははは、と高笑いする魔帝。
 地面に落ちていた布や鎖が引き寄せられるように奴の体に巻き付いて、奴は元通りの格好になった。ずれた目隠しもしゅるりと引き絞られて、空洞の目も覆い隠される。
「……さあ、もっともっと遊ぼうよ。君が何かをしてくれる度に、ぼくの中の渇望は大きくなる。その感情が、ぼくを強くしてくれるんだ! 何が何でも君を手に入れてやるって、そういう気持ちにしてくれるんだよ!」
 ……こいつは、究極の馬鹿だ。
 俺は、そう思った。
 人より優れた魔法の力を手に入れたい、ただそれだけのために──自分の手足を、目を、性器まで捨ててしまったのだから。
 でも。その発想が、何だか人間らしいとも思う。
 人間は、欲にまみれた生き物だ。自分が欲しいものを手に入れるために、時々は馬鹿なことだってする。
 こいつは、単にそれを体現したにすぎない。
 何と人間らしい、馬鹿で、愚かで、──子供らしい奴なんだろう。
「……子供の悪戯や我儘は、大人にとっちゃ可愛いもんだ。基本的には、笑って許せる。でもあんたの場合は……度が過ぎてる。あんたはただ自分のやりたいように遊んでいるだけなのかもしれないが、そのせいで多くの国が滅んで、大勢の死人が出た。いい加減誰かが叱ってやらなきゃ、終いにはそれをしてやれる奴までいなくなるからな」
 俺はアンチ・マジックフィールドを右手を振るって消した。
「俺が、大人としてきっちりと説教してやるよ」
「……そう。それは、楽しみだなぁ」
 そう言いながら笑う魔帝は、やはり普通の無垢な子供のような可愛らしさを見せながら。
 冷気のように澄んだ殺意の色を垣間見せるのだった。
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