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 夜に漂うぬるい空気に、走る梓の息が溶ける。
 星の見えないこの夜空をいつかの自分が思い返す時。どんよりと淀んだ色だと一人憂うのか、それとも想いを孕んだ深い色だったと二人で表すのか。
 後者だといいと祈るように仰ぎ、一秒でも早く会いたくて恐れを置き去りにする。

 怜のアパート前に到着し、膝に手を置いて息を整える。
 ここ数ヶ月は夜も遅くに帰る事ばかりで、毎日のようにここから怜の気配だけでも感じたいと見上げたものだ。
 まるで最初からそんな時間などなかったかのように、この道で出くわす事も街の中で見かける事もなかった。
 心が大きく欠けたような感覚を、ずっと抱えて過ごしてきた。

「よし、行こう」

 ぽつりと呟き、梓は階段を上がる。一歩一歩が決意の印で、正直な心臓は少しだけ竦む。それでも引き返すわけにはいかない。

 一度深呼吸をして、怜の部屋のインターホンを押す。小さく物音が聞こえたから、居るのは間違いないだろう。
 久しぶりに顔を見られる。整えたはずの息が上がるのを感じ、静まれとの願いは叶わぬうちに、扉を隔てたすぐそこに怜が立つのが分かった。
 何も反応はない、きっとドアスコープから梓の姿を確認したのだ。
 戸惑っているだろう怜を想いながら、梓はしずかに口を開く。

「怜さん。突然ごめんなさい。ここ、開けてくれませんか?」

 返事はないまま、息を飲む音が小さく聞こえたような気がする。
 このままでも声は届くとしても、こんな時間にアパートの外で響くそれを怜はきっと望まない。梓は、怜が開けてくれるのを待つしかないのだ。

「すぐ帰ります、玄関で済むのでお願いします。怜さん……顔、見たい」

 懇願する声はみっともなく震えてしまった。気恥ずかしさを苦笑で笑い飛ばし、梓は扉に額を預ける。温度が伝わるはずもないが、怜を少しでもそばに感じたかった。

 そのままの格好でどれくらい経っただろうか。数秒、数分……怜の事を考えていると、いつもあっという間に時間は過ぎる。
 そうして怜への想いを噛み締める梓に、ガチャン、と金属音が届く。鍵が開けられた音だ。

「っ、怜さん!」

 ゆっくりと中から扉が開き、どうぞ、とか細い声が梓を呼ぶ。
 あぁ、本当に久しぶりだ。
 あの日ここで迎えた、この世の終わりのような時間以来の怜の声だった。

「え、っと……どうしたの?」

 サンダルを履いている怜は、梓のスペースを空けるように左側の壁へと寄った。梓は右のスペースに入り扉を閉める。
 言いたい事はたくさんあるのに、ぐすりと鼻を鳴らし俯いた怜を抱きしめたくて仕方ない。
 けれどそれは駄目だ。ぐっと拳を握って堪える。

「怜さん、痩せた?」
「あ……うん、ちょっと痩せたかも」

 自分より華奢だった怜の体が、もっと小さく梓の目に映る。
 どんな日々を過ごしてきたのか、ノリの言葉と照らし合わせれば想像は簡単についた。
 笑っていてほしい願いは、怜の望む通りに離れていたって叶わなかったのだ。それならばと、躊躇いはたちまち霧散してゆく。

「怜さん、俺、怜さんが好きです」
「……え?」
「ずっと、好きでした」
「え、あ……何言って……」

 思わずというように顔を上げた怜の頬を、涙が一粒すべり落ちた。その跡を拭いたい、けれど勝手に触れる事は駄目だ。
 繰り返したくない、もう傷つけたくなかった。

「びっくりした?」
「う、うん」
「そうだよね。でも本当です、怜さんが好き」
「…………」

 また俯き、しばらく黙りこみ、怜は再び涙を落とした。
 怜の見せる全てが何を示すか、見誤らないように。梓はひとつひとつを心に刻むように見つめる。

「あ、あのね、梓くん」
「はい」
「えっと、僕、その……」
「あ、待って」
「っ、え?」

 怜が何かを言おうとしているのに気づき、今度は梓が慌てる番だった。
 今日は好きだと伝えたら、渡したいものがあった。この想いを受け入れられないのだとしても、差し出したい真実がある。

「怜さんの気持ちはその、まだ待ってもらっていいですか? すごく勝手ですよね、でも今はまだ……それで、これを受け取って欲しいです」
「え、っと……?」

 意を決しただろう何かを遮られ、その上矢継ぎ早に言われては、理解が追いつかないのも無理はないだろう。
 困らせると分かっていても譲れない自分が、梓は情けない。
 上手く出来ないなと自身を歯がゆく思いながら、ノリに渡したものと同じものが入った封筒を怜の手を持ち上げて乗せる。
 怜の指先の冷たい温度が、そっと梓の心を刺す。

「明日って何か用事ありますか?」
「ううん、ないけど……」
「これ、チケットなんです。怜さん、ここに来てくれませんか?」
「チケット……開けてもいい?」

 梓が頷くと、怜は恐る恐るという様子で封筒のフラップを開いた。横長のチケットを取り出し、首を傾げながら読み上げる。

「先行上映会? アニメ?」
「そうです。来月から始まるアニメの一話を皆で観る、ってやつなんですけど」
「そうなんだ。でも、どうして?」

 怜の疑問はもっともで、梓は曖昧に笑うしか出来ない。喉がカラカラに乾いて貼り付く感覚を、どうにか息を飲んで追いやる。

「メインキャストの声優たちが登壇するんですけど、そこに……相山梓が出ます」
「っ、へ?」
「怜さんが、相山梓の顔とか見ないようにしてるって分かってます。だからこれは、滅茶苦茶ワガママなんだって事も分かってます。でも、どうしても来てほしいんです。お願いします」
「あ、梓くんやめて、頭上げて? ね?」

 祈るように下げた頭を、怜に乞われようと梓は容易く上げるわけにはいかなかった。

「俺は怜さんに、いっぱい秘密を作ってきました。その秘密は、好きだって言ったら伝えるつもりでした」
「…………」
「全部ちゃんと、伝えたいから。それで振られてもいいんです。はは、ほんとはすごく寂しいですけど……怜さんに誠実でいたいから。……好きだって言わずにキスしたりして、それで誠実なんて今更ですけど。でも、お願いします。来てくれませんか?」

 そろそろと顔を上げると、怜の困惑した顔があった。
 梓自身へ何を言うべきか、と共に、相山梓の事が絡んでいるから余計にすぐには返事が出来ないのだろう。
 それは梓も予想していた事で、行くという言葉を聞き届けたいのをどうにか堪える。

「怜さん、好き。大好きです」
「っ……」
「いっぱい傷つけたけど、これだけは信じてほしいです。好き」

 淡く震える唇に伸びそうになった手をぐっと握りこみ、最後にもう一度好きだと呟く。
 一度伝えてしまえば、今まで言わずにいられたのが不思議なくらいだ。そのくらい、梓の胸は怜への想いで溢れている。

「じゃあ帰りますね。明日、向こうで待ってます」

 優しい怜に付け込むような、卑怯な言葉選びだと梓は思う。そうしてでも、見届けてほしかった。
 怜の存在が強くさせた心で、掴んだものを。

「おやすみなさい」
「っ、ん……おやすみ」


 名残惜しさを振り切って、梓は怜の部屋を出る。真っ暗だった空は雲が晴れ始めていて、すき間から三日月の細い光が見える。

 希望の色をしていたと、この光景の事も笑える未来があるといい。
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