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しおりを挟む外も暗くなった夕方に怜は仕事をあがった。遅番のスタッフたちに挨拶をし、建物を出てからスマートフォンを取り出す。イヤホンを耳にセットし、けれど周囲の音もきちんと聞こえるようにとボリュームを小さく絞り、昨日取り込んだばかりのCDを再生する。
一人暮らしの彼女の家に遊びに来た彼――相山梓演じる大学生の台詞までは聴き取れないが、声が耳元にあるだけでいい。
自宅アパートまでの道中にある、大きめの書店に入る。怜は本も好きだ。小説の中に生きる彼らは信頼できる。裏切りを見せつけられたって、それは自身に向けられたものではないから。
小説のコーナーに向かう途中に、カラフルな表紙の雑誌の陳列棚が目に入る。アニメや声優が特集されたものたちだ。怜は一瞬だけそこに目をやり、小さく首を横に振って目的の場所を目指す。相山梓のことは声と名前のみしか怜は分からない。年齢だとか顔だとか、彼自身の事は敢えて知ろうとしなかった。
絶望に暮れ続けたある夜、テレビの中から届いたその声だけでよかった。
「えっと。今週の新刊……」
文庫本の新刊のコーナーで立ち止まり、怜はずらりと並んだ表紙を次々と吟味してゆく。作家の名、帯に書かれたコピー、装丁。分野で言えばミステリーものが好きだが、たまにはインスピレーションを頼りに違ったものを選ぶ時もある。
やさしい水色の表紙が目を引く恋愛小説も気になるが、やはり手堅く気に入りのミステリー作家のものにしようか。
夜空に細い下弦の月が浮かぶ、もの悲しい表紙の本に手を伸ばしたその時――自身の名を呼ぶ声に、顔を上げずとも怜の体はピシャリと強張った。
「あれ。怜?」
「っ!」
反射的に一歩下がり見上げたそこには、よく知った顔があった。夕方だというのに一切の乱れなく着こなされたスーツ、整った髪が見る者に清潔感を覚えさせる。
怜の元恋人だ。
「はは、そんなに身構えなくても。久しぶりだね、元気だった?」
「……っ」
その男、三条の爽やかな表情とは相反し、怜は胸からせり上がる吐き気を懸命に堪える。
どうしてそんな風に笑えるのか。どうして気安く声をかけられるのか。酷い事をされたと思っているのは自分だけなのか――いや違う、見据えた顔は薄く口角を上げていて、腹の底で怜を馬鹿にしているのだ。
なにも返事など出来ずにいると、どこからかやってきた女性が三条の腕にするりと手を絡ませた。
「どうしたの? 知り合い?」
「ああ、昔ちょっと。ね?」
「へぇ……」
「っ、」
見下す様な三条の冷ややかな目と、ねっとりと体に纏わりつき値踏みするような女性の視線が怜に注がれる。
やめてくれ、喋るな、こっちを見るな。
言いたい事はたくさんあるのに、喉につかえたように何も声にはならない。少しずつ脈が上がり、肩がおおきく上下し始める。息苦しさにぐしゃりと前髪を握りこんだ。指先は氷のように冷たくて、イヤホンから流れているはずの声も今は遠ざかり、怜を救ってはくれない。
溢れてしまいそうな涙を許すまいと、唇を強く噛んだその時だった。怜の腕を後ろから誰かが引っぱった。
「鳴海さん、すみません。遅くなりました」
「え?」
驚いて振り返ると、そこにはアズサの姿があった。遅くなった、とはどういう意味だろう。困惑しながらかすかに首を傾げると、アズサは「しー」と怜を制し目の前の男に視線を移す。
「鳴海さんに用ですか?」
「…………」
アズサはそう言いながら怜の肩に手を置き、まるで庇うように後ろへと怜を隠した。対する三条は顎を上げ無言でアズサを睨む。それから鼻で小さく笑い、わざとらしくゆっくりと怜の名を口にした。
「怜、とはよく知った間でね。今日はたまたま会っただけだが。な、怜?」
「っ、僕は……」
もう関係ない、関わらないでと言ってしまいたい。けれどみっともなく震える声にそれが叶わずにいると、アズサが怜の前に手をかざした。ここは任せろと言うかのように。
「そうですか。俺はここで鳴海さんと待ち合わせしてて。そうだ鳴海さん、今日はどこで食べるか俺が決めてもいいですか?」
「え、っと……」
「大丈夫です、鳴海さんの好みもちゃんと考慮して決めるので」
スタジオ以外で顔を合わせるのは初めてなのに、まるでいつも食事を共にしているかのような言い方だ。三条との良好とは言い難い関係を見抜いてそうしてくれているのだと、すぐに分かった。
ここはアズサの芝居に乗ってしまうのが得策だろう。ありがとうと呟き、もう行こうとアズサの背負っているリュックをそっと引く。
「そうですね。じゃあ俺達はこれで」
アズサは三条達にちいさく会釈をし、怜を出口の方へと促す。ふらついている怜の足に気づいたのか、両腕に手を添え支えるようにしてくれたので、怜はどうにかまっすぐ歩くことが出来た。
何あれ、と揶揄するような女性の声と、三条が鼻で嗤うのが背に聞こえる。気持ち悪い。口元を押さえながら怜はアズサと外へ出た。
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