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手は届かない-2
しおりを挟む沈んだ気持ちは体まで重くする。引きずるように帰宅すると、リビングのソファに晴人の姿があった。おかえりと出迎えてくれて、夏樹は吸い寄せられるようにソファの下、ラグに腰を下ろす。今はひとりでいたくなかった。
「夏樹も外で食ってきたんだ?」
「っす。尊くん……naturallyの人とハンバーガー食べてきました。晴人さんは何食べたんすか?」
「俺はねー、寿司」
「高級だ」
「あは、だねー」
晴人は話術に長けていて、いつも楽しい気持ちにさせてくれる。いくらか心も解けて、だがふと会話が途切れた時。晴人は静かに夏樹に尋ねる。
「なんかあった?」
「へ……あー、はは、晴人さんには敵わないっすね」
「俺でよかったら聞くよ」
少しボリュームの落ちた晴人の声が心地いい。甘えてしまいたい欲求に抗えず、夏樹は口を開く。
「……椎名さんとさっき会ったんですけど」
「え、もしかしてあのクラブで?」
「晴人さんもあそこ知ってるんですか?」
「あー、うん、一回だけ行ったことある」
「そうなんすね。オレ、椎名さんにこんなとこ来ちゃ駄目だって言われました。危ないからって。教えてもらえて助かったなって思ったんですけど。オレ、そんなとこには椎名さんにも行ってほしくないです」
「夏樹……」
「……DJに知り合いがいるんだって椎名さん言ってましたけど、それって多分、セフレの人っすよね」
柊吾が危ないところに出入りしている。それだけでも夏樹にとっては衝撃で、ワガママを言えるのならすぐにでもやめてほしいと思った。それに加えて、だ。夜道を歩きながら考えた、度々夜に出掛けていく柊吾の行き先があのクラブだったのなら、そのDJこそがセフレなのではないかと。危険な場所に呼び寄せる人と、と思うと余計に悲しくなった。
「夏樹、柊吾がセフレに会うの今もイヤ?」
「…………」
「大丈夫。俺しかいないんだし、言っても平気だよ」
「……嫌、です」
「そっか。やっぱセフレとかそういうのって、汚らわしいなって感じ?」
「それも正直あります。椎名さん、あんなに優しいのに何だか似合わないなって思ってたし。でも今は……それだけじゃなくて」
「うん」
恋愛に興味がない、でもそういうことはしたい。そうだと言うなら、セフレという存在はうってつけなのだろう。でもやはり同じに思える、危険だとクラブから夏樹を遠ざけながら、そこに身を置くように。愛情深い柊吾がセフレを持つのは、自身を雑に扱っているように感じられる。それがただただ悲しい、どうにか出来ないものかと歯がゆく思ってしまう。柊吾のことが好きだからだ。
ソファに座っていた晴人が、夏樹の隣へと降りてきた。慰めるように肩を抱きトントンと撫でてくれて――この人になら打ち明けてもいいのではないか。そんな気がしてくる。
「晴人さん、オレ」
「うん」
「あの……びっくりするかもですけど、オレ、椎名さんのことが好き、なんです。だからその、椎名さんがセフレのとこ行くの、もうずっとしんどくて。そういう危ないところに椎名さんを呼ぶような人なら、もっと嫌です」
「うんうん、そっか」
「晴人さん……驚いたりとか引いたりとか、せんとですか?」
「んー? しないよ。だって俺知ってたし。やっと言ってくれて嬉しい」
「へ……え! なんで!?」
「だって夏樹、めっちゃ分かりやすいもん」
「ウソ……じゃあもしかして、椎名さんにもバレて……」
「ああ、それは大丈夫。アイツ、そういうの鈍感だし。鈍感っていうか、今までシャットダウンしてたっていうか?」
柊吾への想いに気づかれていた? 想定すらしていなかった事実に、夏樹は一気に青ざめた。だが、柊吾は気づいていないと晴人が豪語する。幼なじみがそういうのだから、その点は安心していいのだろう。それでもやはり狼狽えずにはいられない。よくよく考えてみれば誰かを好きになることも、こんなに苦しくなるのも夏樹にとっては初めてのことなのだ。体から恋が零れていたなんて、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。
あわあわと慌てる夏樹の頭を、晴人がぽんと撫でる。顔を上げると、さっきまでのどこかおどけた顔とは打って変わって、真剣な表情がそこにはあった。
「ねえ夏樹」
「……はい」
「これはさ、柊吾が自分で言うまで夏樹の胸に仕舞っておいてほしいんだけど……聞いてくれる? 柊吾の……今までのこと」
「はい」
ありがとう、と言った晴人は、ローテーブルに置いてあったグラスを手に取った。炭酸水に浮かべてあった氷はすっかり溶けて、大きくなっていた水たまりが晴人の足に滴った。
「俺と柊吾はさ、実家が隣同士だったんだよね。小さい時から一緒に遊んでたし、家も行き来してたわけだけど――」
小学校に上がる前、柊吾の母親が病気で亡くなった。柊吾は深く落ちこむ日々だったが、それでも父親とふたりで支え合っていた。柊吾の父は、仕事により一層励むようになった。家より会社にいる時間が多くなった父に柊吾は寂しそうだったが、父が頑張るのは自分のためだと分かっていたのだろう、と晴人は言う。父を助けようと家事に励むようになり、みるみる上達していった。そんな柊吾を晴人の家族は気にかけ、よく夕飯に呼んだり泊まらせたりしていた、とのことだ。
「でもやっぱりさ、寂しいもんは寂しいよな。それでも柊吾は捻くれたりしなくて、その分、愛ってもんに人一倍憧れるようになった。恋愛ものの映画とかよく見てたし、いつか自分にも最愛の相手が出来るって、信じてたんだと思う。でも……違った、そんなのまやかしだったって、柊吾は思っちゃったんだよね」
そこまで一気に話して、晴人はふうと息を吐いた。空になったグラスが気になって、夏樹は立ち上がって冷蔵庫へ向かう。夏樹が好きだから、と柊吾が切らさないようにしてくれているサイダーを手に戻り、晴人のグラスに注いだ。
「ありがとう、夏樹は優しいね」
「いえ、オレも飲みたかったんで丁度よかったです」
そう言いつつ、夏樹はペットボトルのふたを閉じてそれをテーブルに置いた。狭苦しい喉に、ぱちぱち弾けるサイダーはきっと重い。
「じゃあ続きね」
「はい」
「夏樹が大事にしてる、柊吾の写真あるでしょ。あの一回こっきりの、モデルやった時のヤツ」
「はい」
「あれ、俺たちが高三の時だったんだけど、そりゃもう学校中が湧いたよね。既にモデルやってた俺は真新しさがないもんだから、柊吾の話で持ちきり。そんで、まあ元々モテてはいたんだけど、そこから桁違いでさ。話したこともない、柊吾からすれば顔すら知らない子たちが我先にって告白してくんの。そんで、真摯に対応してごめんねって言っても、急激に態度変える子もいたりして。それがさー、柊吾にはショックだったんだよね。なんだ顔だけじゃん、恋愛ってこんなもんか、って。愛とかやっぱり俺には縁がなさそう、って落胆しちゃったみたい。それからだよ、アイツがセフレ作るようになったの」
「オレがここに越してきた日、踏んだ地雷ってそういうことだったんすね。かっこいいって言って、セフレのことで勝手にショック受けて……」
傷を抉ってしまったのだなと、あの日のことが改めて胸を黒く蝕む。だが晴人は、「いや、今思えば夏樹はよくぞ言ってくれた」なんて言って不敵な笑みを覗かせる。
「俺もさ、柊吾がああいうとこ出入りしてセフレとヤッてんの、正直よく思ってなかった。でもそうなった経緯全部知っちゃってんから、やめろよとか言えなくてさ。それに、夏樹が言ったことに意味があると思う。じわじわ効いてきてんだよなー、多分」
「…………? どういう意味っすか?」
「うーん、それはちょっと俺からは言えないんだけどー……ねえ夏樹、これは俺の勝手な憶測なんだけどさ。柊吾、確かにセフレに会いにクラブ行ってるけど、今は多分、夏樹が考えてるような感じじゃないと思う」
「え?」
「夏樹は知らないよねー、柊吾が出掛ける時絶対アイツのほう見ないし? 柊吾のヤツ、夏樹をじっと見てしんどそうにため息ついて、そんですげー嫌そうな顔で渋々出掛けんの」
「そう、なんすか? なんで?」
「なんでだろうねえ? 前まではあんなんじゃなかったのにね」
柊吾の過去のこと、最近のこと。知らなかったものがたくさん晴人から出てきて、夏樹は整理するのに精いっぱいだ。恋愛には興味がないと言った柊吾は、実は愛を求めている。柊吾自身が吐いたその言葉より、柊吾を表すものとして愛というワードはぴったりだと思った。とことん優しくて、あったかくて。夏樹が好きになった柊吾は、愛に溢れた人だから。
「晴人さん」
「んー?」
「オレ、雑誌で初めて椎名さんを見た時、流れ星がここに落ちてきたみたいだ、って本気で思ったんです」
こちらを向いた晴人と目を合わせ、夏樹は心臓の上のシャツをぎゅっと握りこむ。
「東京に来たら会えるかなって、正直ちょっと期待もしてたら本当に会えて……本物はかっこいいだけじゃなくて、いや最高にかっこいいんすけど、すげー優しくて……椎名さんと並んでも恥ずかしくないような男になりたいな、って思ってます。目標みたいな人なんです。オレに何か出来るとは思わないですけど……そんな椎名さんには、幸せでいてほしいです」
「うん、そうだね。はは、夏樹ほんっといい子! 夏樹に話してよかった」
ぎゅっと抱きしめられて、大きな犬を愛でるみたいに髪をかき混ぜられる。くすぐったく思いながらも身を任せていると、体を離した晴人は何かを思いついたように片眉を上げる。
「夏樹にとっての柊吾ってさ、流れ星っていうよりあれみたいだよね。北極星」
「北極星?」
「そう。いつ見ても同じ場所にあるから、道しるべになる星」
「道しるべ……うわ、オレにとっての椎名さんだ」
「でしょ?」
日々の生活はもちろん、そのずっと前から、夏樹は柊吾からたくさんのものを貰っている。そんな柊吾に自分が返せるものは何だろう、出来ることを探したい。でもそれはきっと、簡単に見つかるものではない。だから今はせめて、毎日ほんのひとつでも笑顔を贈れたら、なんて思う。もしもそれが出来たなら、柊吾はほんの一瞬でも幸せだと感じてくれるだろうか。
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