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〈5 錯綜クインテット〉

ep74 わたしはわたしで出来ること

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 桜花咲受験に向けた勉強会は、放課後、篠原くんの家に集まる形で継続されている。神谷くんが所属していたバスケ部は、夏休み明けには全員引退なので、放課後は毎日一緒だ。

 夏休みに受けた模試の結果を踏まえて、篠原くんは、わたしがつまずきやすい問題をまとめたノートを作ってくれた。それは、篠原くんの解説が細かく書き記されたもので、下手な参考書よりもわかりやすくまとめられていたものだった。いつも、わたしたちの勉強を見てくれているだけでも大変なはずなのに、こういった篠原くんの手間を考えると、絶対に桜花咲に受からなきゃと思う。



「えー、なんで! 稚奈も一緒にやりたい!」

「前にも説明したはずだよ。勉強会は桜花咲を受ける人たちだけでやるって。本田さんの勉強は、俺が夜に見てあげているでしょう?」

 篠原くんの家に着いて早々、玄関の前でちなちゃんと篠原くんがもめていた。どうやら、ちなちゃんも勉強会に参加したいらしい。だけど、篠原くんはちなちゃんを勉強会に入れたくないようだ。

 わたしは二人の死角になるところに身をひそめると、邪魔をしないように聞き耳を立てた。

「稚奈は篠原くんの彼女でしょ? 彼女が参加できない勉強会なんておかしいよ!」

 大変だ。ちなちゃん、すっごく怒ってる。前はちなちゃんと3人で一緒に勉強してたのに、仲間外れみたいな形になっちゃったもんな。なんで自分だけはだめなの? って思っちゃうよな……。

「本田さん、推薦を受けるって言っていたよね? 悪いけど、面接の練習は他の人に見てもらえないかな」

 篠原くん、その言い方はちょっと厳しくない……? ちなちゃんは、悔しそうに唇をかんで俯いている。なんだか、ちなちゃんが可哀想だな。わたしがふたりの仲裁をしたほうがいいだろうか。喧嘩の仲裁なんてすごく苦手なんだけど……。

「なんだなんだ、痴話喧嘩かぁ?」

「ヒッ!」

 いきなり背後から声をかけられて、心臓が飛び跳ねた。後ろを振り向くと、神谷くんがわたしの背後から面白そうに首を伸ばしている。

「いいいいきなり後ろから声かけないでくださいよ! びっくりしたじゃないですか!」

 声を潜めて抗議していると、神谷くんはわりびれない様子で篠原くんたちの方へ目を向けた。

「とんちゃん、まさか仲裁しようなんて思ってねーよな」

「……そう、ですけど。だめですか?」

 今まさにやろうとしていたことを指摘されて、わたしはびっくりして目を大きくした。すると、神谷くんが呆れたようにため息をついた。

「ダメに決まってんだろ。彼女付きの勉強会なんか、クソきまじーじゃん」

「きまずいって、ちなちゃんですよ?」

 篠原くんもちなちゃんも友達だ、わたしたちが気まずいと思う必要はないと思うのだが。

「あのなぁ。いくら友達ったって、付き合い始めると色々変わるもんがあんだよ」

「そうなんですか?」

 付き合い始めると何が変わるというのか。わたしにはさっぱりわからない。

「変わんだろ、空気とか。いろいろ」

「はぁ。変わりますかねぇ」

 確かに、仲が良くて微笑ましいなぁとは思うけれど。それのどこが気まずいというのか。わたしがぽかんとしていると、神谷くんは憐れむような表情で、わたしをみた。

「とんちゃんはお子ちゃまだからなぁ。とにかく、俺は本田が勉強会に来るの反対だからな!」

 神谷くんに貶されて、わたしはムッとした。


 結局、篠原くんに説得されて、ちなちゃんは帰ることにしたようだ。悲しそうに帰って行く姿が可哀想で、わたしはちなちゃんに対して罪悪感を感じた。

 今、ちなちゃんは、学校で辛い立場に立たされている。篠原くんと付き合っていることに嫉妬した誰かが、ちなちゃんに嫌がらせをしたのだ。あんな、大勢に晒すような酷い嫌がらせを受けて、ちなちゃんはすごく悲しんでいた。
 いじめを受けてきたからわかる。ちなちゃんには助けが必要だ。なのに、こんな仲間外れみたいなこと、まるでわたしたちも嫌がらせに加担しているみたいじゃないか。そんなの、絶対に嫌だ。

「あの、篠原くん」

 勉強会の休憩中に、わたしは思い切って篠原くんに声をかけた。飲み物を用意していた篠原くんは、コップをそろえながら「ん?」と柔らかく微笑んだ。

「ちなちゃんのことですが、どうしても勉強会に参加させてはダメですか?」

 まっすぐに篠原くんを見つめて尋ねると、篠原くんは困った顔をしてわたしを見た。

「どうして、本田さんを参加させたいの?」

「ちなちゃんのことが心配だからです。ただでさえ、今学校が辛い状況なのに、追い返しちゃうなんて可哀想過ぎますよ。わたしの前では、篠原くんがいるから大丈夫だって言ってくれますけど、傷ついてないはずがないんです。ちなちゃん、きっと心細いんだと思います」

 ちなちゃんにとって、今の学校はきっとすごく怖い場所だ。そんなところに一日中いて、嫌がらせされて、そんなの、辛くないはずがない。今ちなちゃんにとって安心出来る場所は、きっと篠原くんの隣だ。

「居さあせてあげるだけでもいいじゃないですか。ちなちゃんだって、勉強会を邪魔したいだなんて思ってないですよ」

 無理に勉強会に参加する必要はない。ちなちゃんが望むなら、ただここに居させてあげるだけでもいいじゃないか。

「津田さんの気持は、わかるけれど……」

 篠原くんは戸惑った顔をして、言葉を濁した。

「まさかトンちゃん、また本田を入れようって話してんじゃねーだろうな」

「ヒッ!」

 再び背後から話かけられて、おもいっきり心臓が飛び跳ねた。後ろを振り向くと、神谷くんが呆れた顔でわたしを見ている。

「や、やめてくださいよ! 後ろから話に入ってくるの!」

 バクバクする胸を抑えながら神谷くんに文句を言うと、神谷くんは、またしても悪びれない様子でやれやれと首を振った。

「トンちゃん、言ったろ。俺は本田を入れんのは反対だって」

「……言ってましたけど。でも、それじゃあやっぱり可哀想じゃないですか!」

「可哀想って、あいつ他にたくさん友達いんじゃん。居場所ならいくらでもあんのに、可哀想もなにもねーじゃねぇか」

 たしかにちなちゃんには友達が多いから、わたしと違って周りの友達が庇ってくれている。味方がいるだけ、多少救いはあるけれど。

「でも、ちなちゃんはわたしの親友なんです。わたしだって、ちなちゃんのために出来ることをしたいのに」

 親友なのに。親友である自分が、一番何もできてない。何もしてあげられてない。

「友達っつっても、トンちゃんのだろ? 俺の・・友達じゃねぇ」

「そ……そんな!」

 神谷くんは社交的だし、仲間が増えることに関しては寛容な人だろうと思っていたのに。あまりにも冷たい言い方に、わたしは驚いて声を上げた。神谷くんは、そんなわたしに顔をしかめると腕を組んだ。

「受験の勉強会に関係ない奴入れて、勉強のペースが乱れんのは困る。本田が入ってきたら、篠原は本田に付き合わなきゃならなくなるし、トンちゃんだって、本田に気ぃつかっちまって勉強に集中出来ねーだろ。それじゃあ、桜花咲受験メンバーで勉強する意味ねーじゃねぇか」

「……でも……!」

「言っとくけどな。トンちゃんは、この勉強会について意見出来るような立場じゃねーかんな」

「神谷!」

 篠原くんが、神谷くんを窘める。しかし、神谷くんはじろっとわたしを厳しく睨みつけた。

「トンちゃんが一番、模試の点低かったのに、他人の心配してる場合かよ」

「……」

 何の反論もできなかった。神谷くんの言い分はもっともすぎて、わたしはぎゅっと舌唇を噛み締めた。

「トンちゃんはもっと焦れ。本気じゃねぇ奴と勉強したって、邪魔なだけだ」

 焦ってないわけじゃない。わたしだって、勉強に集中したい。だけど、ちなちゃんのことが心配で、勉強に手がつかないんだ。どうしても、自分の無力さとか、何か出来ることはないのかと考えてしまうから。
 でも、確かにわたしには、勉強会のことで篠原くんや神谷くんに意見が出来るほど、余裕があるわけじゃ無い。

 ――悔しい。

 ちなちゃんのことも、勉強のことも。何もうまく出来ていないことが、悔しい。






「津田さん、ちょっと待って」

 帰り際、わたしは篠原くんに呼び止められた。一緒に玄関を出た神谷くんは、「んじゃな、トンちゃん。篠原も」と言って、さっさと帰ってしまった。

 気を利かせてくれたのだろうか。神谷くんに限って、そんなわけはないと思うけど。

 わたしは篠原くんに向き直ると、篠原くんは、わたしを気遣うように弱々しく微笑んだ。

「津田さんの気持は、分かってる。俺が頼りないから、津田さんに心配かけているんだって」

「や、そんなことないですよ! 篠原くんが頼りないなんて思ってないです!」

 篠原くんが負い目を感じる必要なんて、絶対にない。篠原くんはいつもちなちゃんのそばにいて守ってくれているし、何もできないわたしに比べたら、篠原くんはいつもがんばっていると思う。

 篠原くんが頼りないんじゃない。わたしが何もできないだけだ。わたしが無能なせいで、ちなちゃんを元気付けることも、篠原くんの助けになることもできない。おまけに神谷くんにも、痛いところを突かれてしまった。

「津田さんが誰よりも努力してがんばってるってこと、俺はちゃんと知ってるよ。勉強会も、俺たちのペースについてきてるの、十分すごいことだって、神谷も分かっているはずだから」

「……そう、ですかね」

 そう言われても、実感がない。神谷くんはどんどん問題を解くスピードも上がっているし、正答率も伸びている。対してわたしは、物覚えが悪く暗記ものが苦手な上に、細かなケアレスミスが多くて、よく考えたら解けていた問題を取りこぼすことが多い。

 今はただ、ふたりの背中を追いかけるのに必死で、自分がどこを走っているのかすら分かっていないのだ。

「本田さんのことは、心配しないで。俺が守るって約束するから」

「……篠原、くん」

 わたしが勉強に集中できないのは、自分の弱さのせいだ。ちなちゃんの問題と、自分の問題を混同してしまっている。でも篠原くんは優しいから、けしてそれを咎めたりはしない。

「だから、津田さん。津田さんは、俺を信じていてくれない?」

「え?」

 篠原くんの言葉で、わたしはうつむいていた顔を上げた。

 篠原くんは、まっすぐにわたしを見つめている。揺るぎない、強い決意を宿した目をしていた。

「津田さんは、勉強をがんばって」

 篠原くんは、しっかりとした口調でそう言うと、ふわりと柔らかく微笑んだ。

「俺は、津田さんが桜花咲に受かるって信じてる」

「……」

 信じてるなんて、わたしには過分すぎる期待だ。篠原くんがわたしにかける期待は、いつだって重い。つい最近まで、勉強も出来ないバカな引きこもりだったわたしには。

 でも、篠原くんがちなちゃんを守ってくれるというのなら、わたしも篠原くんの期待に応えるべきだと思うから。

「わかりました。篠原くんを信じます」

 ちなちゃんを託すかわりに、わたしは無力なりに、せめて篠原くんの足だけは引っ張らない程度には、自分が出来ることをやるしかないのだろう。
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