31 / 111
〈2 ダイアモンドリリー〉
ep23 きみは**しい人だから②
しおりを挟む
結子の瞳に移った咲乃の瞳は――暗い。ただ、無感情に、結子を見つめている。結子が知っていた、咲乃の暖かな瞳とは違いすぎて、まるで別人の瞳の中を見つめているようだ。
その瞳を見た瞬間、サッと結子の身体の体温が下がった。目の前の人は、初めて転校してきた時の彼とも違う。もっと別の、別の何かだ。
「それって、自分は何の努力しなくても勝手に好きになってくれて、自分だけに尽くしてくれて、自分の代わりに矢面になってかばってくれて、自分の傷を全部背負ってくれるような人?」
「ち、ちがっ――」
「違うかな」
結子が否定しようとすると、咲乃に鋭く遮られた。
「中本さん、本当は自分に自信がないから、そのままでいいよって肯定してもらいたいだけだよね」
結子は何も言えないまま、茫然と咲乃の言葉を聞き入れていた。
咲乃の言葉が信じられなくて、受け入れられなくて、聞きたくないと思っているのに、抵抗できない。
「寂しいから、寂しさを埋めてほしいだけ。自分が嫌いだから、代わりに好きになってほしいだけ。誰も認めてくれないから、代わりに認めてほしいだけ。優しくしてほしいから、優しくしてくれる人が欲しいだけ――」
咲乃の声はとても優しくきれいだったが、とても冷たく残酷で、結子の心臓をえぐり、空いた穴から体温を奪っていくようだ。
「好きな人に嫌いなものを押し付けて、自分は楽になりたいなんて。俺はそんな、中本さんの都合のいい王子様になるつもりはないよ」
「……」
否定したいのに、言葉が出てこない。
「自分の弱さを押し付けさえできれば」
彼のなめらかな指先が、結子の耳元の髪を掻き分けた。
「本当は、俺じゃなくても良かったんだ」
気付けば咲乃の頬に平手打ちをしていた。
悲しみと怒りがぐちゃぐちゃになって、言葉は出てこない。目の前の好きだった人を、信じられない想いで見つめて、結子はその場から逃げ出した。
*
叩かれた頬に手を当てると、叩かれた場所は、僅かに熱を帯びていた。
わかっていた。咲乃に想いを寄せる結子の気持ちは。全て理解した上で、近づいて、利用して、傷つけた。
結局、自分はこんなやり方しかできない。何が変わりたいだ。何も変わっていない。変わろうともしてないじゃないか。わかってる。でも。
――終わらせなきゃ。
ギリッと奥歯を噛み締めると、咲乃は立ち上がり、かばんを拾った。
小さく息を吐く。何も感じないまま、その場を後にしようとした。
外で山口さんが待っている。――とその時、咲乃はブレザーのポケットの中が震えているのに気付いた。
ポケットからスマホを出す。画面の「津田成海」の表示を見た時、咲乃は驚いて目を見張った。
連絡のやり取りは主にメッセージが主で、成海からかけて来たことは今まで一度もない。
思い当たる用事もなく、タイミングがタイミングなだけに出るのを躊躇う。しかし、無視をするのも気が引けて、咲乃は通話ボタンを押した。
「どうし――」
『もうぅぅっ、むりぃいいいいーー!!!!!』
突然の大音声に、咲乃は慌ててスマホを耳から離した。音量を下げて、改めてスマホを耳につける。
「津田さん、どうし」
『ひどいですよ、篠原くんは! 毎日毎日、大量の宿題だけを渡されて、次のテストに向けた勉強も並行しろだなんて!! 受験生でもないのに、毎日どんだけ勉強させるつもりなんですか!? こっちは引きこもりの不登校生なんですよ!?? 意地や根性なんて皆無なんです! ヘタレのクソ人間なんです!! なに過大な期待してくれちゃってるんですか!!!!』
「つ、津田さん?!」
思わず声が上ずった。電話の向こうではかなりご立腹のようだ。どうやら、課題を与えすぎてしまったらしい。
手紙の件があってから、咲乃は成海の家に行くのを控えるようにしていた。万が一尾行されていて、成海の家に通っているのを知られたら、成海にも被害が出る危険があったためだ。その間の勉強会は、ビデオ通話で行っていた。
リモートでつなげば、成海の家への移動時間が短縮されるため、いつもより勉強時間を増やすことができる。卒業までに、今の授業進度に追いつくこと、中学1年生分のまき直しや、社会や理解などの科目を増やすことも考えると、今までの勉強量だけでは足りない。次のテストも受けさせたい。必然的に勉強時間と課題の量も多くなる。
それに加え、最近は勉強ばかりで、ろくにコミュニケーションも取れていなかった。成海の部屋で勉強していた時は、休憩中に雑談したりして、無理をしていないか様子を見ながら進められたが、何事も断れない性格の彼女は、我慢に我慢を重ねたあげく、ついに限界を迎えたようだった。
『篠原くんは、頭良すぎてこれくらい平気かもしれませんけど、わたしはついていけないんです! 篠原くんとわたしとじゃ、頭の構造も違うんですよ!? いい加減遊びたい! ゲームやりたいんです! マ゛ン゛カ゛よ゛み゛た゛い゛ん゛て゛す゛う゛ぅぅぅぅぅぅ!』
散々怒りを爆発させて、今度はうぉんうぉんと何かの動物のように声を上げて泣き出した。
咲乃は何とか落ち着かせようと言葉を掛けるが、いくら声を掛けても聞き入れてはくれない。出会ってからこんなに怒りを爆発させる成海は初めてだった。
「ふっ……」
咲乃が噴出したのを耳ざとく聞いて、成海の泣き声がぴたりとやんだ。
『え……笑ってます……? 篠原くん、笑ってるんですか?』
「ごっ……ごめっ……!」
咲乃は口を押え、声を押し殺して笑った。腹が痛い。息ができない。止めたいのはやまやまだが、突然緊張の糸が切れたせいで笑いが全く抑えられない。
しばらく笑い続けていると、成海がずっと無言でいるのに気が付いた。
「……あ、えっと、津田さん?」
『面白かったですか?』
「え、う、ううん。ごめんね?」
さっきまで泣いていた成海の声が、すっかり冷たいものに変わっている。これはすぐに謝らなければ、後々面倒なことになってしまう。
「ごめんね、津田さん。ちょっと無理させすぎちゃったよね」
元々成海は、人の期待に応えようとするあまり、過度に無理をしてしまう。そのことを、最近はすっかり失念していた。いつの間にか成海に勉強の無理強いをしてしまっていたのだ。
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
不貞腐れた声で、成海が応えた。
「でも、やりすぎちゃったね。今日は課題しなくていいよ」
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん?」
まだ怒っている。
咲乃は視線を落とした。睫毛の間から、虚無を映していた瞳に僅かな光が灯る。
「……津田さん。今日の用事が終わったら、そっちに行ってもいい?」
『忙しい篠原くんは、わたしのことは気にせず自分のことでもやってください。別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん」
ようやく、成海が黙った。
「今日で用事も終わるよ。だから、また行ってもいいよね?」
咲乃の声が弱くなっていくのが分かったのか、成海は溜息をついた。
『……わかりました。今日の晩御飯はグラタンだそうです。持って帰りますか?』
「うん、助かる。おかあさんによろしく伝えておいてね」
『わかりました。でも勉強はしたくないっ! 今日は絶対っ!!!』
「わかった、わかったから」
成海をなだめて、通話を切った。
丸い頬をぶすっと膨らませている顔を想像して、また可笑しくなった咲乃は、しばらくひとりで笑っていた。
その瞳を見た瞬間、サッと結子の身体の体温が下がった。目の前の人は、初めて転校してきた時の彼とも違う。もっと別の、別の何かだ。
「それって、自分は何の努力しなくても勝手に好きになってくれて、自分だけに尽くしてくれて、自分の代わりに矢面になってかばってくれて、自分の傷を全部背負ってくれるような人?」
「ち、ちがっ――」
「違うかな」
結子が否定しようとすると、咲乃に鋭く遮られた。
「中本さん、本当は自分に自信がないから、そのままでいいよって肯定してもらいたいだけだよね」
結子は何も言えないまま、茫然と咲乃の言葉を聞き入れていた。
咲乃の言葉が信じられなくて、受け入れられなくて、聞きたくないと思っているのに、抵抗できない。
「寂しいから、寂しさを埋めてほしいだけ。自分が嫌いだから、代わりに好きになってほしいだけ。誰も認めてくれないから、代わりに認めてほしいだけ。優しくしてほしいから、優しくしてくれる人が欲しいだけ――」
咲乃の声はとても優しくきれいだったが、とても冷たく残酷で、結子の心臓をえぐり、空いた穴から体温を奪っていくようだ。
「好きな人に嫌いなものを押し付けて、自分は楽になりたいなんて。俺はそんな、中本さんの都合のいい王子様になるつもりはないよ」
「……」
否定したいのに、言葉が出てこない。
「自分の弱さを押し付けさえできれば」
彼のなめらかな指先が、結子の耳元の髪を掻き分けた。
「本当は、俺じゃなくても良かったんだ」
気付けば咲乃の頬に平手打ちをしていた。
悲しみと怒りがぐちゃぐちゃになって、言葉は出てこない。目の前の好きだった人を、信じられない想いで見つめて、結子はその場から逃げ出した。
*
叩かれた頬に手を当てると、叩かれた場所は、僅かに熱を帯びていた。
わかっていた。咲乃に想いを寄せる結子の気持ちは。全て理解した上で、近づいて、利用して、傷つけた。
結局、自分はこんなやり方しかできない。何が変わりたいだ。何も変わっていない。変わろうともしてないじゃないか。わかってる。でも。
――終わらせなきゃ。
ギリッと奥歯を噛み締めると、咲乃は立ち上がり、かばんを拾った。
小さく息を吐く。何も感じないまま、その場を後にしようとした。
外で山口さんが待っている。――とその時、咲乃はブレザーのポケットの中が震えているのに気付いた。
ポケットからスマホを出す。画面の「津田成海」の表示を見た時、咲乃は驚いて目を見張った。
連絡のやり取りは主にメッセージが主で、成海からかけて来たことは今まで一度もない。
思い当たる用事もなく、タイミングがタイミングなだけに出るのを躊躇う。しかし、無視をするのも気が引けて、咲乃は通話ボタンを押した。
「どうし――」
『もうぅぅっ、むりぃいいいいーー!!!!!』
突然の大音声に、咲乃は慌ててスマホを耳から離した。音量を下げて、改めてスマホを耳につける。
「津田さん、どうし」
『ひどいですよ、篠原くんは! 毎日毎日、大量の宿題だけを渡されて、次のテストに向けた勉強も並行しろだなんて!! 受験生でもないのに、毎日どんだけ勉強させるつもりなんですか!? こっちは引きこもりの不登校生なんですよ!?? 意地や根性なんて皆無なんです! ヘタレのクソ人間なんです!! なに過大な期待してくれちゃってるんですか!!!!』
「つ、津田さん?!」
思わず声が上ずった。電話の向こうではかなりご立腹のようだ。どうやら、課題を与えすぎてしまったらしい。
手紙の件があってから、咲乃は成海の家に行くのを控えるようにしていた。万が一尾行されていて、成海の家に通っているのを知られたら、成海にも被害が出る危険があったためだ。その間の勉強会は、ビデオ通話で行っていた。
リモートでつなげば、成海の家への移動時間が短縮されるため、いつもより勉強時間を増やすことができる。卒業までに、今の授業進度に追いつくこと、中学1年生分のまき直しや、社会や理解などの科目を増やすことも考えると、今までの勉強量だけでは足りない。次のテストも受けさせたい。必然的に勉強時間と課題の量も多くなる。
それに加え、最近は勉強ばかりで、ろくにコミュニケーションも取れていなかった。成海の部屋で勉強していた時は、休憩中に雑談したりして、無理をしていないか様子を見ながら進められたが、何事も断れない性格の彼女は、我慢に我慢を重ねたあげく、ついに限界を迎えたようだった。
『篠原くんは、頭良すぎてこれくらい平気かもしれませんけど、わたしはついていけないんです! 篠原くんとわたしとじゃ、頭の構造も違うんですよ!? いい加減遊びたい! ゲームやりたいんです! マ゛ン゛カ゛よ゛み゛た゛い゛ん゛て゛す゛う゛ぅぅぅぅぅぅ!』
散々怒りを爆発させて、今度はうぉんうぉんと何かの動物のように声を上げて泣き出した。
咲乃は何とか落ち着かせようと言葉を掛けるが、いくら声を掛けても聞き入れてはくれない。出会ってからこんなに怒りを爆発させる成海は初めてだった。
「ふっ……」
咲乃が噴出したのを耳ざとく聞いて、成海の泣き声がぴたりとやんだ。
『え……笑ってます……? 篠原くん、笑ってるんですか?』
「ごっ……ごめっ……!」
咲乃は口を押え、声を押し殺して笑った。腹が痛い。息ができない。止めたいのはやまやまだが、突然緊張の糸が切れたせいで笑いが全く抑えられない。
しばらく笑い続けていると、成海がずっと無言でいるのに気が付いた。
「……あ、えっと、津田さん?」
『面白かったですか?』
「え、う、ううん。ごめんね?」
さっきまで泣いていた成海の声が、すっかり冷たいものに変わっている。これはすぐに謝らなければ、後々面倒なことになってしまう。
「ごめんね、津田さん。ちょっと無理させすぎちゃったよね」
元々成海は、人の期待に応えようとするあまり、過度に無理をしてしまう。そのことを、最近はすっかり失念していた。いつの間にか成海に勉強の無理強いをしてしまっていたのだ。
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
不貞腐れた声で、成海が応えた。
「でも、やりすぎちゃったね。今日は課題しなくていいよ」
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん?」
まだ怒っている。
咲乃は視線を落とした。睫毛の間から、虚無を映していた瞳に僅かな光が灯る。
「……津田さん。今日の用事が終わったら、そっちに行ってもいい?」
『忙しい篠原くんは、わたしのことは気にせず自分のことでもやってください。別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん」
ようやく、成海が黙った。
「今日で用事も終わるよ。だから、また行ってもいいよね?」
咲乃の声が弱くなっていくのが分かったのか、成海は溜息をついた。
『……わかりました。今日の晩御飯はグラタンだそうです。持って帰りますか?』
「うん、助かる。おかあさんによろしく伝えておいてね」
『わかりました。でも勉強はしたくないっ! 今日は絶対っ!!!』
「わかった、わかったから」
成海をなだめて、通話を切った。
丸い頬をぶすっと膨らませている顔を想像して、また可笑しくなった咲乃は、しばらくひとりで笑っていた。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R18】黒髪メガネのサラリーマンに監禁された話。
猫足02
恋愛
ある日、大学の帰り道に誘拐された美琴は、そのまま犯人のマンションに監禁されてしまう。
『ずっと君を見てたんだ。君だけを愛してる』
一度コンビニで見かけただけの、端正な顔立ちの男。一見犯罪とは無縁そうな彼は、狂っていた。
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる