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〈2 ダイアモンドリリー〉

ep16 たとえ眺めているだけでも①

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 柔らかな白く淡い陽光が教室に差し込む。遠くでは、朝練中の運動部員の掛け声が薄く聞こえる。時刻は午前7時半。一般生徒が登校するには早い時間に、人気のない教室の床を上履きで歩く足音だけが静かに響く。

 中本結子なかもとゆいこは、朝のこの時間が好きだった。教室が騒がしくなる前の、この時間が。

 結子は誰よりも早くに登校すると、ロッカーに飾られた一輪挿しの水替えをするのが習慣だった。白く細い花びらを優雅に広げて、宝石のようにきらきらと輝く一輪の花。この「ダイアモンドリリー」という名の花は、結子が家の庭で育てていたものだ。昔から花を育てるのが好きだった結子は、誰に言われるでもなく、自分の密かな楽しみとして、育てた花を教室に飾っていた。

 水道場で一輪挿しの水を替えると、ロッカーの上に戻した。
 淡い太陽光を弾くように花弁はなびらがきらきらと輝いて、その美しさにしばらく見惚れた。花はどの花でも好きだったが、ダイアモンドリリーは特に好きだった。その名の通り宝石のように輝く花弁の美しさはもちろんのこと、それ以上に「彼」が美術の授業で描いてくれた特別な花として思い入れがあったからだ。

 結子は以前から、この花は「彼」によく似ていると思っていた。窓際の席で、外から差し込む日の光の中に、白い肌が溶け込んで、彼自身がきらきら輝いて見える時がある。その、目を奪われるような美しさが、華やかでいてどこか儚さを感じさせるその姿が、ダイアモンドリリーととてもよく似ているのだ。

 結子は小さく溜息をつき、親指と人差し指で挟むようにして優しく葉をなでた。これからも先、彼とはけして関わることはないけれど、この花を見ていると、自然と彼の顔が浮かんでくる。
 仲良くなれる見込みはなくても、せめてあの時の絵をもらえたら――、この花を活けているのは自分だと、彼に伝えられたらいいのに。


 ガラガラとドアが開く音がして、結子は振り向いた。いつもなら、まだ誰も来ないはずの時間だ。ドアの方を見て目を見張る。そこには、たった今まで結子が想っていた人がいた。

「中本さん、おはよう。随分早いんだね」

 穏やかな光がさしたような美しい顔で笑うその人に、結子は一瞬、息をするのを忘れた。あいさつされているのだと分かっているのに、言葉が詰まって声が出せない。

 思わぬ人との対面に固まっていると、彼は特に気にしたふうでもなく近づいてきた。彼が――篠原咲乃が、結子のすぐ隣でダイアモンドリリーを眺めている。優しく穏やかな横顔に、結子は思わず見惚れてしまった。

「この花、中本さんのだったんだ。中本さんが育てたの?」

「えっ……あ……その……」

「毎朝誰よりも早く来てえらいね」

 咲乃に褒められたことが嬉しくて泣きそうだった。この状況が信じられなくて、心臓が破裂しそうなほどに苦しくて、何か言いたいのに、何も言えない。

「この前、手紙をくれたの、もしかして中本さん?」

 以前、結子が咲乃の机の中にこっそり入れた手紙のことを聞かれて、頭が真っ白になった。

 あの手紙は、咲乃がデッサンで自分が活けた花を使ってくれたことが嬉しくて、親友に唆されて書いたものだ。あんな味気ない手紙、もらっても気にされないだろうと思っていたのに。

 それでも、気づいて欲しくなかった手紙それは、本当は気付いて欲しかったもの――。

「ご、ごめんなさい!!」

 結子は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にさせると、逃げるように教室を飛び出した。




「なにやってんの、結子」

 教室に戻る勇気もなく、廊下の窓からぼーっと外を眺めている結子を見つけて、聞き馴染みのある声が結子の肩を叩いた。結子は泣きそうな顔でくるっと勢いよく振り返ると、親友に抱き付いた。 

「ど、どうしよう……理央りお! さっき、篠原くんに話しかけられちゃった……っ!」

「はぁ?」

 ぽかんとしている理央に、先程のあった出来事を話す。理央は、楽し気にニヤニヤ笑った。

「よかったじゃん、想いの人に声かけてもらって! 認識してもらえたってことでしょ? 仲良くなるチャンスじゃん!」

「そ、そんなこと言われても……」

 理央は簡単に言うが、あいさつさえ返せなかったのだ。チャンスも何もない。落ち込んでいる結子に、理央は慰めるように背中をやさしくなでた。

「まぁまぁ。声かけてもらっただけでも進歩じゃん! 絶対、またチャンスあるって!」

 慰めてくれる理央に少しだけ元気が出てきて、結子の表情がほっとしたものに変わる。そんな結子の顔を見て、理央は笑顔を返した。

「でもさ、クラスメイトなのに転校以来、一切関わりのなかった篠原くんに声をかけられるなんて……。もしかしてこれって、おまじないの効果なんじゃないの?」

「うん……そうかな……」

 人差し指を結子の目の前でぴんと立てながら、理央が目を輝かせた。結子は、目を伏せつつ控え目に頷いた。何も接点がなかったのに、いきなり篠原くんに話しかけられるなんて、奇跡としか言いようがない。

「そうだよ! この前にやったおまじないが利いたんだよ! ね、また他のおまじない試してみよ?」

 結子の背中にまわり、理央が結子の背中を押す。早く教室にいこうと急き立てる理央に、結子は頬を赤らめながらおずおずと尋ねた。

「また見つけたの? 理央」

「もちろん! だって、親友の恋は成就してほしいじゃん!」

「そんなこと言って……、絶対面白がってるでしょ」

「まぁ、検証実験も兼ねてなのは否定できないけど……」

「理央!」

 結子に怒られてきゃっきゃとはしゃぐ理央と一緒に教室に戻ると、すでに他のクラスメイトも登校していて、教室の中はいつもの朝の風景になっていた。

「あれ、篠原、今日早くね?」

「うん、今日はたまたま早く起きれたから。誰もいない教室で読書していると、いつもより集中できるしね」

「ふーん、変わってんなぁお前」

 神谷や重田たちと談笑する咲乃を目の端に入れつつ、結子は理央と一緒に自分の席に座る。今朝あった奇跡などまるでなかったようないつもの日常風景っぷりだ。さっきのことは夢だったんじゃないかと思うほどに何事も無くて、結子は内心少しだけがっかりしてしまった。





「篠原くん、理科の班どこに入るの?」

「人数が足りなかったらウチらと一緒の班にならない? こっちも人足りないんだ!」

 咲乃を取り囲む女子たちは、みんな可愛くて目立つタイプの、クラスで地位の高い女子たちばかりだ。性格も明るく活発な子が多いのだが、少々気が強いため、クラス内で彼女たちに面と向かって意見が言える者は少ない。
 結子にとっても、彼女たちが怖かった。学校では、なるべく彼女たちに関わらないように、目に留まらないように気を付けて過ごしている。それでも、結子の目は、“彼”に捉われたまま離すことができない。

――篠原くん、大丈夫かな。本当は嫌なはずなのに……。

 女子たちの輪の中で、咲乃はいつものように柔らかく微笑みながら、彼女たちの機嫌を損ねない程度に上手くあしらっていた。本当は取り囲まれて騒がれるのは好きではないはずなのに、迷惑そうな態度はおくびにも出さない。
 結子は、彼女たちの人の気持ちも顧みない浅はかさに軽蔑しながらも、そんな風に咲乃に近づける彼女たちを羨ましく思っていた。篠原咲乃は、結子にとってあまりにも遠い存在だった。キラキラした女の子たちの前では、地味な結子ではどうしても霞んでしまう。

 遠くから眺められるだけでも幸せだ。自分では、彼に釣り合わない。今朝、篠原くんに声をかけられたときは、恥ずかしくて会話もまともにできなかった。そんな自分が、篠原くんに近づきたいだなんて――。

「結子、そろそろ行こ」

「えっ、あ、うん」

 理央に声をかけられて、席を立つ。そのとき不意に、咲乃と目が合ってしまって、慌てて目をそらした。あんまりじろじろ見過ぎて、篠原くんに不審に思われていたらどうしよう……。結子は理科室へ向かっている間も、胸の中がもやもやしていて仕方がなかった。




 理科の授業は、鉄とマグネシウムの酸化実験だ。それぞれのグループが、和気藹々とした中で実験が行われている。咲乃がいるグループは、神谷と重田と先ほど話しかけていた女子3人のグループで実験を進めていた。結子の班も、順調に実験を進め、レポートをまとめる。

「自分で考えて書いたら?」

「参考にしてるだけだろ、ケチ」

 駄々をこねるような神谷の声が聞こえてきて、結子は思わず、咲乃の班へ目を向けた。咲乃のレポートを見ようとして窘められた神谷は、今度は重田のレポートを覗き見ようとしている。重田はタブレットPCの画面を教科書で隠しながら、神谷に見られないようにして書いていた。
 授業が終わる間際になると、出来上がったレポートを送信して、理科室の先生に提出する。

「ごめん、結子。あたし、図書室に寄らなきゃだから、先に教室に行ってて!」

「うん、わかった。行ってらっしゃい」

 図書委員の仕事があるのだろう。理央は慌し気に、教材を持って理科室を出て行く。結子は、自分の教材を胸に抱えると、みんなの流れに沿って理科室を出た。
 今朝読んでいた小説の続きが気になって上の空で歩いていると、後ろから追いかける足音のことなど、まったく気付かなかった。

「中本さんのグループは、実験上手くいった?」
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