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第三章 忌み人は闇と踊る

忌み人は闇と踊る(12)

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「――カウントダウンだ。じゃあ、俺ぁ行くぜ」


 ふ――と背後の気配が遠ざかるのをひどくちりちりと鋭敏になった皮膚感覚が感じ取ったのを合図に、あたしは物憂げな仮面を貼り付けた顔で遠く階下を見下ろす演技をしつつ、視界の端っこギリギリを通り過ぎていく人々を注意深く観察し始めます。





 まだ、来てませんよね……。
 もしかして見落としたのかも――いいえ、あたしは自分の嗅覚を信じることにします。





 そう、あの人はあたしにこう言いました。


(――恐らく、君とアイツの『勘』が勝負の決め手になる。いいか? その目で見た情報を疑え。感じたままに決断して行動するんだ。他の誰も信じるんじゃない。頼んだぜ、祥子しょうこちゃん)





 アイツ、というのは蛭谷ひるやさんのことでしょう。かつて蛭谷さんが『黒堂こくどう会』でどのような仕事をされていたのかは、あたしには分かりません。ただ、白兎はくとさんの問いかけに対し、『人探しは俺の得意分野だ』と答えてらっしゃいましたから素人風情ふぜいが案ずることはないでしょう。



 どちらかと言えば、不安材料は間違いなくこのあたし、嬉野うれしのです。



(――相手が女の子で、それもとびきりの美少女と来たら、絶対見間違えたりしないだろ?)



 まあ、それはそうなんですけど……。



 っていうか、いつのまにかこのあたしが『四十九院つるしいん探偵事務所』代表兼現場責任者になってるの、どう考えてもおかしいですよね? これでもしあたしのせいで取り逃しでもしたら、きっと裸に剥かれて暗く冷たい船倉に放り込まれ、何処かの国に売られちゃうに決まってます!



 買い手がつかなくって返品されるでしょうけれど。
 はぁ……凡人かつ非・美少女って、損だか得だか分かりませんね、まったくもう。



 来た――。



 あたしは聖母のごとき慈愛を持つ奇跡の美少女・円城寺えんじょうじさんが舞台へ登場したのを即座に感じ取りましたが、決して彼女の方には視線を動かさず、先程と変わらぬ物憂げな素振りで階下をぼんやり眺め続けます。


(――はじめてこっちから呼び出されて、奴は警戒して慎重になってるはずだ。焦るなよ?)



 言うのは簡単ですけどね……。



 軽い電子チャイムを響かせて開かれたエレベーターの赤い扉から姿を現した円城寺さんは、そのまま脇道からメインストリートへ足を踏み入れると、ゆったりとした足取りのまま吹き抜けの円弧をなぞるように歩を進めて階下へ降りるエスカレーターを目指します。円城寺さんの周囲には数名のお客さんの姿があり、やはり同様に二階へ降りようとしているようです。



 ベビーカーを押す新米ママ。中年のご夫婦。黒いスーツ姿のお洒落なOLさんに、電話の向こう側にひたすら謝り続けているサラリーマン男性。うん、今のところは大丈夫――かも。



(――目で見た情報を疑え、って言ったはずだぞ? ベビーカーを押してるからってな――)



 うー、分かりましたよぅ。
 記憶の再現中にまで割り込んでくる人、はじめてなんですけど。



 円城寺さんがエスカレーターのステップに足を乗せたのを横目に見つつ、あたしは手にしたスマホの画面を一瞥いちべつして適当に目についたEメールを開きながら歩き出しました。ただ、その行為を続けながらも決して周囲を見回すことはしません。そう、今のあたしはモブなのです。



 え、何ですか?
 まさしく適任じゃないかって?

 ええ、ええ、その通りですよそうですよ。



 ようやくエスカレーターのステップにあたしが足を乗せた時、円城寺さんはすでに二階フロアに到着して、再び吹き抜けの円弧に沿うように歩いて行くところでした。近頃こういう施設のエスカレーターって、お年寄りへの配慮で凄くゆっくりですよね。ちょっぴりじれったい。





 えっ――!?

 その時です。
 あたしの、いえ、あたしたちの予期しなかった事態が起こったのです。





 どっ――さらに階下へと降りるエスカレーターを目指す円城寺さんを取り囲むように、横合いから同じくらいの年齢・背格好の高校生と思しき二、三十名の集団がとあるテナントから一斉に出て来たのです。彼女ら彼らはまとめて一つのグループという訳ではないようで、たちまち円城寺さんの姿はその群衆と騒々しさの中に溶け込んで見えなくなってしまいます。



(まず――っ! 急いで追いつかないと――!)
(――落ち着けって、祥子ちゃん。ここで動いたら負ける。一階に着いてからが勝負だ――)



 何処からか聞こえた気のする声に袖を掴まれた思いで踏み出しかけた足を降ろすあたし。そうこうしているうちに一階へと降りようとする集団はさらにその数を増していき、想定外の事態発生に、あたしの見える範囲だけでも数名狼狽して浮足立った男の人たちの姿が映りました。



(ま――まずいですまずいですよぅ! う、動いちゃ駄目なんですって! ああ――っ!!)



 いくら冷静になれ落ち着けと何度も繰返し自分に言い聞かせても、あたしの神経はもうぱんぱんに張り詰めていて、ちょっと触れただけでも弾け飛んでしまいそうで。パニック寸前で。



 しかし、それでもあの人の声はまだ信じていたのです。



(――心配するな。まだ『アイツ』がいる。アイツはこの程度でうろたえたりしないさ――)



 そうです――そうでした。



 ストーカーとの待ち合わせ場所は、一階の吹き抜け部中央にある『いのちの泉』。そして、先程あたしと別れて移動した蛭谷さんが、そこで円城寺さんが現れるのを待っているのです。



 そうだ。
 あの人なら大丈夫。

 絶対に円城寺さんを守ってくれる。










 そう――たとえ、自分の命と引き換えになろうとも。










(え――?)


 刹那、胸の中心に鋭利な氷塊を突き込まれたようなとてつもない不安感が心をひどくざわめかせ、あたしは思わず己のか細い肩をかき抱いて、大きく一つ身震いしてしまったのです。その耐え難い恐怖に、束の間あたしは我を失っていたのでしょう。ようやく一階に到着したことを告げたのは、見えない何かにつまずくような奇妙な感覚でした。慌てて体勢を立て直します。


(円城寺さんは……杏子きょうこは何処に……!)


 まだ先程の余韻が尾を引き、待ち合わせ場所の『いのちの泉』の周囲はたくさんの人、人、人。思わず手を突き出し掻き分けたくなるのを必死で押し留め、あたしは足を止めまぶたを閉じると、四方へ己の『感覚の触手』を延ばすようなイメージで円城寺さんの気配を探します。


(いた――いました!)


 ぱちり、と目を開くと、視線の先に辛うじて円城寺さんの後ろ姿が――そして、それを追う蛭谷さんの姿が本当にあったのです。思わず安堵のあまりその場に座り込みそうになります。


(っ――じゃない! 何も終わってません! これからじゃ――え!?)





 そんな馬鹿な――あたしは目を疑い、両足は縫い付けられたように止まっていました。





 何故なら、さっき見つけたはずの気配が、円城寺さんの後ろ姿が、さっきとは反対側から『泉』の向こう側へと消えていくのが見えたのですから――いえ、そんなはず、ありません! 円城寺さんが二人いる? あたしは真相を確かめようと、消えていった後ろ姿を追うように、足を速めて『いのちの泉』の向こう側へ、二人の円城寺さんが出会うその場所へと急ぎます。





 やがて、雑踏と喧騒は引き潮のように遠のき。
 ぽっかり、と空いたその場所には――寄り添うような一つの影。
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