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第二章 美しきにはメスを
美しきにはメスを(9)
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しゅるり、というかすかな衣擦れの音とともに、真白なバスローブが一糸纏わぬ少女の足元に艶めかしく滑り降ります。雪のように青白く透き通った彼女の裸体には、下着やソックスの跡すら残っていません。生まれたての美の女神のようです。
「じゃあ、裸婦デッサン始めるぞ。こんな機会、専門課程でもなけりゃ滅多にないからな。存分に観察して、思うがままに描いて欲しい」
普段とあまり変わらない赤坂先生のぶっきらぼうな声に、中央のモデルを取り囲むように鎮座している美術部員たちは緊張の面持ちで頷き返します。赤面する余裕すらありません。
「じゃあ最初のポーズは腰かけた状態で身体を少し捻って――そう、その角度で。顔は――はい、いいですね。五分から一〇分程度で合図しますから、またポーズを変えていただきます」
こくり、無言で頷くのは――美弥さん。
ごくり、唾を呑み込んだのは――あたし、嬉野でございます。
そう、安里寿さんの思いついた『良い事』とは、まさにこれだったのです。
『ね? 祥子ちゃんの学院の美術部って、高名な画家も排出しているくらいの名門なのよ』
『……そうなんです? 知りませんでした』
安里寿さんが喩えに挙げた方々は存じ上げませんでしたが、気になってインターネットで調べてみると国立美術館に作品が収められているほどの画家さんもいるらしいのです。
『でね? その赤坂先生って人はそのうちの一人に師事していた国内外から有望視されている画家でもあって、顧問としてもかなり優秀らしいのよね。そんな赤坂先生に提案したいの』
『何をです?』
『将来モデルを目指す子がいるから、経験のために裸婦モデルをさせて欲しい、って』
『へ、やっ!? や――やりませんよ、あたし!』
『頼んでないわよ? モデルは……そう、美弥にお願いするから大丈夫』
そんな訳で無理矢理起こされて眠そうな美弥さんに安里寿さんがそっと耳打ちすると、美弥さんは顔色一つ変えず「いいよ。安里寿の。お願いだから」と引き受けてくれたのです。
そして、今この状況。
ごくり、再びあたしは唾を呑み下します。
あたしは美術部員ではございませんが、こんな機会を逃しては末代までの恥です。真剣にクロッキーブックと向き合う他の美術部員さんたちに負けじと、あたしも手帳とペンを両手に熱い視線を一段高いステージ上にいる美弥さんに注ぎます。ちら、あ、視線が返ってきました。
「……っ」
雰囲気と空気に呑まれるとでも言うのでしょうか、あたしには絵心なんて皆無だと思っていましたのに、ペンを動かす手が止まりません。みるみるうちにページが青いインクで埋め尽くされていきます。ぴらっ、次のページへ。
「そろそろポーズ、変えるぞ。今描いているものには区切りをつけて準備しろよ、いいな?」
ああ、そんな――!
ふ、ふおぉおおおおお!
「はい、そこまで。では、一旦リラックして。そう、伸びとかストレッチとかした方がいい」
赤坂先生の合図であたしを除く全員が手を休めます。美弥さんはアドバイスどおりに立ち上がり、腕を伸ばし、背中を反らせて強張った筋肉と関節を緩めているようです。ああ、そんな無防備に身体を反らせてしまったら――でゅふ。
「ん? ……じゃあ次のポーズをお願いします。もう一度座ってもらって、今度は片膝を立ててみましょうか。腕は――立てた膝に乗せて――ああ、いいですね。そのままで」
「……でゅふ」
何処からか聞こえてきた気色の悪い笑い声に、赤坂先生が怪訝そうに眉を顰めて振り返りました。そして呆れ半分に声の主に向けてこう告げます。
「そこの君……熱心なのはいいんだが、どうしてそうまでして必死に正面に移動するんだ?」
誰ですか、まったく。
「おい、君だよ君。確か……そう、嬉野とか言ったよな。一応、ウチの部員のためにやってもらっているんだから――ええとだな――少しばかり自制してくれると有難いんだがね?」
「あたし――!? ……ですよね。は、はい、し、失礼しました……」
気付かぬうちに文字どおり体当たりで押し退けてしまっていたらしい両隣の美術部員の方々がほっとした表情をされているのを見て、ようやく自我を忘却し暴走していたらしいことに気付きます。おかしいですね、初めは一番後ろから参加していたつもりだったのですけれど。
期せずして注目を集めてしまい慌てふためいて救いを求めるようにステージの上に視線を向けると、美弥さんはくすりと無言で笑うふりをして、立てた膝の付根当たりに置いた手のひらを振ります。お願いですからその手をどけて――あ、あっち行ってなさい、ってことですね。
渋々最前線から撤退して安里寿さんたちの立っている場所まで下がりますと、二人は美術室の壁に寄りかかるようにして何やら声も密やかに話しているところでした。
「――あんた、一体何が言いたいんだ?」
「いえね。ふとそういうこともあるのかしら、って思ったものだから。他意はないわ」
「ふん。馬鹿々々しい」
安里寿さんの投げかけた問いに赤坂先生はあからさまに鼻を鳴らしてみせます。
「美術部は仲良しごっこをするところじゃない。部員同士の仲不仲なんて興味もない」
「では……ご存知ない、ということかしら?」
「……興味がないのと見て見ぬふりをしているのではまるで意味が違う。把握はしている」
憮然とした表情で、庇のようにせり出した独特の髪型の下から赤坂先生が視線を投げます。
「あのだな。俺は言葉遊びは好きじゃない。聞きたいことがあるならはっきりと言ってくれ」
「あら! 急かす男は嫌われますわよ?」
安里寿さんは可笑しそうにくつくつ笑い、それからこう切り出しました。
「この前の霧島さんの一件、赤坂先生はどうお考えなのかしら、って」
「はン。どうもこうもないだろ」
飛び出した口調が随分と伝法なものに変わっていることに驚いているあたしの表情を、赤坂先生はちらりと見ましたが、再び口を開いてもその調子はさほど変わっていませんでした。
「才能のある奴は孤立する、才能のない奴は距離を置こうとする、それだけの話だ。いつの世の中も変わらんよ。だがな? そこに悪意があり、行為が伴えば別だ。俺はそれを許さない」
「ふうん。見た目と違って、意外と心は熱いみたいですわね。びっくり」
「おいおい、からかうなって。あんただって見た目とはまるで違う。中身は腹黒い悪党だ」
あれれ? この短い時間で何だかやけに打ち解けた様子じゃないですか。口では刺すような鋭い言葉を繰り出しながら、今は揃って身を折るようにしてくすくすと笑い合っています。
「もう一つ伺っても?」
「嫌だ、と言ったところで無駄なんだろ? いいから言っちまえよ」
「先日退部した一年生、浅川さんと竹宮さんの描きかけの作品って、まだここにあるの?」
「……酔狂だな。見たいって言うなら止めはしない」
赤坂先生は寄りかかっていた壁を猫背で押し退けるように姿勢を戻すと、部員たちに時間が来たことを告げ、美弥さんに別のポーズの指示を出し満足そうに頷いてから、再び壁際まで戻って来ました。それから、顎をしゃくってあたしたちを奥の準備室の方へと促します。
「作品は全て裏に置いてある。ウチは方針が変わってるからな。生徒たちの描いた、彼女たちの作品とはいえ、基本的に全ては学院に帰属する財産として扱ってる。どんなものでも持ち帰らせはしない、そういう決まりにしてるんだ。来い、次のポーズに変わるまでの間だけだぞ」
美術部員の方々が誰も気付かないよう音を立てずに美術準備室へとあたしたちは向かうのでした。
「じゃあ、裸婦デッサン始めるぞ。こんな機会、専門課程でもなけりゃ滅多にないからな。存分に観察して、思うがままに描いて欲しい」
普段とあまり変わらない赤坂先生のぶっきらぼうな声に、中央のモデルを取り囲むように鎮座している美術部員たちは緊張の面持ちで頷き返します。赤面する余裕すらありません。
「じゃあ最初のポーズは腰かけた状態で身体を少し捻って――そう、その角度で。顔は――はい、いいですね。五分から一〇分程度で合図しますから、またポーズを変えていただきます」
こくり、無言で頷くのは――美弥さん。
ごくり、唾を呑み込んだのは――あたし、嬉野でございます。
そう、安里寿さんの思いついた『良い事』とは、まさにこれだったのです。
『ね? 祥子ちゃんの学院の美術部って、高名な画家も排出しているくらいの名門なのよ』
『……そうなんです? 知りませんでした』
安里寿さんが喩えに挙げた方々は存じ上げませんでしたが、気になってインターネットで調べてみると国立美術館に作品が収められているほどの画家さんもいるらしいのです。
『でね? その赤坂先生って人はそのうちの一人に師事していた国内外から有望視されている画家でもあって、顧問としてもかなり優秀らしいのよね。そんな赤坂先生に提案したいの』
『何をです?』
『将来モデルを目指す子がいるから、経験のために裸婦モデルをさせて欲しい、って』
『へ、やっ!? や――やりませんよ、あたし!』
『頼んでないわよ? モデルは……そう、美弥にお願いするから大丈夫』
そんな訳で無理矢理起こされて眠そうな美弥さんに安里寿さんがそっと耳打ちすると、美弥さんは顔色一つ変えず「いいよ。安里寿の。お願いだから」と引き受けてくれたのです。
そして、今この状況。
ごくり、再びあたしは唾を呑み下します。
あたしは美術部員ではございませんが、こんな機会を逃しては末代までの恥です。真剣にクロッキーブックと向き合う他の美術部員さんたちに負けじと、あたしも手帳とペンを両手に熱い視線を一段高いステージ上にいる美弥さんに注ぎます。ちら、あ、視線が返ってきました。
「……っ」
雰囲気と空気に呑まれるとでも言うのでしょうか、あたしには絵心なんて皆無だと思っていましたのに、ペンを動かす手が止まりません。みるみるうちにページが青いインクで埋め尽くされていきます。ぴらっ、次のページへ。
「そろそろポーズ、変えるぞ。今描いているものには区切りをつけて準備しろよ、いいな?」
ああ、そんな――!
ふ、ふおぉおおおおお!
「はい、そこまで。では、一旦リラックして。そう、伸びとかストレッチとかした方がいい」
赤坂先生の合図であたしを除く全員が手を休めます。美弥さんはアドバイスどおりに立ち上がり、腕を伸ばし、背中を反らせて強張った筋肉と関節を緩めているようです。ああ、そんな無防備に身体を反らせてしまったら――でゅふ。
「ん? ……じゃあ次のポーズをお願いします。もう一度座ってもらって、今度は片膝を立ててみましょうか。腕は――立てた膝に乗せて――ああ、いいですね。そのままで」
「……でゅふ」
何処からか聞こえてきた気色の悪い笑い声に、赤坂先生が怪訝そうに眉を顰めて振り返りました。そして呆れ半分に声の主に向けてこう告げます。
「そこの君……熱心なのはいいんだが、どうしてそうまでして必死に正面に移動するんだ?」
誰ですか、まったく。
「おい、君だよ君。確か……そう、嬉野とか言ったよな。一応、ウチの部員のためにやってもらっているんだから――ええとだな――少しばかり自制してくれると有難いんだがね?」
「あたし――!? ……ですよね。は、はい、し、失礼しました……」
気付かぬうちに文字どおり体当たりで押し退けてしまっていたらしい両隣の美術部員の方々がほっとした表情をされているのを見て、ようやく自我を忘却し暴走していたらしいことに気付きます。おかしいですね、初めは一番後ろから参加していたつもりだったのですけれど。
期せずして注目を集めてしまい慌てふためいて救いを求めるようにステージの上に視線を向けると、美弥さんはくすりと無言で笑うふりをして、立てた膝の付根当たりに置いた手のひらを振ります。お願いですからその手をどけて――あ、あっち行ってなさい、ってことですね。
渋々最前線から撤退して安里寿さんたちの立っている場所まで下がりますと、二人は美術室の壁に寄りかかるようにして何やら声も密やかに話しているところでした。
「――あんた、一体何が言いたいんだ?」
「いえね。ふとそういうこともあるのかしら、って思ったものだから。他意はないわ」
「ふん。馬鹿々々しい」
安里寿さんの投げかけた問いに赤坂先生はあからさまに鼻を鳴らしてみせます。
「美術部は仲良しごっこをするところじゃない。部員同士の仲不仲なんて興味もない」
「では……ご存知ない、ということかしら?」
「……興味がないのと見て見ぬふりをしているのではまるで意味が違う。把握はしている」
憮然とした表情で、庇のようにせり出した独特の髪型の下から赤坂先生が視線を投げます。
「あのだな。俺は言葉遊びは好きじゃない。聞きたいことがあるならはっきりと言ってくれ」
「あら! 急かす男は嫌われますわよ?」
安里寿さんは可笑しそうにくつくつ笑い、それからこう切り出しました。
「この前の霧島さんの一件、赤坂先生はどうお考えなのかしら、って」
「はン。どうもこうもないだろ」
飛び出した口調が随分と伝法なものに変わっていることに驚いているあたしの表情を、赤坂先生はちらりと見ましたが、再び口を開いてもその調子はさほど変わっていませんでした。
「才能のある奴は孤立する、才能のない奴は距離を置こうとする、それだけの話だ。いつの世の中も変わらんよ。だがな? そこに悪意があり、行為が伴えば別だ。俺はそれを許さない」
「ふうん。見た目と違って、意外と心は熱いみたいですわね。びっくり」
「おいおい、からかうなって。あんただって見た目とはまるで違う。中身は腹黒い悪党だ」
あれれ? この短い時間で何だかやけに打ち解けた様子じゃないですか。口では刺すような鋭い言葉を繰り出しながら、今は揃って身を折るようにしてくすくすと笑い合っています。
「もう一つ伺っても?」
「嫌だ、と言ったところで無駄なんだろ? いいから言っちまえよ」
「先日退部した一年生、浅川さんと竹宮さんの描きかけの作品って、まだここにあるの?」
「……酔狂だな。見たいって言うなら止めはしない」
赤坂先生は寄りかかっていた壁を猫背で押し退けるように姿勢を戻すと、部員たちに時間が来たことを告げ、美弥さんに別のポーズの指示を出し満足そうに頷いてから、再び壁際まで戻って来ました。それから、顎をしゃくってあたしたちを奥の準備室の方へと促します。
「作品は全て裏に置いてある。ウチは方針が変わってるからな。生徒たちの描いた、彼女たちの作品とはいえ、基本的に全ては学院に帰属する財産として扱ってる。どんなものでも持ち帰らせはしない、そういう決まりにしてるんだ。来い、次のポーズに変わるまでの間だけだぞ」
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