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第二章 美しきにはメスを

美しきにはメスを(5)

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 ええ。
 小さい頃から物静かで、あまり笑わない子、と言われて育ちました。

 幼稚園ではいつも一人。
 小学校でも中学校でも、それは変わることはありませんでした。

 いつも絵を描いていました。
 きっかけは、祖母だったかと思います。

秋良あきらちゃんの絵は素敵ねぇ。ばぁばはね、秋良ちゃんの絵がとっても大好きよ――)

 祖母は学生時代、とある高名な画家に師事して日本画を学んでいたそうです。帰省するたびに祖母は繰り返しその話を私に言い聞かせ、絵を描くようねだり、褒め、子供が扱うには高価な絵具を惜しみなく与えました。私は初めて人に認められた気がして嬉しかったのでしょう。

 ただ両親は、私が祖母の望むままに絵を描くことをこころよく思っていなかったようです。
 理由は……今になれば分かる気がします。

 両親は、叶えられなかった夢を孫に託そうとする祖母がうとましく思えたのです。父は公務員、母は会計士です。堅実で着実な道を歩むことこそが人生の正しき道と考える人たち。そんな両親からすれば、絵画を、日本画を学ぶことなど無駄で無意味な行為だとさげすんでいました。



 でも、そんなこと……子供の私には理解できません。できる訳がなかった。



 ただ褒められたかったんです。
 その時だけは笑顔でいられたから。

 やがて祖母は他界しました。九十八歳でした。
 そしてまた私は、笑わない子に戻りました。



 あの人に出逢うまでは――。





 ◆ ◆ ◆





 誰かのグラスに入っていたアイスキューブがゆるりと溶けて、ころり、と音を立てました。

「その、あの人、って?」

 安里寿ありすさんが耳元に囁くように問いかけると霧島きりしまさんはしばらく押し黙っていましたが、やがて溜息のようにその名前を、愛しそうに、恋い焦がれる者のようにそっと告げたのです。

「美術部の……先輩です。三年生で部長を務める……鷺ノ宮さぎのみや真子まこさんです」

 安里寿さんが無言で私に目配せをします。ええ、この嬉野うれしの勿論もちろん存じ上げておりますとも。



 鷺ノ宮真子先輩。所属は3ー1で、付いた渾名あだなは『聖カジミェシュ女子のカリオペイア』。そう、ギリシャ神話に登場する文芸を司る女神ムーサたちの一柱たるカリオペになぞらえた渾名です。書板に鉄筆を構えたカリオペの彫像を思わせる、デッサン中の鷺ノ宮先輩の優美な座姿はもちろんのこと、なによりその名の意味が示すとおり――。



「鷺ノ宮先輩は私の絵を見て言ってくれたんです。素敵ねって。華やかさの控え目な、しっとりと光沢を帯びたあの優しい声で、睦言むつごとを耳元に囁きかけるようにそう言ってくれたんです」
「あらあら。そこまで言ってもらえるだなんて、先輩冥利みょうりに尽きるわねぇ」
「いえ……。つたない私の語彙力では、先輩の魅力を一割も表現できている気がしません」

 感心半分、からかい半分で投げかけられた安里寿さんのコメントにも動じることなく、霧島さんはきつく目を閉じ何度も何度も首を振ります。まるでその様は自分の無力さ、不甲斐なさをひたすら悔い嘆くかのよう。熱狂的な信奉者、という表現が自然と浮かんできたほどです。

「そうするとその鷺ノ宮センパイが、さっき霧島さんが言っていた『友達』なんですか?」
「違います! 先輩は先輩です! そうではなくって……!」

 あたしのピントのズレた質問に咄嗟にそう言って――言ってしまってから、霧島さんは再び空虚なテーブルの上に視線を落としました。辛抱強く待っていると、次の言葉が出てきます。

「私が……私なんかが先輩に憧れを抱いているのを快く思わない人もいるってことですよ」
「なんかがって……誰かが誰かに憧れることに、良いも悪いもないですよ?」
「でも、実際そうなんです。そうだったんです」
「それが、さっきの『友達』ってことね」

 安里寿さんの問いに霧島さんは躊躇いがちに頷きます。

「クラスでも孤立しがちな私が友達を持てたのは鷺ノ宮先輩のおかげです。それは間違いないです。けれど……友達だと思っていたのは私だけだったのかな、そんな風に思ってしまって」
「同じ美術部の子ってことよね、それ」
「そうです。やっぱり私と同じように鷺ノ宮先輩に憧れて、あの子たちは入部してきたんです。浅川あさかわ千衣子ちいこさんと竹宮たけみや花咲里かざりさんは」



 浅川千衣子さん。嬉野データベースによれば所属は1ー2で、中学時代は吹奏楽部でフルート担当だったはずです。竹宮花咲里さんも同じく1ー2所属で浅川さんと中学校が一緒、さらには同じ吹奏楽部でクラリネット担当だったとか。そして、お二人とも霧島さんとは真逆のいわゆる『陽キャ』に分類されるほどの社交的で明るい性格の子たちです。



「授業や休み時間に会うような仲ではないんですけど、同じ部活で、同じ学年ということもあって、二人の方から話しかけてくれました。何でも本格的に絵を描くのははじめてだ、って」
「教えて欲しい、そう言われたのかしら?」
「そうです」

 霧島さんは頷きます。

「鷺ノ宮先輩にも言われたので。『二人に絵を描くコツを教えてあげてくれないかしら』と。最初は断ったんですけど、どうしてもって言われて……」
「先輩から? それとも二人から?」
「両方……だったと思います」
「どうして断ろうと思ったんです? 絵、上手なんですよね、霧島さん」
「そんな! 私だって、誰かにきちんと教わった訳じゃないですから。とても他人様に教えるような立場じゃないんです。本当です!」
「でも、断りきれなかった、ってことね」
「はい……」

 またしても霧島さんは沈んだ表情を浮かべたまま黙り込んでしまいました。あたしと安里寿さんはそっと視線を交わし、しばし見つめ合っていましたが、頷いたのは安里寿さんでした。

「で、二人はどうだったのかしら? 絵を描くのは上達したのかな?」
「その……はじめはデッサンから教えようと思ったんです。基礎中の基礎ですし」

 霧島さんは安里寿さんの問いかけを嫌がるように、視線を窓のない板張りの壁の方に向けて少しだけズレた答えをします。それがあたしの耳には妙な違和感としてこびりつきました。

「ふうん、なるほどなるほど。それで?」
「あ、あの……」

 霧島さんは表情を歪め安里寿さんを見ましたが――無邪気に微笑んでいるようで、それでいて有無を言わせない安里寿さんの真っ直ぐな瞳に射すくめられて堪らず視線が泳ぎます。そこを逃すまいと安里寿さんはテーブルの上に置かれていた霧島さんの手にそっと触れたのです。

「大丈夫よ。ここだけのヒミツ。ね?」



 大きな溜息。



「あの……さ、最初は一生懸命真面目にやってくれたんですよ? でも……二人の集中力は長くは続かなくって……。しばらくすると、デッサンなんてつまらない、もっと別のことがやりたい、って言い出したんです。そうして私が描いていた作品を見て、三人でそれぞれ一枚ずつ鷺ノ宮先輩の肖像画を描こうということになってしまったんです。先輩には内緒で」
「あら? いいじゃない?」
「ちっとも……ちっとも良くありませんよ」
「どうして?」





「………………どうしてもです」

 霧島さんは長い沈黙の後それだけを吐き出すと、通学鞄を胸に抱き締め立ち上がりました。

「あの……すみません。私、もう帰ります。ごちそうさまでした」
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