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第二章 美しきにはメスを

美しきにはメスを(2)

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「うふ。終わりました……あたしの平穏な学園生活が……。うふ……うふふふふふ……」

 嬉し恥ずかしカミングアウトの後遺症をお昼休みまで引き摺りまくったあたしは、机の上に突っ伏すようにして乾いた笑いを垂れ流すことくらいしかできませんでした。そんなあたしの惨状を目にし、救世主であり当事者でもある有海あみはあっけらかんと笑いつつ慰めてくれます。

「あははは。ちょいミスっただけじゃんかー。うれしょん、大袈裟っぽいしー」
「ちょっとじゃないです! 訴えたら勝てるレベルです!」
「まーまー。でもさー、おかげで助かったっぽいっしょ?」
「そ、それはそうなんですけど……。でもっ! 乙女心はフ・ク・ザ・ツなんですよっ!」

 せめてもの救いは、我が校が女子高だったことでしょう。これでもし共学だったとしたら、粗雑で野蛮な男子連中の恰好のオカズに――はどう考えてもならない気がするので、気晴らし程度のからかいの的になっていた筈です。ええ、そうに違いありません。

 ここがごく普通の女子高であればオープンに曝け出すことも可能だったのでしょうが、何せこの聖カジミェシュ女子は選りすぐりの無垢で可憐なお嬢様がお集まりになっている聖域サンクチュアリなのです。同性だからこその『生臭い話』への嫌悪感、ってあると思うのです。



 ああ、きっと皆様には軽蔑されてしまいました……。

 今すぐ消えてなくなりたい。
 ただひたすら美少女たちを傍観する残留思念として、存在感だけ消し去りたい。



「げ、元気出しなって! 五限は美術だし、移動しなきゃだしさー」
「そうは言いますけどね……」

 もはやのそのそ口元に運ぶお弁当の味もロクに判別できなくなっているあたしを懸命に励まそうと、早々サンドイッチ一つとゼリー飲料だけでお昼を済ませた有海は肩越しに言います。



 ……まったく。

 そうやって、おっぱい押し付けてきても駄目ですからね!
 嬉野、超怒ってますからその程度じゃ許しませんよ!



 背後から持たれかかる有海の緩くウェーブのかかった髪先が首筋を優しく撫でようが、駄目なものは駄目なのです。最近使い始めたというヘアオイルの甘いベリーの香りが鼻先をくすぐろうが駄目なものは駄目――ん? 有海、変えましたね? こっちの香りの方がお似合いですよ。くんかくんか。すーはー。うん、お弁当が美味しく感じられるようになってきましたよ!



「ねーって。やっぱー……駄目?」
「ももももう怒ってませんってば」

 そうやって背中越しに哀しそうなうるんだ瞳で覗き込まれたら、あたしとて許すしかないじゃないですか。ずるいんだから、有海は。

「……やった。ね、お礼にチューしてあげよっか?」



 はい! はいはいはい!!



「駄・目・で・す・か・ら!」



 目を閉じ、尖らせた唇をむちゅーと近づけてきた有海を、あたしの中に棲む『建前ちゃん』が全力で押し退けてしまいました。なんということでしょう。一方の『本音ちゃん』は血の涙を流しながら地面にひたすら拳を叩きつけています。わかりみが深い……深すぎる。

「はい! お弁当食べ終わりましたから、移動しましょう」
「ほーい! おっけー!」

 手早くお弁当箱を鞄の中に片付け、代わりにクロッキーブックと筆箱を持って有海と一緒に教室を出ます。あたしがもたもたしていたせいで、ちょっとギリギリですね。ウチのクラスから美術室へ行くには、階段を降り、二階の廊下の突き当りにある連絡通路を経由しなければならないので時間がかかるのです。言うまでもなく、はしたなく廊下を走ったりは厳禁です。

「やっばやっば! 予鈴鳴りそげ!」
「なんとか、間に合うかと!」

 努めてお淑やかで優雅なフォームを維持しつつ競歩をするあたしと有海。これなら大丈夫。予想どおり美術室の開きっ放しの扉にゴールインした直後に予鈴が鳴り響き、隣の準備室から美術担当である藝大出身の赤坂あかさかもやい先生がのっそりと姿を見せました。

「はい。今来た子たち、空いている席に座って。今日はクロッキーをやるからな」

 本校では珍しい男性教師である赤坂先生は、背が一九〇センチもある細身の三十一歳独身とのことです。ご多分に漏れず、あたしは全くといって良いほど関心はないのですけれど、パーマなのか天然なのか判別できない帽子のつばのごとき横広がりの髪の下で気難し気にしかめられた切れ長の目がセクシーだと一部の生徒の間で評判らしいです。ただ、ほとんどの時間を美術室で過ごしていらっしゃるので、割とレアキャラ扱いされていたりします。

「ええと、そこの子たち。後ろに描きかけの作品があるから気を付けろよ」

 どうやらあたしたちのことのようです。反射的に有海が「え? あーし?」と自分を指さしました。赤坂先生は片眉を吊り上げてようやく座ったばかりのあたしたちに向けて頷きます。

「君の後ろ。シーツを掛けてあるイーゼルだ。まったく……あれだけ片付けろと言ったのに」
「あい。き、気を付けますぅ」

 振り返ると、目と鼻の先にシーツを被せられたハロウィンの幽霊みたいなそれがあります。

「う……。もうちょっと椅子、前に出しましょうか」
「そ、そねー。しょっ……と」





 その途端、ぐらり、と視界の端で動く物が見えました。

 嘘……!





「あ……!」





 がしゃん!!

 思わず目を閉じたあたしの身体に軽い衝撃が走りました。恐る恐る目を開けてみると――。





「あ、有海! だ、大丈夫、ですかっ!?」
「あ、は……メンゴメンゴ……。思わず突き飛ばしちゃってー」
「そんなことより……! 血が! 血が出てますよっ!」

 あたしを助けるために……なんてことを……!

 有海の額から蛇のようにぬるりと滑り降りる赫。それを目にした瞬間、あたしはパニックになり甲高い声で喚き散らしていたようです。教室の前の教壇から「どいて!」と繰り返し叫びながら赤坂先生が近づいてきたのにもまるで気が付かない有様でした。あたしを引き剥がすようにして位置を入れ替わった赤坂先生に、有海は泣き出しそうな笑みを浮かべて言います。

「センセ、マジメンゴ……。超大事な作品壊しちゃったし……」
「そんなものはいい! 君の怪我の方が……ん?」

 すると何故か赤坂先生は、有海の額を伝う赤いものを指先で掬い取ると、事もあろうにそのまま自分の口の中へと突っ込みました。しばし小難しい顔付きで天井を見つめていたかと思うと、ポケットから取り出したしわくちゃのハンカチを口元に当て、ぷっ、と吐き出します。

「ああ。これは血じゃない。油絵具だ」
「味で分かるんですか?」とあたし。
「長年扱ってるからな。真似はするなよ。顔料や溶剤には毒性の高い成分が使われていてね」

 ぼそぼそっと呟き、有海の額を拭います。何処から沸いて出たものか、有海の額を伝う油絵具はかなりの量のようです。見る間に赤坂先生のハンカチは真っ赤に染まってしまいました。赤坂先生はそれを横合いに投げ捨て、顔を上げて別の物を探します。



 倒れてしまったイーゼルに掛けられていた作品を覆うシーツを握り締め、一気に――。



「ああっ!? これって――!?」



 そこにあったのは。
 無残にもX字に切り裂かれ、一面あかで塗り潰されてしまったキャンバスだったのです。
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