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第四十八話 いれずみ判官

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「おっ――王様――だって!? だってこいつぁ……!!」

 たちまちゴードンが頓狂とんきょうな声を上げてひっくり返り、椅子から落ちた。慌てて手を貸すシリルもスミルも、まるで化け物を見たかのような驚愕と恐怖の入り混じった表情をしていた。

「う……そ……!?」

 シーノもまた、衝撃的な発言をした銀次郎と、物も言えずにうつむいてしまったミサーゴ――だった者――を見比べるようにして、あうあう、と唇をわななかせていた。

 辛うじて出た言葉は。

「だ、だって……! え……? 《十傑》の《勇弟》のミサーゴは確かにいるんじゃないの?」
「元々、そんな奴ぁいなかったんだ。弟どころか兄弟姉妹もいやしねえ。……だろ? 王様?」

 ミサーゴは、置いてあったガラスコップの中の水を頭から、ざぶり、とかぶると――ゆっくりと長い髪に手櫛てぐしを入れて、すい、と持ち上げ、後方にでつけた。そして、ため息をつく。

「ふう……」


 すると、そこには――。


「くそ……さすがにリューリッジと同じ世界から来た『異界びと』の目は、騙せなかった、か」


 どこにでもいる庶民でも見慣れた顔がそこにあった。


 たとえ会ったことなどなくとも、その精悍せいかん面持おももちが浮き彫りにされたグレイル貨なら、誰しもが多かれ少なかれ持っている。そこに描かれた勇猛な王の顔が、複雑そうに苦笑していた。

「さては、そのさんに聞いたのか? 『遠山の金さん』ってな都合の良い話があるって」
「ははっ、図星だ」

《勇弟》のミサーゴ――《善王》のグレイルフォーク――そして、この地を治めるグレイルフォーク一世は、そこいらに置いてあった台布巾ふきんを手に取ると、構わずそれで薄汚れてずぶ濡れの濡れネズミになった顔と身体をぬぐって笑った。豪快で奔放ほんぽうなのは元からの性分なのだろう。

「『サクライレズミ』まで入れようとしたんだが、さすがにリューリッジから止められたよ」
「やめときな。ありゃあ、相当いてえぞ」
「同じことを言ってたよ、リューリッジもな。……か?」
「おう。こちとらちゃきちゃきの下町っ子だぜ」


 まさか異世界の人間の口から『二ホン』という言葉が飛び出してくるとは思わなかった。

 だが、そのまさかはある程度銀次郎が予想していたものでもあった。銀次郎も応じたものの、さすがにそこまで通じるとは思っていない。ただのいつもどおりの口癖に過ぎない。


 しかし、リューリッジ、などと名乗る日本人はいない。

 恐らくは――偽名か渾名あだなか。
 もしくは、この世界の人々には発音しにくい名前だったのかもしれない。


「リューさんとやらもそうだったのかい。どうりで。……お、おい、一体どうしたってんだ?」

 と、気がつけば、銀次郎と香織子、そしてシオン以外の常連客は、今にも床に額を擦りつけそうな勢いでへなへなと座り込んでしまっていた。今まで遠い存在だと思っていた一国のあるじを目の前にしたならば、そのような反応をしてもおかしくはないのだろう。

 が、銀次郎は鼻を鳴らす。

「なんでぇなんでぇ。王様だろうが、同じ人の子だろうが。無闇むやみにへぇこらするこたぁねえ」
「とは……言われても……だな……ギンジロー……」
「こいつは王様じゃねえ。弟のミサーゴだと思っておきゃあいい」
「ははっ。このじじいの言うとおりだ。気にするな」

 無礼だなんだと言い出さないところが、この王の人柄を良くあらわしていた。銀次郎をつかまえて『爺』呼ばわりするところも、不敬なようでいて気さくさを感じさせる。香織子かおりこが言う。

「ね、ねえ? 銀じい? 『遠山の金さん』って、あの時代劇の?」
「おう、そうだ。おめえも観たことあんだろ? 片岡千恵蔵のよ?」
「そ、その人は知らないけど――」

 香織子は目を白黒させながら、少し済まなそうに身をちぢめてこう続けた。

「あの……ごめん。銀じいのこと、悪く言っちゃって。そんなはずないのにね」
「構わねえさ。昔、よくかみさんにも言われたもんだぜ――銀さんは口が足らないね、ってな」


 何を言われても、ああ、やら、おう、きりしか言わず、たまに長く喋ったかと思えば、大丈夫でぇじょうぶだ、しか言わない銀次郎をからかって亡き妻の善子よしこはそう言ったものだ。苦笑いが浮かんだ。


「……もっぺん言うぞ、『金の字』」

 そして、再び厳めしく顔を引き締める。

「このシオンはな? ……俺らの孫娘だ。魔族だなんだなぞ知ったこっちゃねぇ。ましてや、寄越よこせやなんだなんてぇ寝ぼけた台詞せりふは寝てから言いやがれ。こちとら嫁に出す気だってありゃしねえんだ。それをなんでぇ、この世界を救うため? そんな世界ならいっそ滅んじまえ」
「……力づくでも、と言ったら?」
「おう、望むところだぜ。さぱっ、とやってもらおうじゃねえか」

 そう吐き捨て、銀次郎は店のど真ん中に、どっか、と胡坐あぐらをかいて、自分の首筋をつついてみせる。

「ただし……俺ぁたたるぜ? 恨みつらみをたんまり抱えておっ死ぬんだ。そんな祟りを抱えた国なんざ、どこのどなたさんが手ぇ出さなくとも早々に御陀仏おだぶつだ。それでもやるんなら、ほれ」
「祟るのは嫌だなぁ」

 そう苦笑しつつ、グレイルフォーク一世は銀次郎の前に立ち、大剣の柄に手をわせた。


 なんとも剣呑けんのん極まりない会話だが、その当事者どちらも、今の状況をどことなく楽しんでいる風でもある。しかし、まわりの人間にしたらたまったものではない。誰もが息を止めて見る。


 斬るのか。


 斬るのか。


 本当に斬ってしまうのか。





 ――と。





「……やめだ。これは俺の負けだな。それこそが悪い」

 グレイルフォーク一世は、盛大なため息をつくと構えていた大剣を戻し、カウンターの椅子三つを占領してごとりと置いてしまった。そうしてから、銀次郎の前で同じように胡坐をかく。

「おい、爺。ならばどうすればいい? 奴らに屈すれば、人間は隷従れいじゅうするのみとなるぞ」
「んなもん、俺ぁの知ったこっちゃねえ……と、本来だったら言いてえところだが――」

 銀次郎は首を巡らせて常連客たちの顔を見る。

 シオンが助かったまでは良かったが、そうなると今度は自分たちの自由が失われる。奴隷として苦役に血汗を流す日々が来るかもしれない。

 そんな複雑な心中を察せられぬ銀次郎ではなかった。

「ううむ――」

 なので、まずひとつ、唸った。
 それからこう、とびきりとぼけた顔つきで言ったのだった。

「そりゃ、なんとかせにゃなんねえな。なにせ、店に来る客が減っちまうってえんだからよ」


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