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第四十四話 揺らぎはじめる日常

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 また別の朝である。

「……おめえさん、いつまでいるつもりだ? バイト?」


 しゅーっ。

 こぽ……こぽぽ。

 かちゃ、かちゃ。


 一連の開店準備を続けながら、銀次郎ぎんじろう香織子かおりこの背中に尋ねる。香織子は店の扉を開け放ち、晴れ晴れとした異世界のあおく澄み渡った空を見つめていた。やがて、ぽつり、とこうこたえる。

「もうちょっと――かな? あたしなりの答えを見つけたら、パパのところに帰るつもり」
「……ふン。好きにしな。それまではきっちり面倒見てやる」
「ありがと、マスター」
「おっ! おは――おはようございます!」

 寝坊したのか、遅れて転げ落ちるように二階から現れたのはシオンだ。それでもきちんと店に立つ身なりを整えていることに気づき、香織子は内心目を丸くしてほくそ笑んでいた。

「ほら、お寝坊さん! お店、今日も開けるわよ!」
「はーい! おねえちゃん先輩!」





 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆





 その日の夕方のことだった。

「……邪魔をする。この店の主人はいるか」

 またぞろ厄介な城からのお偉い訪問者かと思いきや、店の扉を開けたのは、精悍な顔立ちをした目つきの鋭い男だった。ただ、その出で立ちは城の兵士のものではない。少なくとも先だって尋ねきた者や、トットやスミルとも違っている。それでもしかし、この国を統べる王の命を受けてきたのだろう、それと分かる所作しょさとふるまいがあきらかに見てとれた。香織子は言う。

「……マスターなら小用で出ております。どのようなご用件でしょう? お客様のお名前は?」
「ああ――これは失礼した」

 銀次郎は物売りのラデクのところまで野暮用で出かけているところだった。だからといって、誰なのかも、何の用かもさっぱり分からないのでは、自分がいる意味がまるでない。そんな思いで負けじと鋭く切れ味のいい視線と言葉を投げた香織子に、男は深々と会釈をしてこたえた。

「私の名は、ハーランド・スミッソン。グレイルフォーク王直属の近衛兵団の長を務めている。いつぞやは我が城下の者が迷惑をかけたようで申し訳ない。その者に成り代わり、お詫びする」
「あ――ありがとうございます」

 実直そのものの立ち振る舞いに、思わず香織子はそうこたえてしまっていた。深々と頭を下げたハーランドは、その体勢からわずかに頭を上げて見上げると、こう続けて身体を起こす。

「それで……マスターはいつ頃お戻りになるのだろうか?」
「じきに……とは思いますが……。どのような御用件なのでしょう?」
「それは、直接お伝えした方がいいのではないか、と――」
「……あたしもあなたと同じ、です。何も分からない、では伝えようがありませんし、あたしにもあなたと同じく面子めんつというものがあります。ご理解いただけますか?」

 ハーランドは、目の前の娘ほどの歳の少女から鋭く油断のない真剣み帯びた視線を向けられ、ガラにもなく相好そうごうを崩して苦笑してみせた。それから表情を引き締め姿勢を正し、こう続けた。

「……済まなかった。では、単刀直入にお伺いしよう――この店で振舞われている『こーひー』なるものには、魔力がこもっているという噂を耳にしたのだが、それは真実なのだろうか?」

 香織子は一瞬返答に迷った。


 が、このハーランドなる人物は単なる噂と一笑に付することなく、さりとて丸呑みにするほど愚かではない。だからこそ、こうやって真偽を確かめに来たのだろう。


 香織子はこう返した。

「実は、私たちにもそれは定かではありません。少なくとも、マスターは使のです。マスターの部下であり、マスターの孫娘であるこのあたしや妹のシオンも同じです」

 うむ、とハーランドがうなずく。
 そこで香織子はさらに続けてこう告げた。

「なのですが……ここの珈琲を飲んだ後、さまざまな形で幸運を授かったという話をお客様から伺っております。金貨を拾ったという些細ささいなものから、冒険クエスト中に九死に一生を得たというまさに奇跡のようなお話を。しかし、それは珈琲の力ではない、とマスターは常々語っています」
「いやはや、金貨を拾うのがとは――」

 下手な商売ではひと月の稼ぎにも相当する大金だ。ハーランドは事前にこの店で働く者たちは『異界びと』なのだと聞いていたので、心中をあらわすのに軽く肩をすくめる程度に留めた。

「……まあ、しかし、比べればそうなのだろうな。死の前には、富も名誉も無意味で皆平等だ」

 ハーランドは、ふむ、といかつく前にせり出し気味の顎先を指でつまむようにして考えた。どうしても長年の癖で、相手が嘘をついているかどうかを見定めようとする性分があるが、『このマスター直属の部下』と称する少女の弁に嘘偽りはないように思える。ううむ。

 そのまま物言わぬハーランドが視線を横に向けると、そこには見たこともない道具で書かれたらしい達筆な貼り紙があった――こーひー一杯、鉄貨五枚――なんと安価な水薬だろうか。


 しかし、町の噂どおり、真に魔力がこもっているのであれば、あまりに安すぎる。

 水薬売りが王に宛てて訴状そじょうを出してきたこともこれで頷けるが、逆に言えば、ほんの少しでも魔力が封じされているのだとしたら安売りしすぎだろう。さかしい者なら少しでももうけたいと思うのが当然であり、当たり前で、良くも悪くもそれが人間という生き物の悲しい性分だ。


「承知した――」

 充分に思案した後、ハーランドは香織子にこう告げることにした。

「あなたの言葉を信じよう。そして、それはマスターの言葉と同じだということも」
「お分かりいただけたようで助かりました……。ありがとうございます」
「では、マスターにはよろしくお伝え願いたい」
「え? ………………お帰りになるのですか?」

 いくらなんでもそこまで信用されるとまでは思っていなかった香織子は少し慌てたように告げる。早くも扉の方へ足を進めていたハーランドは立ち止まり、はじめての笑顔を見せた。

「ああ。今日のところは運がなかったと思って帰ることにする。あなたから真実を伺うことができたから用件そのものは済んだのでな。それに……早々に戻って新たな策を練らねばならん」
……、ですか……?」
「そうだ」

 ハーランドは大きく頷くと、最後にこう言い残し、背を向けた。

「この世界の安寧あんねいおびやかす新たなる存在――『魔性の者たち』といかに戦うかを。……では、失礼」


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