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第三十八話 愚者サルトゥス

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 それから数日が経った。

 銀次郎の店『喫茶「銀」』は前にも増して『至極の一杯』を求める客で繁盛していた。


「あいかわらず盛況だねえ、ギンジロー」
「あんたんとこの口利きのおかげさ、シリル」

 そのお昼時のせわしなさも過ぎ、ひと段落した頃合いを見計らったかのように現われたシリルの声に、店の奥の居間でシオンに勉強を教えていた香織子かおりこが顔を出し、満面の笑みを見せた。

「あ! シリルさん! いつもありがとうございます!」
「あら、ちゃん! 今日も元気ねえ!」

 シリルもつられて笑い返す。

 ただ、どうしてもこの世界の住人には『』という名前は発音しづらいらしく、誰もが看板娘の香織子のことを『』と呼ぶようになっていた。

「シリルおばさんのところのパイ、あたし、大っ好きなんです! とっても美味しくって!」
「あらあら! 嬉しいこと言ってくれるじゃないの! どこかの頑固爺さんより素直だわね」
「おいおい。俺らだって、こんなにうめえもんはねえ、と言ったろうが」
「最初だけじゃないのさ。いつの間にか、当たり前みたいな顔して食べてるくせに、ねえ?」
「ホント! 銀――マスターは、そういうところが駄目なんですよねえ」
「けっ、おめえはひと言余計なんだよ、香――バイト」

 口々にいつもの憎まれ口を叩きながら、トレイの上で湯気を立てている昼食の前で、ぺちん、と手を合わせているふたりを代わる代わる見つめ、シリルは微笑みを浮かべながらあきれたように首を振った――まったく、良く似てること。自分たちじゃ気づかないもんかねえ、と。

 と、居間の方から、ひょこり、と顔をのぞかせ、シオンがねたようにむくれて言う。

「キャリコおねーちゃん! あたしのはー?」
「あ! ごめん! そっち持っていくね、シオン!」

 香織子は待ちきれずに手を付けてしまった自分の分の横に、シオンの分の昼食を載せてトレイを運んでいく。その様子を無言で見送ってから、シリルは銀次郎ぎんじろうにそっとこうささやいた。

「……シオン、すっかり大きくなったわね」
「ああ。もう中学生くれえ――と言ったところで分からねえか。ま、お陰様でデカくなったよ」
「で……どうするんだい、?」
「あれ、ってなぁなんだ?」
「おとぼけはやめとくれ、ギンジロー。あれよ、シオンの『つの』。もう結構目立つじゃないか」
「……」


 言われるまでもなく、シオンの耳の真上あたりから生え出ている『白の二本角』は、銀次郎の悩みの種だった。それは山羊やぎの角のように鋭く、じれてとがって天に向かって伸びていた。


 実のところ、シオンがもっと小さい頃にどうにか短く目立たないようできないものかと、枝切りばさみや金鋸かなのこで切ってみるかと思案したことがあるが、結局やらずじまいでやめてしまった。

(……切るのはやめにしとこう)

 思った以上に硬いということもあったのだが、それ以上に思うところがあったからだ。

(これは、シオンがシオンであるてぇあかしみてぇなモンだ。それを切っちまうのはいけねえよな)

 育ての親である銀次郎自らが、そのシオンの『証』を恥じたり、否定したりすることは大きな間違いだと思ったからであった。


 だが――。


(どうしたモンかね……せめて悪目立ちしねぇくらいのことはしてやりてえんだが)

 自分の『証』を隠すような行為もまたよくはないのだろうと思うのだが、銀次郎が思う以上に、この世界の住人たちにとっては、魔族の印、不吉の象徴であるあの『白の二本角』の存在は厄介であるらしい。どこかに生き残りがいるらしい、という噂だけでも大騒ぎになるほどなのだ。


「にしても、ついこの間まで、ばぶばぶ言ってたのにねえ。喋れるなんて大したものだわ!」
「ふふん。センセイが良いからな」
「キャリコちゃんかい?」
「そうともさ。ありゃあとんでもおっかねえ鬼の教育ママだぜ」
「まーったそんなこと言って! 愚者サルトゥスみたいなへそ曲がりの爺様なんだから!」
「けっ、誰が天邪鬼あまのじゃくだってんだ」


 この世界で土曜日にあたるのが『サルトゥスの日』だ。

 このサルトゥスという神はたいそう悪戯いたずら好きで、他の神が大切にしていた宝物を盗んだり、欲しい物があれば暴力も振るうという厄介者なのだが、その一見自分勝手な行為が結果的に神々の恋を実らせたり、悩める人間を助けたり、世界の危機を救うことになったりするという『愛すべき愚者』として親しまれている。


 それをスミルから聞き学んでいる銀次郎は、芝居がかった大仰おおぎょうさで、むすり、としてみせた。

「でもさ?」

 その顔が面白かったのか、シリルは、かかか、と笑いながらもこう続ける。

「なんでまた、キャリコちゃんのことを『』なんて呼んでんだい? あんたの孫だろ?」
「……あいつがひねくれモンの頑固モンだからだ」
「あら? どっかにもそんな年寄りがいたわよ? 誰だったかしら……?」
「どうして家に帰りたくねえんだか……いまだにひと言も喋りやがらねえ」

 皮肉が耳に入らなかったほど、銀次郎はむすりと顔をしかめ、怒っていた。でも、それは銀次郎なりの思いやりであり、心配しているからこその言葉であることをシリルは知っていた。

「ま、あの子はギンジローのことが大好きだよ。ただね? ずっと会ってなかったって言うじゃないか。だからさ? だから、どうやって近づいたらいいものか分からなくて迷ってんのよ」
「………………俺もそうだ」


 ずっとひとりだった。


 亡き妻、善子よしこがいた頃でも心の支えは妻だけだったが、その善子も一〇年前に他界し、銀次郎は真に孤独となった。ひとり娘の芳美よしみは当時まだ健在だったが、二〇歳で家を出てからこの方ろくに顔を出さなかったくらいだ。葬儀の喪主もしゅつとめに顔を出した後は、再び音信不通となった。


 唯一あったのは、香織子との手紙のやりとりだった。


 しかしそれも、年に一度、判で押したような何処どこかで見たことのある美辞麗句びじれいくが並んでいるだけの代物しろものが届き、それに返す銀次郎の書も似たようなものであったから、チラシと大差ない。


「……はぁ」


 だからこそ――。

 いきなり孫だ何だと言われてもどう相手をすればいいものか銀次郎には分からないのだった。


「ったく……つくづくてめえの頑固さが嫌になるぜ」

 そう思わず銀次郎がこぼすと、シリルは小鳩のようにくつくつと笑ってこう告げる。

「それに気づいただけで偉いモンだよ! 大丈夫、こういうのは失った分だけ時間がいるのさ」


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