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第二十三話 はじめてのおつかい(一軒目)

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「あら。ギンジローじゃない? お早う!」
「おう、シリル! お早うさん!」

 店を出た途端とたん、通りの向こう側から威勢のいい声が届いた。食堂の主人、ゴードンの妻のシリルだ。どうやら朝の掃除中らしい。店の前をキレイにしておくのは商売の基本中の基本だ。

「あーら! あらあらあら――!」

 と、その手を休めて興奮したように走り寄ってきた。
 どうやらお目当てはシオンらしい。

「なーんてかわいいお嬢ちゃんなの? ね? お名前はなんてのさ。あたしに教えとくれよ」
「ぷうっ!」
「んーんー! そうなのそうなのー! ……で? どっからさらってきたのさ、ギンジロー?」
「よ、よせやい、おめえ! 人聞きの悪い!」

 どちらも軽口だと承知の上での会話である。

 とはいえ、あながち的外れでもない。そこで銀次郎は、昨晩ゴードンたちに話して聞かせたことと似たようなことを言っておく。が、シオンの『つの』の件は伏せておくことにした。

「ふーん……。で、こんな早くからどこに行こうって?」
「シオンにな? 乳を飲ませてやらにゃ、と思ったからよ」
「いやだ! あたしはまだ出やしないよ!」
「ば、馬鹿! そんなこと知ってらあな!」

 頬を赤らめたシリルに、半ば冗談だと知りつつも、銀次郎は大慌てで手を振ってみせた。

「まったくおめえさんはつくづく年寄りをからかうのが好きだときてやがる。困ったもんだ」
「あははっ! 口のひとつもうまくなけりゃ、商売もできやしませんからねえ」

 さすがは界隈かいわい随一ずいいちの食堂の女将おかみである。
 そこでシリルは、少し心配そうにこう尋ねた。

「ねえ、ギンジロー? あなた、子育てなんてできるのかい?」
「問題なんざありゃあしねえ。昔取った杵柄きねづか、って奴だ。……まあ、だいぶ昔の話だが」

 シリルはそのくだりを聞いて不思議そうな顔をする。もっともこの世界で『杵柄』と言われたところで、なんのことやらちんぷんかんぷんだろう。

 思い直してこう尋ねてみる。

「ねえ、ギンジロー? まだ店を開けるには早いから、あたしもついてってあげようか?」
「そりゃありがてえが……遠慮しとく。この町にも早いとこ、慣れとかなきゃいけねえしな」
「ま、それもそうね」

 物分かりのいい女房を持ったゴードンは幸せ者だ。あっさりとうなずいたシリルは、手にしたかしぼうきの柄の方を使って砂の浮いた地面になにやら書いていく。このあたりの地図らしい。

「ここをね?」


 ざりり。


「こう……まっすぐ行った先に、何軒か店があるからさ。ここいらで入用いりようの物はそろうと思うよ。今日はフレイの日だから、余所よそから物売りも来てるんじゃないかしら。行ってごらん」
「おう。ご親切にどうも。じゃあ、またあとでな、シリル。ゴードンにもよろしくな」
「あいよ」

 元気よくぶんぶんと手を振り、さて掃除に戻るか、と店の前まで戻ったところでシリルは、はた、と気づいた。慌てて遠ざかっていく、ぶっ! ぶっ! という子どもの声めがけて気づかいの言葉を投げた。

「ち――ちょっと!? ギンジロー!? あなた、お金は持ってるの!?」

 返ってきたこたえは、背中越しの無言の手ぶりだけだ。

「もう! 大丈夫なのかねえ……」




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆





「おう、このあたりだな……?」

 さて、シリルに聞かされたとおりに来てみると、確かに何軒かの店が軒を連ねていた。しかし、またもや困ったことに、銀次郎には書かれている文字が読めない。


 ある店の上には――。

「ありゃあ……靴か?」

 銀次郎の言うとおり店の軒先から彫刻を施した木の板看板が吊り下げられており、そこにくるぶし丈のブーツが彫り込まれていて、素朴な色使いで着色されていた。実に分かりやすい。


 とはいえ――。

「あっちは……包丁か? いやいや、包丁屋なんざ聞いたこともねえ。ってことは……だ」

 板看板に彫り込まれているのは、ずどん、と迫力のある中華包丁が一番イメージに近い。武器屋だろうか? しかしシリルいわく、このあたりにはいわゆる冒険者向けの店はなく庶民向けの店ばかりらしい。であるならば、あのような包丁を使う店であると考えた方がよさそうだ。

「……そうだ、肉屋かもしれねえな。鍛冶屋かもしれん。『はんじ絵』か、こりゃあ面白い」


 分からなくて途方に暮れる、というのがないのも銀次郎の良い所だ。


『判じ絵』といえば、江戸時代の庶民に親しまれた、絵を読み解き答えを導き出す『謎解き』のことである。昔ながらのしきたりや風習を色濃く受け継ぐ生粋の下町育ちの銀次郎にとっては馴染み深い代物だ。

「むむ? こいつはなんだ……?」

 こうなると、むしろ一目でそれと分からない板看板の方に、がぜん興味をそそられる。

「……びんか? なにかが入ってるぞ? しめしめ、こいつは早々当たりを引けたみてえだな」

 厚口あつくち寸胴ずんどうのガラス瓶に入れられ売られる白い液体といえば、もうひとつきりしか思いあたりがない。そう、まさしくお目当ての牛乳である。早速開いているらしい店へ入ってみた。

「これはこれは。ようこそいらっしゃいました。お見かけしないお顔と存じますが――?」
「新顔だ。八十海やそがい銀次郎ぎんじろうってもんさ。よろしく頼む」
「ええ、ギンジロー様。……何かご入用でしょうか?」
「ああ。早速聞きてえんだが――」

 そこで銀次郎は、腕の中で店のあちこちを興味津々の眼差しで見回しているシオンをつつくように指さした。三方の壁には棚がしつらえてあり、板看板に掘られていた物と似た厚口の瓶がずらりと並んでいる。しかし、よくよく見ると、瓶の中の液体はさまざまな色をしていた。

 銀次郎は向き直り、店主に続けてこう尋ねた。

「この子にな? 乳を飲ませてやりてえと思って邪魔したんだ。外の板看板……違うか?」
「なるほどなるほど。……しかしですね? ここにはそういった品物はございませんので」
「おっと」

 どうやら見当違いだったらしい。店主は済まなそうに肩をすくめながら、棚から一本、瓶を手に取ると、銀次郎たちの目の前に、ごとり、と置いてカウンター越しにこう告げた。

「ウチで扱っておりますのは、魔力を封じた水薬ポーションでございまして。効果はさまざま、用途もさまざまでございます。しかしながら……そちらのかわいらしいお嬢様がお飲みになるには、いささか不向きかと」
「ふうむ」

 もっともらしくうなずいてみせる銀次郎。

 しかし、実のところ店主の口上は銀次郎にとっては実に難解で、まるで意味が分かっていなかったりする。ただ少なくとも、この店では牛乳を売っていないのだ、ということだけは理解した。

「なるほど、水薬売りなら仕方ねえさ。いや、すまねえ、邪魔したな。ところで、だ――」


 最後に銀次郎は、ぬけぬけとこう尋ねる。


「あんたの持ってる、それ、『ぐれいる貨』でいくらするのかね?」


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