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第九話 親と子

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「どうかしたかね?」

 見かねて銀次郎が声をかけると、スミルは今の今まで動きを止めていたことに気付いていなかったようで、はっ、と我に返り、次に目の前に立つ白髪の老人の心配そうな顔を無言で見つめている。

「お、おい! スミル、お前、大丈夫か?」
「大……丈夫だと……思う」
「何だよ、まったく!」

 スミルの魂の抜けたような返答を耳にすると、ゴードンは一瞬呆けたような表情をし、すぐにも怒ったように吐き捨てた。

「驚かすなよ! 喉でも詰まらせたかと思ったぞ! まったくお前は、いちいちやることが危なっかしくていかん。そうさ、この前の一件だってな――」
「ち、ちょっといいかい、おやっさん!」
「な、何だよ、血相変えて?」

 これから説教の一つでもしてやろう、そう意気込んでいた矢先に話の腰を折られ、普段なら真っ赤になって叱り飛ばすはずのゴードンだったが、いきなり隣の席から詰め寄られてもごもごと口ごもった。

「これ……なんだけど」
「今、振舞って貰った『こーひー』のことか?」

 自分の手の中にある同じ物を、ちょいちょい、と指さしてから続ける。

「これがどうかしたのか?」

 スミルはそこでそっと銀次郎の方を横目で盗み見てから小さく囁きかけた。

「おやっさんも飲んだよね? あの……そのう……何ともないの? どこも変わった所はない?」
「お、お前っ!」

 ぎょっとしたゴードンは、スミルと銀次郎に代わる代わる視線を向けながら大声を上げた。それからしどろもどろになりながら弁解をし始めた。

「あ、あの、何だ。こいつが失礼なことを言っちまって……どうか気を悪くしないでくれ。根は良い若造なんだ。おい、スミル! お前も、ほら!」
「い、痛て痛て。す、済みません……でした」

 ゴードンのぶ厚い手で頭のてっぺんをぐいぐいと押さえつけられてしまってはスミルも頭を下げるしかなかった。そんなに禿げ頭が真っ赤に染まるほど力を込めなくても、と銀次郎はスミルという青年が少し気の毒に思えてしまう。

「おいおい。俺は気にしとらんから、その辺で」
「まったく!」

 銀次郎がなだめるように両手で何度も押さえるようなジェスチャーをしても、ゴードンの気持ちは治まり切っていない様子だった。腹立ちのままに大量の鼻息を吐き切ると、首にかけた手拭いのような白い布切れをしゅっと取り、いくぶん血の気が引いてピンク色にまで戻ってきた禿げ頭を拭き始める。

「無駄に抵抗しやがって。そんなに頭を下げるのが嫌か? 見ろ、大汗かいちまったじゃねえかよ!」
「ち、違うんだ、おやっさん! じゃなくて――」

 引き攣った顔でスミルは弁解し始めたのだが、



 ごうん――ごうん――。



「ああ! まずいまずい! 俺、行かないと!」

 今の荘厳な鐘の音は、この世界で時を告げる役目を果たしているようだ。
 それを耳にした途端、スミルはさあっと蒼褪あおざめた。

「あとで! あとでちゃんと説明するから――!」
「うるさいうるさい! とっとと行っちまえ!」

 聞く耳を持たないゴードンの態度に、一体どうしたものか、とスミルは一瞬迷う素振りを見せたが、仕事をすっぽかす訳にもいかない。きびすを返して走る。と、一瞬その足が止まり、飲み終わったカップを下げるためにカウンターから出てきた銀次郎を見た。

「あ、あの……。ご馳走ちそう様……でした」
「おう。また来るといい」

 余程よほど慌てているのだろう、時折ときおり転びそうにつんのめりながらも全速力で駆けていく。その姿が小さくなるまで扉の隣で見送っていた銀次郎は、店の中を振り返るとぴょこりと片眉を跳ね上げて口を開いた。

「良かったのかね?」
「何が言いたい?」

 ゴードンは落ち着かなげに視線を泳がせる。

「はン! あんな恩知らずの恥知らずのことなんざ、知ったことじゃない! 糞! あんたがせっかく振舞ってくれたモンにケチつけるような真似を!」

 そこまで言うと、ゴードンはまるでカウンターに頭突きでもするかのように勢いをつけて頭を下げた。

「本当に済まなかった。きっとあいつも悪気はないんだ。そう、多分あれは――」
「気にしとらん、そう言ったろう?」

 まだ言い足りなさそうなゴードンのセリフをさえぎるように銀次郎はゆっくりと言いつなぎ、空になっていたカップに再び珈琲を注いでやった。ゴードンの目の前に置いてあるのは、最初も今も、彼の立派な体格を写したかのようなでっぷりとしたマグカップだ。

「……まだ若いがいい奴なんだ、あいつは」

 それを分厚い両手で包み込むようにしてゴードンはぽつりと語り始めた。

「そこはどうか誤解してやらないで欲しい。頼む。ただ、経験が足らん所がな。若造だから」
「分かっとるよ。分かっとる」

 その気持ちには覚えがある。

「気に入っとるんだろう、あの若造のことを?」
「な、何を――!」

 ゴードンは我に返り、狼狽をあらわにしたが、

「……まったく勘の良い奴だ、あんたは。ああ、そうとも。俺はあいつを気に入ってる。好きなんだ。息子のようにな」

 銀次郎は目を細め、頷いた。

「俺とかみさんの間には、どう頑張っても子供が授からねえんだ。仲は良いんだぞ? 永年ずっと連れ添った仲だが、いまだに俺はシリルにぞっこんなんだ! シリルの方だって同じだとも! だがな、いくら毎晩せっせと励もうが、一向に子供をさずかるきざしすらねえと来た――」

 妻への思いを口にするゴードンは、子供のように無邪気で夢見るような表情を垣間見せた。それをそばで聴いている銀次郎の顔まで釣られて綻んでしまったくらいだ。

「あの……あのな。スミルは孤児なんだよ」

 だが、ゴードンの表情がその一言でくらかげった。

「ほら、もう一〇年も昔の話だが、隣のウェスタニアとの間で酷い戦争があったろう? あの頃、スミルたち一家はちょうど国境にあたるフィンレイの森で木こりをして生計を立ててたのさ。そこで起きた小競り合いの巻き添えにあって、屋根裏に逃げ込んだあいつ以外の家族は全員……」



 それ以上は言えなくなる。

 ぐび。
 手の中の珈琲を一口。



「……たまたまだ。俺は仕入れの帰りでそこを通りがかったんだよ。そりゃあもうひどい有様だった。そこであいつの泣き声を聞いた気がしてな? 運良くあいつを見つけてやることができたんだ。俺は初めっから自分の子供として引き取る気満々だったんだが、国の決まりってのがあるってんで、教会で育てることになっちまった。ほら、あそこの――」

 ゴードンが身振りで教えてくれたものの、この界隈――というよりこの世界にうとい銀次郎にはあまりピンとこなかった。

「今はもう、教会を出て一人で暮らしてるんだが。まあ、そういう経緯いきさつもあって、俺はあいつのことが放っておけんのさ。そういうことだ」
「良い話じゃねえか」

 銀次郎がそう心から応じると、急に気恥ずかしくなったようで、ゴードンはしばしもごもごと口ごもったかと思うと、出し抜けにこう切り出した。

「そ、それよりだ! あんた、ギンジローと言ったよな? なあ、ギンジロー、この『こーひー』という代物は一体何なんだ!? こいつは何処どこから持ち込んだ物かね? 俺だって料理人の端くれだ、なのにこんな物は今の今まで見たことも聞いたこともない! なあ、頼む! こいつの秘密をどうか――」

 次々と飛び出す質問に辟易しながらも、銀次郎はさっきシーノが口にした《一つの可能性》について、銀次郎流にアレンジしつつ淡々と説明してやることにした。


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