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第72話 その9「好きな子と鎌倉の町を散策しよう」(5) at 1995/5/31
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燃え尽き症候群――。
恐らく当時の僕を診察すれば、医師は疑いもなくそうだと特定しただろう。日々がつまならく思え、心身ともに疲れ果てていた――情緒的消耗感。同期との交流を避け、誘いを断り続けていた――脱人格化。家族を含めた周囲の人間との関わりに疎ましさを感じ、小テストの結果や講義の理解をないがしろにしていた――個人的達成感の低下。これらすべてがその裏付けだ。
そこから三年かけてなんとか回復し、希望する会社に無事就職して働き始めるわけだが、すでに書いたとおり僕はある出来事をきっかけに、再び前に進めなくなってしまったのである。
生来からそういう気質の持ち主だったのだとひとことで片づけてしまうことはたやすい。
だがそれは、外野で無関係の、本人以外の人間が軽々しく言っていいことではない。本人はそれこそ、周囲に気を遣わせたくないばかりにそう自嘲しているだけなのかもしれないのだ。心の奥底では、悶え、苦しみ、コントロールできない感情を必死でなだめ、鼓舞し、また抑えつけるようにして、一日、また一日を這いつくばるようにしてなんとか生きているのだ。
それでも僕たちは、この先いくつものゴールを目指し、そしてさらにその向こう側へと――。
「――ンタ君? ねえ、ケンタ君ってば!? ……だ、大丈夫?」
「あ……。ご、ごめんごめん」
さっきまでの晴れやかな笑顔を曇らせてしまったのはどうやら僕らしい。心配そうな表情でうつむいた僕の顔を覗き込むようにして見つめていた純美子がそう尋ねたので慌ててこたえた。
「だ、大丈夫、なんともないから。ちょっと考えごとしてただけさ」
「悩みごと? いいよっ、聞いてあげる」
「そ、そう? うーん……えっと……」
言っちゃえば? と言われるとは予想していなかったので、当たり障りのないものを探した。
「スミちゃんは、オトナになったら何になりたい?」
「ふふふっ。突然そんなことを聞くんだね」
さすがに話の展開に無理があったようだ。それでも純美子は大まじめな顔付きをしてしばし考え込むそぶりを見せてから、再び僕の目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「まだあたしたちは、半分コドモで半分オトナでしょ? いろんな可能性があると思うんだ」
「そう、だね」
「今の自分に何ができるのか、ってことを考えたらまだなんにもできないけれど、これからいろんなことを学んで、さまざまなことを考えて、ひとつひとつ決断していくんだ、って思うの」
「ふーん。なるほどなあ」
「今までのあたしなら、自分ができないことは、何かしらの言い訳を考えて、できなくたっていいや、って考えてた。でも、それってどこか違うと思うの。うまく説明できないけれど……」
やらない理由、か。
それもひとつの、長い人生を生きていく上での処世術には違いないけれど、確かに何か違う。
「オトナになってから、こんなはずじゃなかった、こうなるなんて思わなかった、そんな後悔をするような人生は嫌だなって思うの。チャンスは誰にでも平等に与えられる、そう思うから」
「そう……だね。そのとおり……なのかもしれない」
四〇歳の僕がわからなかったことを、中学生の純美子はすでにきちんと理解している。さすがだな、と思う一方で、『未来』の自分の不甲斐なさがつくづく身に染みた。
「……ありがとう、スミちゃん。ちょっとすっきりした」
「そ? だったらよかった!」
僕のまだいくぶん弱々しい微笑みを鼓舞するかのように純美子は大輪の花が咲き綻ぶかのごとき笑顔を見せてうなずいた。改めて、やっぱり勝てないな、と苦笑する羽目になった僕だ。
「ほら、あたしたちも五十嵐君のガイドを聴きに行かないと。次の場所へも移動しないとだし」
「うん。じゃあいこっか」
ごく自然に、どちらからともなく僕らは手を取り合い、三人の下へと急いだのだった。
恐らく当時の僕を診察すれば、医師は疑いもなくそうだと特定しただろう。日々がつまならく思え、心身ともに疲れ果てていた――情緒的消耗感。同期との交流を避け、誘いを断り続けていた――脱人格化。家族を含めた周囲の人間との関わりに疎ましさを感じ、小テストの結果や講義の理解をないがしろにしていた――個人的達成感の低下。これらすべてがその裏付けだ。
そこから三年かけてなんとか回復し、希望する会社に無事就職して働き始めるわけだが、すでに書いたとおり僕はある出来事をきっかけに、再び前に進めなくなってしまったのである。
生来からそういう気質の持ち主だったのだとひとことで片づけてしまうことはたやすい。
だがそれは、外野で無関係の、本人以外の人間が軽々しく言っていいことではない。本人はそれこそ、周囲に気を遣わせたくないばかりにそう自嘲しているだけなのかもしれないのだ。心の奥底では、悶え、苦しみ、コントロールできない感情を必死でなだめ、鼓舞し、また抑えつけるようにして、一日、また一日を這いつくばるようにしてなんとか生きているのだ。
それでも僕たちは、この先いくつものゴールを目指し、そしてさらにその向こう側へと――。
「――ンタ君? ねえ、ケンタ君ってば!? ……だ、大丈夫?」
「あ……。ご、ごめんごめん」
さっきまでの晴れやかな笑顔を曇らせてしまったのはどうやら僕らしい。心配そうな表情でうつむいた僕の顔を覗き込むようにして見つめていた純美子がそう尋ねたので慌ててこたえた。
「だ、大丈夫、なんともないから。ちょっと考えごとしてただけさ」
「悩みごと? いいよっ、聞いてあげる」
「そ、そう? うーん……えっと……」
言っちゃえば? と言われるとは予想していなかったので、当たり障りのないものを探した。
「スミちゃんは、オトナになったら何になりたい?」
「ふふふっ。突然そんなことを聞くんだね」
さすがに話の展開に無理があったようだ。それでも純美子は大まじめな顔付きをしてしばし考え込むそぶりを見せてから、再び僕の目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「まだあたしたちは、半分コドモで半分オトナでしょ? いろんな可能性があると思うんだ」
「そう、だね」
「今の自分に何ができるのか、ってことを考えたらまだなんにもできないけれど、これからいろんなことを学んで、さまざまなことを考えて、ひとつひとつ決断していくんだ、って思うの」
「ふーん。なるほどなあ」
「今までのあたしなら、自分ができないことは、何かしらの言い訳を考えて、できなくたっていいや、って考えてた。でも、それってどこか違うと思うの。うまく説明できないけれど……」
やらない理由、か。
それもひとつの、長い人生を生きていく上での処世術には違いないけれど、確かに何か違う。
「オトナになってから、こんなはずじゃなかった、こうなるなんて思わなかった、そんな後悔をするような人生は嫌だなって思うの。チャンスは誰にでも平等に与えられる、そう思うから」
「そう……だね。そのとおり……なのかもしれない」
四〇歳の僕がわからなかったことを、中学生の純美子はすでにきちんと理解している。さすがだな、と思う一方で、『未来』の自分の不甲斐なさがつくづく身に染みた。
「……ありがとう、スミちゃん。ちょっとすっきりした」
「そ? だったらよかった!」
僕のまだいくぶん弱々しい微笑みを鼓舞するかのように純美子は大輪の花が咲き綻ぶかのごとき笑顔を見せてうなずいた。改めて、やっぱり勝てないな、と苦笑する羽目になった僕だ。
「ほら、あたしたちも五十嵐君のガイドを聴きに行かないと。次の場所へも移動しないとだし」
「うん。じゃあいこっか」
ごく自然に、どちらからともなく僕らは手を取り合い、三人の下へと急いだのだった。
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