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第四十三話 どこか似ている

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 ちり――。





 左の頬が熱い。
 ひりひりと熱風に焼かれたようだ。


「………………なンでだよ」


 誰かが言った。
 あたしにはそれが誰だかわかっていた。


「どうしてだろうね? あたしにもわかんない。あのね? ……何だか、タウロ、凄い綺麗でさ、すっかり見惚れちゃってちっとも動けなかったんだ――」
「そうじゃねえ!!」


 タウロの両方の角がちょうどあたしの顔を挟むように、あと少しで触れる直前で止まっていた。意地でも目を閉じなかったあたしは全身に瞬間的に物凄い突風を浴びせかけられ、あまりの風圧に顔中の皮膚がびゅるびゅる! って芸人の罰ゲームよろしく面白ひどいことになっていたのだけれど、それでもまばたき一つできなかった。





 ――できなかった?

 しなかったのかも、と恰好つけて言ってみる。





「……なンで避けなかったンだよ?」


 タウロは床を見つめた前かがみの姿勢のままでぼそりと低くつぶやいた。


「俺が止めなきゃ、てめぇはおっ死んでたンだぞ? 肉屋の店先のミンチみてぇになってな。馬鹿か、てめぇは?」
「うーん……頭良くない、くらいにしてくれる?」


 さすがに面と向かって、馬鹿、はひどい。


「じゃあ、逆に聞かせて? どうしてタウロは止めてくれたの?」


 タウロは答えなかった。


「あの時だってそうだよ。どうしてタウロは助けてくれたの?」
「くそっ!」


 タウロは鬱陶しそうに吐き捨てると顔を上げた。
 なんだかその表情は、苦しげに、悲しげに見えた。


「俺がガキだからだよ! 真の悪だったらこんなことしねえ! 見捨てればいい! 滅茶苦茶にしてやればいいンだ! だから、あのじじいは……中途半端で覚悟の足りねえ俺に、無闇やたらとちょっかい出してきたンだろうが!」


 苛立ったタウロは羽虫を追い払うように手を振って、くるり、と背を向ける。


「俺に、下らねえちっぽけな正義感があるのが気に喰わなかったンだろうが! つい、余計な手を出しちまう、そんな悪の風上にも置けねえ俺が――大っ嫌いだったんだろうが!?」


 背を向けたまま、タウロが、ふ、と短く息を吐いた。


「……俺ばっかだ。あのじじいが最後の最後までしつこくちょっかい出してたのは。他の誰でもなく、この俺だった。外の世界でやることもなくぶらぶらしてるところを、あのじじいに見つかっちまってな。もちろン、VRゴーグルも指輪もない、どこにでもいるお節介焼きのじじいの姿でだ。他の奴らは知りもしねえ。だがこの俺だけは、あのじじいがアーク・ダイオーンだって知ってたのさ」
「そう……だったんだね」
「ああ」


 もう一度長々と溜息を吐き出してようやく振り返ったタウロの顔には、笑っているような泣いているような複雑な感情が浮かび上がっていた。


「そうやって何度も顔合わせているうちに、突然じじいがこう言ったンだ――もうすぐ会えなくなっちまうからよ、ってな。……そン時だ。急にこう、胸の奥が、きゅっ、となっちまって、言いたいことが何一つ言えなくなっちまって……むしゃくしゃして、いらいらして、だからつい、俺はこう言っちまった――もう拾われた頃のガキじゃねえ、こンな風にいちいち構ってもらわなくったって俺一人で歩けるから放っといてくれ、ってな」


 タウロの台詞に、あたしははっとする。


(――あたし、もう中学生だよ? それに、女の子だし……もうああいうの嫌い)


 きっと銀じいはその時、あたしに見せたのと同じ寂しそうな表情を浮かべていたんだろうな。


「まさか……死ンじまうだなンてな。そン時の俺は、そンなこと考えもしてなかった」


 葬式にも顔出そうとしたンだぜ?――外の世界で偶然、町内会の掲示板に貼り出されているのを目にして、気がついた時にはウチの前に立っていたんだそうだ。でも、さすがにこんな素性の怪しい奴が押しかけたら気味悪がられるだろうと、結局中に入るのは諦めたらしい。

 タウロはそう言ってから口元を笑みらしき形に歪めて、声にも出して、はっ、と笑った。


「そしたらだ……歩き方がわかンなくなっちまったンだよ。さんざん偉そうなことほざいといて、何をしたらいいのかわかンなくなっちまった。悪ってなンだ? どうすれば真の悪になれる? そンなことばかりぐるぐる考えているうちにてめえが現れて、二代目悪の首領になるだなンて宣言ぶちかまされて、とうとう俺は何もかもがわかンなくなっちまったンだ。……だからだ、だから俺は《悪の掟ヴィラン・ルールズ》を出る決心をした」
「やっぱり……あたしのせい?」
「はっ! そうじゃねえ。思い上がンな」


 タウロは大袈裟に肩をすくめてみせた。


「俺は、俺の考える悪とは何か? を見つけなきゃなンねえと思っただけさ。だから、出て行くことにしただけだ。てめえじゃねえ。てめえなンかのせいじゃねえ。俺は腑抜けた自分を叩き直して、俺だけが信じる『悪』を貫いて、じじいが付けた中途半端な間抜けた名前なンかじゃなく、俺だけの名前――ゴールデン・タウロスを名乗るにふさわしい完璧な『悪』にならなきゃなンねえんだ、と心に誓ったのさ」
「でもさ……きっと銀じいは、タウロにはタウロって名前が一番似合うって思ったんだよ?」
「はン! 足りねえからだろ?」
「違うんじゃない?」
「何が違うンだよ!? 俺が一番わかってンだ! だからこんな名前を付けて――」





 その時。
 あたしの頭に天啓のように閃きが舞い降りた。





「そっか……そういうことか……!」
「あン?」
「やっとわかったんだよ。銀じいがなんで『ゴールデン・タウロ』って名づけたか、ってことがね」


 いぶかし気に顔をしかめるタウロ。
 あたしはその前にこう尋ねた。


「おっと。正解発表の前に……銀じいがずっと抱えてたコンプレックスって、何だか知ってたりする?」


 タウロの表情は唐突で方向違いな質問に白紙になった。
 後ろに控える面々の顔を、一人一人順番に見つめてみたけれど、誰もが首を傾げるばかりだ。


「……あのね?」


 振り返ったあたしはこっそりタウロだけに耳打ちした。


「銀じいって、長男なのに銀次郎って名前だったの。それが何より嫌でたまらなかったって言ってたんだ、ずっと」
「べ、別にいいじゃねえか」
「良くないでしょ!? 銀は、金の次で二番目。次郎は、太郎の次で二番目。二番目中の二番目って名前なんだよ? そりゃ嫌にもなるでしょ?」


 銀じいのお父さん――ひいおじいちゃんは、一番良い名前を付けちまうと縁起が悪い、っていうゲン担ぎのつもりだったんだそうだ。

 でも、銀じいはそれが嫌だった。
 本当は金太郎が良かった――ずっとそう言ってた。





 そして、銀じいのネーミングセンスは最悪。
 それを知ってるのはあたしだけ。





「金太郎ってのはね、銀じいの憧れの、一番なりたかった自分の名前――象徴なんだ。いっとう大好きな名前だったんだ。だから……大好きだったあなたに付けたんだよ、きっと」





 沈黙。





 そうしてタウロは、今までみせたこともないような油断しきったゆるんだ表情をしたかと思うと、


「……くくく! ははははははははははははっ!」


 いきなり大声で笑い始めた。


「くっだらねぇ! 金だから『ゴールデン』で、太郎をもじって『タウロ』かよ……あのじじい……!」


 涙を浮かべながら。
 でも、すっきりと晴れ晴れしい顔をしていた。


「これ、他のみんなには秘密だよ?」
「い、言わねえよ! 言えるわけねぇだろうが!」


 一しきり笑い終えたタウロは、目元に浮いた涙を拳で、ぐい、と拭い去ると芝居がかった口調で声を張り上げた。


「あー、くそっ! 止めだ止め! 馬っ鹿馬鹿しくなっちまったぜ! ついでに……てめぇとの根競べも俺の負けみてぇだからな。今しばらくは、てめぇを二代目アーク・ダイオーンと認めてやる!」


 タウロの後ろで成り行きを見守っていた《改革派》の残りのメンバーはたちまち、ぎょっ、とした表情をしたが、鋭い目つきで一瞥されてしまうと苦笑しながら肩をすくめるだけだった。


「あ……ありがとう、タウロ!」
「今ンところは、つってんだろ、浮かれンな」
「いいよ、うん! それでいい!」


 あたしはぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。



 正直に言うと、内部抗争を解決できたからじゃなかった。
 タウロとの距離が少しでも縮まった――そう感じたからだ。



「じゃ、手始めに何をすりゃあいいンだ? あぁ、半人前!?」
「半人前、は余計ですーっ!」


 べー! と舌を突き出しつつ、





 あたしは指輪を嵌め直し、





《あたし》は引っ込んで《私》に戻る。





「では、タウロよ。……まずは手始めに、今まさに死に瀕している哀れなこの世界を救ってやる、というのはどうかな? しかも、悪の中の悪を名乗る、我々《悪の掟》が、だ」


 にやり、とした笑いが交差する。


「……はン。面白れぇ」


 タウロは不敵に鼻を鳴らしてみせた。


「正義を振りかざす腰抜けの、間抜けどもにゃできねぇことを、この俺たちがやってやろうじゃンか!」
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