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第六十話 勇者、そして父リヒト・ゴットフラム
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「ええと……一応、お尋ねしたいのだが、貴女が世界を混沌に陥れようとする黒龍なのか?」
「いいえ――どうしてそう思われたのです?」
リヒトの目の前に現れた女はそうこたえ、さもおかしそうにくすくすと笑ったのだった。
美しい女性だ。髪は青白い銀糸のような輝きで、すらりとした身体に沿ってゆるゆると腰あたりまで伸びていた。だが、人間ではないことにすぐに気づく。彼女の耳のあたりから龍のヒレのようなものが生え、穏やかな心中を表すかのように吸って吐くよう静かにはためいている。
「あ――し、失礼!」
突き出していた大剣を引っ込めて鞘に納めると、リヒトはばつが悪い思いを誤魔化そうと、兜を脱ぎ去りはにかんだような笑みを浮かべた素顔を晒した。そして礼儀正しく会釈する。
「とんだ人違いをしてしまった。無礼な真似をしてしまって、本当に申し訳ない……」
「よいのですよ、勇者様」
「………………なぜ私が勇者だと?」
「このような場所までひとりで訪ね来る人間なぞ、そうはおりませんもの。あの凍てつく山脈を越えて、はるばるここまで来たのでしょう? 驚かれたのでは? 今度は蒸し焼きか、って」
「ははっ! たしかに」
前人未到の最北の地まで辿り着いたリヒトは、天に渦巻く暗雲と、草木も生えない不毛の荒野を見て、この世の終わりもかくやと思ったものだ。山々は火を噴き、雷鳴と轟音が耳を聾するこの世の地獄のごとき場所には、人間はおろか、当の魔族すらいる訳がないと思いさえした。
あまりの暑さに疲弊しきったリヒトが、ひとときの涼を得んとやってきたのがこの洞窟だった。
「さすがにもう限界だ。見苦しいところを見せてしまうが、鎧を脱いでも構わないだろうか」
「……後ろを向いていましょうか? ふふふ――」
「か、からかうのはよしてくれ!」
急いで背を向けたものの、彼女の視線を感じて、思わず耳が熱くなる。上半身に着けていた鎧をすっかり脱いでしまい、ふう、とようやく安堵の息を漏らした頃には気持ちもいくぶん落ち着きを取り戻していた。
「……凄い傷ね?」
と、彼女の声が耳元近くでそっと囁いた――ように感じた。ふと、背筋を、つつ、と撫でられて、くすぐったさに身悶えしそうになるのを堪える。
「ん? あ――ああ。元々不器用なもので、思いどおりに剣を扱えるようになったのもついこの間なのさ。この傷は、腕前の上達の証なんだ。い、いや、しかし……なんだか恥ずかしいな」
「恥じることはありませんよ。むしろ、誇るべきです」
……ではなくて。
彼女の視線は、もはや比喩抜きで熱く感じられるほどだった。
「い、いや、そうではなく……そうしげしげと見つめられると――」
「あら、まあ! ……ふふっ、そちらも誇ってもいいと思いますよ」
「あ、ありがとう。一応、礼は言っておくよ、ご婦人」
「……ご婦人だなんて呼ばれるほど歳ではありません」
突然、彼女の短く強い鼻息が首筋にかかった。どうやら怒らせてしまったらしい。
弱り切ったリヒトは、しどろもどろになりながらこう尋ねた。
「しっ! 失礼! ……では、なんと?」
「エリナリーゼ、そう呼んでくださる?」
良い名前だ。そして甘い香りと響きだった。
リヒトは微笑みを浮かべ、振り返ってこう名乗った――。
「良い名前だ! 僕はリヒト、リヒト・ゴットフラム!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「くくくっ……! あの方も、さぞや驚かれただろうな! まさかドラゴン族が、人の姿を模すことができようとは思っていなかったに違いない! しかも、振り返ったらドラゴン、だ!」
ネェロは柄にもなく、くすくすと忍び笑いを溢し、身を折るようにして笑っている。そうしてひとしきり笑いたてたあと、ふ、と溜息をついて再び話しはじめた。
「エリナリーゼはその後、勇者リヒトにこう願った――すべての龍を縛りつける者、ドラゴンを統べる黒龍、ネェロ・ドラゴニスを倒す手助けをして欲しい、と。しかし、彼は首を振った」
「え……助けてくれなかった、と?」
「その逆だ、新米勇者めが」
ネェロは、ふふん、と鼻を鳴らした。
お前ごときではそうはなるまい、と言いたげだ。
「彼の方は、エリナリーゼ自らが手を汚すことを是としなかった。彼ら、平穏を望む龍たちが、その志を違えて手を下すようなことがあれば、いずれまた、俺の代わりとなった誰かがそれをはるかに上回る力でもって彼らを制するだろう――そう諭して、単身俺の下へとやって来た」
ごくり、と俺は唾を飲む。
人を模した仮の姿でさえ、ネェロはこの場の誰よりも強いのだろう。それが分かったからだ。
ネェロはその時を思い出し、実に楽しげで愉快そうな笑みを浮かべてみせた。
「俺はもちろんこう思った――馬鹿で愚かな人間だ、脆弱で矮小なヒトごときが、この俺様相手に、たったひとりでのこのこ現れるとは、とな? だが、その考えは浅はかだったとすぐにも分かった、思い知らされたのだ、嫌と言うほどな――」
ぎり、と歯が軋む音がした。
「俺たちの一対一の戦いは、互いに一歩も退かない状態で七日七晩続いた。もうその頃には、俺様の不滅の黒炎ですらくすぶり消えてしまった。研ぎ澄まされた爪の一撃が防がれる。黒翼のはばたきが生み出す無数の竜巻ですら受け流される。大地を震わす咆哮すら虚しく響いた」
今まさにこの場で目の前で戦っているかのようなネェロの熱のこもった言葉の数々に、傍聴席に座る誰もが、ごくり、と唾を飲む。
「その時だ!」
そこで最後にネェロは、びゅん! と手刀を振った。
「きっと奴めも疲れ切っているに違いない、そう考えていた俺様の読みは見事なまでに裏切られたのだ! あっ――という間もなかった。絶え絶えになった俺様の絞り出した黒き炎のひと息が散り散りに消えていくのに合わせて、奴は流星のごとく一直線に――!」
「そして……どうなったんです?」
「気づいた時には、こうだ」
ネェロは再び、俺の喉元に背から、すちゃり、と抜き放った大剣を突き付ける。
しかし、それは殺気のないただの構えに過ぎなかった。
「観念した俺様は告げた――お前の勝ちだ、ひと思いにやるがいい、と。しかし、あの方はそうしなかった。代わりにこう言ったよ――僕の勝ちだね、でも、もう争いは終わりにしよう、と。そうして敗北した俺様は、あの方に終生の忠誠を誓い、友となり、配下となったワケだ」
「それで《天空の魔王》の座を降り、代行者になった、そういうことですか?」
「簡単に言えば、な?」
こたえたネェロは、頷きはしたものの、それほど単純でも簡単でもない事情があるようだ。
「俺たちドラゴン族は、夫婦の契りを交わす際に、互いの血を飲み、交わらせ、受け入れる風習がある。その意味においては、あの方の半分はドラゴンであると言えるだろう。しかし、我らの真の姿――ドラゴンの姿に変じることまではできなかった。他のことはできても、だ」
つまり。
勇者リヒト・ゴットフラムは、エリナの母である光龍、エリナリーゼ=カリタス=ヅマィと婚姻し、血の契りを交わして、半人半龍の身になったのだ。しかしそれでも、ドラゴン族を率いる者としては、圧倒的に足りないものがある。人の身でありながら、ドラゴンとしての多くの力を得たといっても、ドラゴンそのものにはどうしてもなれなかったのだ。
だからこそ――。
「絶対の畏怖をこの世界に示すには、その姿こそが重要だ。巨大で、圧倒的で、何人をも寄せ付けぬその偉大なる姿が。だから俺様は、あの方の代わりにその象徴である続けることにした」
「何事にも揺るがぬ忠誠と……未来永劫変わらぬ友情の証として」
「そうだ。これが俺様の忠誠と友情を示す道」
俺の口から自然と漏れ出たセリフをネェロは繰り返し、深く頷いた。そして、そこでようやく傍聴人席最前列に居並ぶ《六魔王》を見上げてネェロは言った。
「代行者というこの身に、恥ずべきことなどほんのひと欠片もない。むしろ、誇りに思う」
「いいえ――どうしてそう思われたのです?」
リヒトの目の前に現れた女はそうこたえ、さもおかしそうにくすくすと笑ったのだった。
美しい女性だ。髪は青白い銀糸のような輝きで、すらりとした身体に沿ってゆるゆると腰あたりまで伸びていた。だが、人間ではないことにすぐに気づく。彼女の耳のあたりから龍のヒレのようなものが生え、穏やかな心中を表すかのように吸って吐くよう静かにはためいている。
「あ――し、失礼!」
突き出していた大剣を引っ込めて鞘に納めると、リヒトはばつが悪い思いを誤魔化そうと、兜を脱ぎ去りはにかんだような笑みを浮かべた素顔を晒した。そして礼儀正しく会釈する。
「とんだ人違いをしてしまった。無礼な真似をしてしまって、本当に申し訳ない……」
「よいのですよ、勇者様」
「………………なぜ私が勇者だと?」
「このような場所までひとりで訪ね来る人間なぞ、そうはおりませんもの。あの凍てつく山脈を越えて、はるばるここまで来たのでしょう? 驚かれたのでは? 今度は蒸し焼きか、って」
「ははっ! たしかに」
前人未到の最北の地まで辿り着いたリヒトは、天に渦巻く暗雲と、草木も生えない不毛の荒野を見て、この世の終わりもかくやと思ったものだ。山々は火を噴き、雷鳴と轟音が耳を聾するこの世の地獄のごとき場所には、人間はおろか、当の魔族すらいる訳がないと思いさえした。
あまりの暑さに疲弊しきったリヒトが、ひとときの涼を得んとやってきたのがこの洞窟だった。
「さすがにもう限界だ。見苦しいところを見せてしまうが、鎧を脱いでも構わないだろうか」
「……後ろを向いていましょうか? ふふふ――」
「か、からかうのはよしてくれ!」
急いで背を向けたものの、彼女の視線を感じて、思わず耳が熱くなる。上半身に着けていた鎧をすっかり脱いでしまい、ふう、とようやく安堵の息を漏らした頃には気持ちもいくぶん落ち着きを取り戻していた。
「……凄い傷ね?」
と、彼女の声が耳元近くでそっと囁いた――ように感じた。ふと、背筋を、つつ、と撫でられて、くすぐったさに身悶えしそうになるのを堪える。
「ん? あ――ああ。元々不器用なもので、思いどおりに剣を扱えるようになったのもついこの間なのさ。この傷は、腕前の上達の証なんだ。い、いや、しかし……なんだか恥ずかしいな」
「恥じることはありませんよ。むしろ、誇るべきです」
……ではなくて。
彼女の視線は、もはや比喩抜きで熱く感じられるほどだった。
「い、いや、そうではなく……そうしげしげと見つめられると――」
「あら、まあ! ……ふふっ、そちらも誇ってもいいと思いますよ」
「あ、ありがとう。一応、礼は言っておくよ、ご婦人」
「……ご婦人だなんて呼ばれるほど歳ではありません」
突然、彼女の短く強い鼻息が首筋にかかった。どうやら怒らせてしまったらしい。
弱り切ったリヒトは、しどろもどろになりながらこう尋ねた。
「しっ! 失礼! ……では、なんと?」
「エリナリーゼ、そう呼んでくださる?」
良い名前だ。そして甘い香りと響きだった。
リヒトは微笑みを浮かべ、振り返ってこう名乗った――。
「良い名前だ! 僕はリヒト、リヒト・ゴットフラム!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「くくくっ……! あの方も、さぞや驚かれただろうな! まさかドラゴン族が、人の姿を模すことができようとは思っていなかったに違いない! しかも、振り返ったらドラゴン、だ!」
ネェロは柄にもなく、くすくすと忍び笑いを溢し、身を折るようにして笑っている。そうしてひとしきり笑いたてたあと、ふ、と溜息をついて再び話しはじめた。
「エリナリーゼはその後、勇者リヒトにこう願った――すべての龍を縛りつける者、ドラゴンを統べる黒龍、ネェロ・ドラゴニスを倒す手助けをして欲しい、と。しかし、彼は首を振った」
「え……助けてくれなかった、と?」
「その逆だ、新米勇者めが」
ネェロは、ふふん、と鼻を鳴らした。
お前ごときではそうはなるまい、と言いたげだ。
「彼の方は、エリナリーゼ自らが手を汚すことを是としなかった。彼ら、平穏を望む龍たちが、その志を違えて手を下すようなことがあれば、いずれまた、俺の代わりとなった誰かがそれをはるかに上回る力でもって彼らを制するだろう――そう諭して、単身俺の下へとやって来た」
ごくり、と俺は唾を飲む。
人を模した仮の姿でさえ、ネェロはこの場の誰よりも強いのだろう。それが分かったからだ。
ネェロはその時を思い出し、実に楽しげで愉快そうな笑みを浮かべてみせた。
「俺はもちろんこう思った――馬鹿で愚かな人間だ、脆弱で矮小なヒトごときが、この俺様相手に、たったひとりでのこのこ現れるとは、とな? だが、その考えは浅はかだったとすぐにも分かった、思い知らされたのだ、嫌と言うほどな――」
ぎり、と歯が軋む音がした。
「俺たちの一対一の戦いは、互いに一歩も退かない状態で七日七晩続いた。もうその頃には、俺様の不滅の黒炎ですらくすぶり消えてしまった。研ぎ澄まされた爪の一撃が防がれる。黒翼のはばたきが生み出す無数の竜巻ですら受け流される。大地を震わす咆哮すら虚しく響いた」
今まさにこの場で目の前で戦っているかのようなネェロの熱のこもった言葉の数々に、傍聴席に座る誰もが、ごくり、と唾を飲む。
「その時だ!」
そこで最後にネェロは、びゅん! と手刀を振った。
「きっと奴めも疲れ切っているに違いない、そう考えていた俺様の読みは見事なまでに裏切られたのだ! あっ――という間もなかった。絶え絶えになった俺様の絞り出した黒き炎のひと息が散り散りに消えていくのに合わせて、奴は流星のごとく一直線に――!」
「そして……どうなったんです?」
「気づいた時には、こうだ」
ネェロは再び、俺の喉元に背から、すちゃり、と抜き放った大剣を突き付ける。
しかし、それは殺気のないただの構えに過ぎなかった。
「観念した俺様は告げた――お前の勝ちだ、ひと思いにやるがいい、と。しかし、あの方はそうしなかった。代わりにこう言ったよ――僕の勝ちだね、でも、もう争いは終わりにしよう、と。そうして敗北した俺様は、あの方に終生の忠誠を誓い、友となり、配下となったワケだ」
「それで《天空の魔王》の座を降り、代行者になった、そういうことですか?」
「簡単に言えば、な?」
こたえたネェロは、頷きはしたものの、それほど単純でも簡単でもない事情があるようだ。
「俺たちドラゴン族は、夫婦の契りを交わす際に、互いの血を飲み、交わらせ、受け入れる風習がある。その意味においては、あの方の半分はドラゴンであると言えるだろう。しかし、我らの真の姿――ドラゴンの姿に変じることまではできなかった。他のことはできても、だ」
つまり。
勇者リヒト・ゴットフラムは、エリナの母である光龍、エリナリーゼ=カリタス=ヅマィと婚姻し、血の契りを交わして、半人半龍の身になったのだ。しかしそれでも、ドラゴン族を率いる者としては、圧倒的に足りないものがある。人の身でありながら、ドラゴンとしての多くの力を得たといっても、ドラゴンそのものにはどうしてもなれなかったのだ。
だからこそ――。
「絶対の畏怖をこの世界に示すには、その姿こそが重要だ。巨大で、圧倒的で、何人をも寄せ付けぬその偉大なる姿が。だから俺様は、あの方の代わりにその象徴である続けることにした」
「何事にも揺るがぬ忠誠と……未来永劫変わらぬ友情の証として」
「そうだ。これが俺様の忠誠と友情を示す道」
俺の口から自然と漏れ出たセリフをネェロは繰り返し、深く頷いた。そして、そこでようやく傍聴人席最前列に居並ぶ《六魔王》を見上げてネェロは言った。
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