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歌の国『オルカストラ』編
VSアエル
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僕が村に来てから五日目の昼前。遠くに大きな暗雲を視認できる晴天の中、僕は一昨日の晩に約束していた、アエルさんの『剣術指南』を受けていた。
「はあッ!」
「まだまだ!」
腕をしならせる独特の剣術を、模擬戦形式で叩き込まれていた僕は、始めてから三時間が経過してもなお、手加減をしまくっているアエルさんに一撃も与えられず、額に玉のような汗を滲ませてしまっていた。僕が繰り出す渾身の上段斬りを、当たるスレスレの所で身体を斜めにして回避したアエルさんは、僕のガラ空きの手首に木刀を打ち付ける。
「ッ! ガアアッ!」
「なんと!」
その痛烈な一撃を歯を食いしばり、根性で耐えきって僕は、驚愕で目を見開くアエルさんに横薙ぎの斬撃を放つ。空気を切り裂きながら右脇腹に向けて猛進する、魔獣すら悲鳴を上げてしまうほどの威力が込められた薙ぎ払いを、アエルさんは冷静に剣を縦に構え、真正面から受け止めた。
「ぬうっ!」
僕の横薙ぎの攻撃を、長年の研鑽で熟達した防御で受け止めたアエルさんは、剣に込められた絶大な威力を殺しきることができず、身体を宙に浮かせてしまう。それをカッと見開いた目で認めた僕は、薙ぎ払いの余韻を使って肘を引き、剣突を繰り出すために背後に力を溜め込む。まるで弓を引くような格好を取った後、瞬きする間に力の用意を済ませて、大型魔獣の頭蓋すら容易に貫く一撃を解放した。
「フゥッ!」
唸りを上げる高速の剣突が、宙に身を躍らせて、地に足つかないアエルさんの胸部に向けて爆進する。しかし——
「——甘いッ!」
僕の全身全霊を持って撃ち放たれた剣先が、まるで『上り坂』かのように斜に構えられた剣の側面に到達した——その時。視界で映し出された『信じられない光景』を目の当たりにした僕は、愕然と目を見開いてしまった。
「————」
まるで示し合わせていたかのように至極滑らかに、僕が放った剣先が、アエルさんが作り出した『剣の道』を火花を散らしながら駆け上がっていく。宙に浮いた状態で地を蹴って移動することができなかった彼に回避行動という手は残されておらず、否応なく残された防御を選択せざる終えなかった彼は——研鑽に研鑽を重ねた、長年、宝を守るためだけに積み重ねられた卓越した戦闘経験が、今この時、確かに僕の目を焼いた。
「はああッッッ!」
「ズゥ——ッ!?」
あまりの絶技に魅入られて時を止めてしまっていた僕は、前方から迫り来る一撃に防御を間に合わせることができず、アエルさんが放った上段斬りを右肩に直撃させてしまった。腕を撓らせて急加速する独特な剣技を使った剣撃を防御無しで食らってしまった僕は、肩から全身に走る衝撃と痛覚によって右手に持っていた、安全のために刃が潰されている鉄剣を地面に落としてしまう。
ここで勝負を決した僕とアエルさんは、お互いに大粒の汗を散らしながら顔を見合わせた。肩を左手で押さえながら膝をついていた僕は、二足で立つアエルさんを見上げるように持ち上げていた首を折り、自身の負けを宣言する。
「参りました……」
「剣術素人にしては、なかなかでありましたな」
その言葉を、勝利の笑みを浮かべているアエルさんに向けて吐いた僕は、荒れてしまわないように力尽くで整えていた呼吸を盛大に崩し、息を切らしながら勢いよく地面に尻を投げて座り込んだ。かれこれ三時間以上、僕は守勢に回りっぱなしだったアエルさんに対して攻勢に出続けていたにも関わらず、今さっきのように、息を呑んでしまうような『技』を使われて往なされ続けてしまい、無意識の内に積み上げられていたのだろう『戦いの自信』を木っ端微塵にして無くしてしまった。座り込んだまま休憩に入った僕は、冷えた麦茶を用意してくれたマキネさんに礼を伝えて受け取り、それを「ゴクゴク」と喉を鳴らしながら一気に飲み干す。僕の前に腰を下ろしたアエルさんも受け取り、身体から汗として出ていった水分を補っていた。息を整えている最中に申し訳ないのだけれど、僕はウズウズとした好奇心に促されるまま、彼が使っていた腕を撓らせる『独特の剣術』の話をする。
「あの。アエルさんが使っていた、ボールを投げる時みたいな感じの、急加速する剣——あれは何なんですか?」
「ああ、それは——」
僕が投げかけた率直な疑問を、コップ一杯の麦茶を飲み切ってから耳に入れたアエルさんは、その話を聞かれて嬉しそうな笑みを浮かべながら、僕の問い掛けに快く答えてくれた。
曰く、朝から続けていた、模擬戦形式の稽古中、彼が常時使用していた、腕の『しなり』を利用した独特な剣術の名は『ウォルスルス柔剣術』というらしい。その剣術は世界的にも有名な流派のものなのだそうだ。案の定『世界的』にとか言われているにも関わらず、今日初めて知ったんだが——という、他人に見せたくない無知を晒してしまっていた僕に、アエルさんは子供に物を教えるような感じで、懇切丁寧に『柔剣術』の詳細を教えてくれた。
何でも、柔剣術の開祖である『ウォルスルスさん』は獣人の方だったそうで、華奢な肉体を持つ獣人は、多種多様な人種の中でも『比較的に非力』な方に入ってしまっているらしく、魔獣退治などの戦闘面でかなり苦労していたのだそうだ。それで自身の膂力では、敵の硬すぎる肉と骨を立てないという理由から編み出されたのが、腕のしなりを利用した独特の剣技から放たれる、ワンテンポ遅れて急加速する『高速斬撃』で、敵の首などの急所を正確に狙い斬り、肉付きの薄い関節や手足の腱などを斬り裂くことを主とした『柔剣術』なのだそうだ。この剣術は怪物染みた膂力を必要としておらず、身体の柔軟性を使った『剣速』を重視しているため、比較的容易に習得できるという点で優れており、この流派の門戸を叩く人間は数多いのだという。
「なるほどー。僕も使えるようになれますかね?」
その話を聞き終えた僕が、話し終えたアエルさんに聞くと、彼はあまりいい顔はせず、正直な結論を僕に述べた。
「今まで打ち合ってみて分かりましたが、ソラさんは型に嵌らない方が力を発揮できる『天才型』だと思いました。貴方の『我流剣術』は、私なんかの技を与える必要もないほど様になっていた。ですから、それを崩してまで、わざわざ柔剣術を扱う必要はないでしょうな」
嬉しそうな笑顔のまま、模擬戦を繰り返して行き着いた結論を語るアエルさんに、お世辞にも『天才型』と言われてしまった僕は照れ隠しの苦笑を浮かべて頭を掻いた。
「まあ、貴方が柔剣を使えるようになる必要はないと思いますが、対策という点では、この打ち合いにも意味はあるでしょう。休憩が終わったらもう一戦、どうですかな?」
「はい! お願いします!」
僕は、アエルさんとマキネさんの三人しか居ない屋敷の庭で、気合の入った張りのある声を上げる、それから数分ほどして休憩を終えた僕達は、お互いに剣を構えて、後退してなるものかという意志を共にし、足腰に全力の力を込めた仁王立ちを取る。稽古というには、あまりにも力の入りすぎている、手加減なし——本気の『戦闘』を開始する。
「行きます!」
「いつでも来なさい」
その言葉が合図となって、僕ははち切れんばかりに右足に溜め込まれていた力を一気に解き放つ。薄緑が一面に敷き詰められている美しい芝生は、人外の脚力を全開にした僕の踏み込みに耐え切ることができず、小規模な罅割れを作ってしまっていた。そして、僕が思いっきり地を蹴ったのと同時に、小さい爆砕音が辺りに鳴り渡り、蹴り飛ばされた土塊が後方に勢いよく飛び散る。常軌を逸した凄まじい加速を持って『前方に飛んだ』僕に対し、応戦の意を確固としていたアエルさんはカッと目を見開き、右手に持った剣を肩を回して背後に溜めた。そして物を投擲をするかのように振りかぶった姿勢を取った彼は、左足を軸にして、一直線に突進してくる僕に狙いを定め、高速の上段斬りを繰り出した——!!
「ヌウゥンッッ!!」
前傾姿勢を取っていた僕の視界に迫り来る、柔軟すぎる肩を余すことなく使った、撓らせた腕から放たれる急加速する斬撃に対して僕は目をカッ開き、彼が一瞬で振り下ろすだろう『剣の刃』を狙った、渾身の剣突を放つ——!!
「はああああッ!!」
お互いに背に溜められた一撃を衝突させる。一秒でも長く力を溜め込まれたアエルさんの一撃の方が、この勝負では有利かと思われた中、心から尊敬している友の『鬼拳』を真似して編み出された僕の剣突が、長年の研鑽を積んできた彼の一撃を上回り、模擬戦が行われてから初めてとなる『先制』をもぎ取った!
「——なんと!?」
一撃の勝負に押し負けたアエルさんは、身を襲う甚だしい威力を殺すために後方に向かって足を進ませる。僕はそれを彼の硬すぎる防御を崩すための隙だと即断し、畳み掛けるように肉薄。縦横斜突——瞬く間に複数の斬撃を繰り出し、目の前にいる強者に一撃を与えようと力を尽くした。しかし、その程度の些細な隙を、素人同然の相手に突かせるような弱者ではないアエルは、悲鳴を上げる全身の力を『ビキビキ』という不快音と共に強引に引き出して、怒涛の勢いで自身に向かって迫り来る、慄いてしまうほどの強速斬撃を防御し続けた。
「——ッ!」
アエルさんの防御が硬すぎる! こんなに攻め立てているのに一撃を与える隙が見当たらない! 柔剣術以前に彼が積みかさねてきた難攻不落の『防御技術』が、守るためだけに磨き抜かれてきた彼の軌跡が、戦闘素人の若輩である僕なんかとは隔絶してしまっている! どうすれば、これが超えられる!? どうやれば、僕は彼を超えて——一歩先に行けるんだ!?
「甘いッッ!」
「——ッ!?」
縦横無尽に攻め立てていた『僕の隙』を正確無比に突いてきたアエルさんは、無数に迫り来る『攻撃の隙間』を軽いステップで縫い避けて、僕の十八番である剣突を僕自身に到達させてしまう。それを全身の力を使い、額に筋を浮かべながら回避に成功した僕は、今度は打って変わって守勢に回らされてしまった。腕を鞭のように使い放たれる斬撃を、刃を食いしばりながら必死に防御していく僕は、攻勢に転じるための苦肉の策を、怒涛の攻撃のせいで動きを鈍らせてしまっている頭に考えさせるものの、結局この状況を打開するための手立ては浮かんでこず、僕は思考を切り上げて目の前のことに集中した。
何とかして隙を作らないと、このままだと見るも無惨に切り刻まれてしまう。どうすれば、この強者から隙を作り出せる? どうすれば、鉄壁を誇る強者に一撃を与えられる? この勝負に風なんて卑怯な手は使えない。魔法なんか使えた試しはないし論外だ。ただ全力で剣を振るうのみ。戦闘技術で完敗してしまっている僕に残されている勝利条件は——彼を上回る身体能力を全開にすること?
いいや、違う。一撃だけでも、たった一撃だけでも彼の防御技術を僕が上回ることだけが、この勝負の勝利条件!
やれるのか、ど素人の僕に。できるのか、弱すぎる僕に。
いいや——僕には、やるしかねえんだよッ!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
僕は剣を持った右腕を『メキメキ』と嫌な音を鳴らしながら筋張らせ、攻勢に回っていたいたアエルさんの剣身に、全身全霊の『渾身の一撃』を与える。
「——なっ!?」
トウキ君とカラス——人間離れした、正真正銘の強者達の死闘を目の当たりにしてきた、今の僕に出来ること!
甚だしい弱者である、今の僕なんかがやれること!
それは、ただひたすらに旅の中で積み重ねてきた、友との日々の記憶を体の奥底から引き出して、雷のような強さ秘めた、強すぎる彼を全身で真似することだけ!
彼の強さを持ってすれば、目の前にいるアエルさんなんかに負けるわけがない——ッッッ!!
攻勢を崩されたアエルさんは目を見開きつつも、グッと眉間に力を入れて、崩れた体勢を立て直す。しかし、先程以上の迫力を周囲に発しながら、怒涛の攻勢に転じた僕に対し、彼はどんどん背後に押されて行ってしまう。無尽蔵に繰り出される連撃の『一つ一つの威力』が尋常ではないことに彼は目玉を飛び出さんばかりに瞼を開き、僕の袖を捲られて露出している筋張った右腕を見て、かなりの肉体負荷をかけて無茶をしていることに気づく。
耐久戦にさえ持ち込めば勝てる——そう確信したアエルは、ソラの目を見て、その意思を一変させる。泥臭さを覚えるほどに勝利だけを求めている少年の勇姿を目の当たりにした一人の武人は、ニッと盛大な笑みを作り出し、強者の領域に足を踏み入れんとする少年の意志に応えてしまう。
それが決定的な『隙』となって——二人の勝負は決した。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ヌウゥゥッ!?」
豪速で突き出された剣先が、アエルさんの構えられた剣の側面に到達し、その絶大な威力を流し切れなかった彼の鉄剣が耐久限界を迎えて盛大に砕け散る。武器の上半身を失ったアエルさんは、あまりの衝撃で姿勢を崩してしまい、それを追うように僕が地を蹴った。自身の間合いまで肉薄した僕は、右肩を回して剣を背後に溜める。そして放たれる、腕のしなりを利用した高速斬撃の名は——
『ウォルスルス柔剣術』
「はあああああああああああッッッ!!」
「グウゥッ!?」
僕が放った急加速する一撃は、アエルさんが行使した防御を優に置き去りにし、彼のガラ空きの左肩に到達する。寸でのところで出来る限り威力は殺したものの、刃の無い鉄塊を打たれた左肩から『ドグッ』という重低音が鳴り響き、そこから走る激痛から彼は尻餅をついてしまった。
「はははははははは! こんなに早く、私を超えてしまうとは思わなんだ! いやぁ、参りましたぞ!」
肩を押さえながら立ち上がったアエルさんは、口を大きく開けて笑い声を上げる。それを息を切らしながら聞いていた僕は、顔を勝利の喜びに染めて、歓喜の砲声を上げた。
「よっしゃあああああああああああああああああああああああ!!」
強者への勝利の実感は、瞬く間に僕の全身を駆け巡り、身体の奥底から源泉のように全能感を湧き上がらせてくる。
一時だけ、全能感と勝利に酔いしれてしまっていた僕は、柔和な笑みを浮かべている二人の人目も憚らず、弾けんばかりの笑顔で掻いていた汗を散らした——
* * *
燦々と地上を照らしていた太陽が、彼方の空に落ちていってしまったせいで辺りの空気は徐々に冷えていき、遠くの空が朱色に染まっているのを認められるものの、こちらの空は雷雲が立ち込める暗色だ。アエルさんへの初勝利後、ほぼ互角の戦いを繰り広げることができていた僕は、実感できるくらいの『成長』を手に入れて、満足げな表情のまま、昼過ぎまで続いていた模擬戦式稽古を終えた。
そして、僕と同じく満足げな表情をしていたアエルさんの「今日は祝いですな」という一言を聞いたマキネさんが、丹精込めて用意した豪勢すぎる食事——牛のサイコロステーキと、バターとチーズをたっぷりと使ったサンドイッチ。
それによく分からない緑色のフルーツゼリーと、カラメルが大量にかけられたプリンを満腹まで食した僕は、さらに満足げな表情に磨きをかけた状態で湯に浸かり、休息のために部屋に戻った。
「ふぅ~~~」
換気のために窓を全開にしてからベットに腰掛けた僕は、模擬戦式稽古で、山のように積み上げられた疲労感を取るために、そのまま両腕を広げて寝転がった。目の前に広がっている木目調の天井にある、人の顔のような不気味な染みを、無意味に目で追って数えていた僕は、パチパチと瞬きを繰り返した後、そっと目を閉じた。
今日は朝から昼過ぎまで模擬戦稽古を続けていたんだけど、稽古を見るために朝から屋敷を訪ねてきたロンが、村の花壇に植えられた花の世話をしに行くと言っていたアイネさんについて行ったっきり、帰ってきていない。もしかしてだけど、二人で駆け落ちとか——昨日の話を聞いていた自分としては、有り得なくないと思うんだよなぁ。何かあったのかって考えると心配だし、駆け落ちしたって言うなら追いかけることはできないし、アエルさんとマキネさんは心配している様子ではなかったから、大丈夫なんだと思うんだけどさ。二人ともどこ行ったんだろ?
「…………ん?」
ふと、窓から部屋の中に入ってきた、生暖かい不気味な風に意識を引っ張られてしまった僕は『なんだ?』と怪訝に思いながら慎重に窓の方に歩み寄った。まるで何かを伝えているような『妙な風』に惹かれるまま、僕は開け広げられた窓からそっと顔を出した。
「……雨か」
窓の外の景色を仕切りに首を動かして眺めていると、ポツポツと水滴が空から降ってきだした。さっきのは雨前の湿気を孕んだ風だったのかな? と思いつつ、雨水が部屋の中に入ってこないように窓を閉めようとした——その時。
遠くから屋敷に近づいてくる二体の人影を目視し、やっとロンとアイネさんが帰ってきたのかと、僕に気づいていなさそうな二人に「おーい!」と声を掛けようとして、風に乗ってくる『二人の暗い雰囲気』を敏感に感じ取った僕は、寸でのところで口を塞ぎ、誰にも見つからないように身を隠した。その状態でしばらく待っていると、屋敷の庭先から二人の話し声が聞こえてくる。僕は悪いとは思いつつ、耳に神経を集中させて、聞き耳を立てた——
「ロン、一緒に逃げましょう? 今なら誰も追っては来られないわ。お父様はソラさんとの稽古で疲れ果てて眠ってしまっているはず。マキネなら私達が故郷を捨てて逃げても理解してくれるはずよ……」
「…………」
こ、これは間違いなく『駆け落ち』の話だな。言葉の節々に覚悟を感じられる、アイネさんの声音的に。彼女は家族を置いて行ってでも、ロンと二人で村を出て行くという覚悟は固まっている様子。しかし、迷っているような雰囲気を醸し出しているロンの方は、家族を故郷に置いて行くことを躊躇っている様子で、一歩、村の外に踏み出せずに足踏みをしてしまっている感じだ。昨日の夜、彼とした話的に、彼は、アイネさんが切り出した『駆け落ち』を断ったことを後悔している様子だったし、もしかしたら、今ここで二人は——
「……できない。僕は弱い、君を守り切れるかわからないんだ。皆んなを、アエルさん達を心配させてしまう……」
決断を『躊躇った』ロンが言い放った、断りの言葉を正面から聞かされたアイネさんは、彼の発言から数瞬の間を開けて「グスッ」という嗚咽を漏らしてしまった。まるで、ここだけ時が止まってしまったかのような、芯まで冷えつく静寂が、恋仲止まりの男女の間に流れていく。そんな煮え切らない二人を天が引き裂きにきたかのように、極光を放つ稲光が暗い雷雲の中を走って、夜の暗闇が満ちかけている辺りを煌々と照らし、ゴロゴロという雷鳴が轟渡った。
「そ、っか……。ごめんね、ロン。いきなりこんなこと言って。……また明日、おやすみなさいっ!」
気付かれないように、そっと窓辺から顔を覗き出した僕が見たのは、大粒の涙を散らしながら、走って屋敷の中に入っていくアイネさんの姿と、土砂降りの雷雨になってしまった外で佇む、俯いた状態で動かないロンの姿だった。
彼はしばらくの間、呆然と豪雨に打たれた後、俯いたまま何処かへと歩いて行ってしまった。その去っていく友の背中を見つめていた僕は、何とも言えない気持ちになりながら、雨が入ってくる窓を閉めた。
「はあッ!」
「まだまだ!」
腕をしならせる独特の剣術を、模擬戦形式で叩き込まれていた僕は、始めてから三時間が経過してもなお、手加減をしまくっているアエルさんに一撃も与えられず、額に玉のような汗を滲ませてしまっていた。僕が繰り出す渾身の上段斬りを、当たるスレスレの所で身体を斜めにして回避したアエルさんは、僕のガラ空きの手首に木刀を打ち付ける。
「ッ! ガアアッ!」
「なんと!」
その痛烈な一撃を歯を食いしばり、根性で耐えきって僕は、驚愕で目を見開くアエルさんに横薙ぎの斬撃を放つ。空気を切り裂きながら右脇腹に向けて猛進する、魔獣すら悲鳴を上げてしまうほどの威力が込められた薙ぎ払いを、アエルさんは冷静に剣を縦に構え、真正面から受け止めた。
「ぬうっ!」
僕の横薙ぎの攻撃を、長年の研鑽で熟達した防御で受け止めたアエルさんは、剣に込められた絶大な威力を殺しきることができず、身体を宙に浮かせてしまう。それをカッと見開いた目で認めた僕は、薙ぎ払いの余韻を使って肘を引き、剣突を繰り出すために背後に力を溜め込む。まるで弓を引くような格好を取った後、瞬きする間に力の用意を済ませて、大型魔獣の頭蓋すら容易に貫く一撃を解放した。
「フゥッ!」
唸りを上げる高速の剣突が、宙に身を躍らせて、地に足つかないアエルさんの胸部に向けて爆進する。しかし——
「——甘いッ!」
僕の全身全霊を持って撃ち放たれた剣先が、まるで『上り坂』かのように斜に構えられた剣の側面に到達した——その時。視界で映し出された『信じられない光景』を目の当たりにした僕は、愕然と目を見開いてしまった。
「————」
まるで示し合わせていたかのように至極滑らかに、僕が放った剣先が、アエルさんが作り出した『剣の道』を火花を散らしながら駆け上がっていく。宙に浮いた状態で地を蹴って移動することができなかった彼に回避行動という手は残されておらず、否応なく残された防御を選択せざる終えなかった彼は——研鑽に研鑽を重ねた、長年、宝を守るためだけに積み重ねられた卓越した戦闘経験が、今この時、確かに僕の目を焼いた。
「はああッッッ!」
「ズゥ——ッ!?」
あまりの絶技に魅入られて時を止めてしまっていた僕は、前方から迫り来る一撃に防御を間に合わせることができず、アエルさんが放った上段斬りを右肩に直撃させてしまった。腕を撓らせて急加速する独特な剣技を使った剣撃を防御無しで食らってしまった僕は、肩から全身に走る衝撃と痛覚によって右手に持っていた、安全のために刃が潰されている鉄剣を地面に落としてしまう。
ここで勝負を決した僕とアエルさんは、お互いに大粒の汗を散らしながら顔を見合わせた。肩を左手で押さえながら膝をついていた僕は、二足で立つアエルさんを見上げるように持ち上げていた首を折り、自身の負けを宣言する。
「参りました……」
「剣術素人にしては、なかなかでありましたな」
その言葉を、勝利の笑みを浮かべているアエルさんに向けて吐いた僕は、荒れてしまわないように力尽くで整えていた呼吸を盛大に崩し、息を切らしながら勢いよく地面に尻を投げて座り込んだ。かれこれ三時間以上、僕は守勢に回りっぱなしだったアエルさんに対して攻勢に出続けていたにも関わらず、今さっきのように、息を呑んでしまうような『技』を使われて往なされ続けてしまい、無意識の内に積み上げられていたのだろう『戦いの自信』を木っ端微塵にして無くしてしまった。座り込んだまま休憩に入った僕は、冷えた麦茶を用意してくれたマキネさんに礼を伝えて受け取り、それを「ゴクゴク」と喉を鳴らしながら一気に飲み干す。僕の前に腰を下ろしたアエルさんも受け取り、身体から汗として出ていった水分を補っていた。息を整えている最中に申し訳ないのだけれど、僕はウズウズとした好奇心に促されるまま、彼が使っていた腕を撓らせる『独特の剣術』の話をする。
「あの。アエルさんが使っていた、ボールを投げる時みたいな感じの、急加速する剣——あれは何なんですか?」
「ああ、それは——」
僕が投げかけた率直な疑問を、コップ一杯の麦茶を飲み切ってから耳に入れたアエルさんは、その話を聞かれて嬉しそうな笑みを浮かべながら、僕の問い掛けに快く答えてくれた。
曰く、朝から続けていた、模擬戦形式の稽古中、彼が常時使用していた、腕の『しなり』を利用した独特な剣術の名は『ウォルスルス柔剣術』というらしい。その剣術は世界的にも有名な流派のものなのだそうだ。案の定『世界的』にとか言われているにも関わらず、今日初めて知ったんだが——という、他人に見せたくない無知を晒してしまっていた僕に、アエルさんは子供に物を教えるような感じで、懇切丁寧に『柔剣術』の詳細を教えてくれた。
何でも、柔剣術の開祖である『ウォルスルスさん』は獣人の方だったそうで、華奢な肉体を持つ獣人は、多種多様な人種の中でも『比較的に非力』な方に入ってしまっているらしく、魔獣退治などの戦闘面でかなり苦労していたのだそうだ。それで自身の膂力では、敵の硬すぎる肉と骨を立てないという理由から編み出されたのが、腕のしなりを利用した独特の剣技から放たれる、ワンテンポ遅れて急加速する『高速斬撃』で、敵の首などの急所を正確に狙い斬り、肉付きの薄い関節や手足の腱などを斬り裂くことを主とした『柔剣術』なのだそうだ。この剣術は怪物染みた膂力を必要としておらず、身体の柔軟性を使った『剣速』を重視しているため、比較的容易に習得できるという点で優れており、この流派の門戸を叩く人間は数多いのだという。
「なるほどー。僕も使えるようになれますかね?」
その話を聞き終えた僕が、話し終えたアエルさんに聞くと、彼はあまりいい顔はせず、正直な結論を僕に述べた。
「今まで打ち合ってみて分かりましたが、ソラさんは型に嵌らない方が力を発揮できる『天才型』だと思いました。貴方の『我流剣術』は、私なんかの技を与える必要もないほど様になっていた。ですから、それを崩してまで、わざわざ柔剣術を扱う必要はないでしょうな」
嬉しそうな笑顔のまま、模擬戦を繰り返して行き着いた結論を語るアエルさんに、お世辞にも『天才型』と言われてしまった僕は照れ隠しの苦笑を浮かべて頭を掻いた。
「まあ、貴方が柔剣を使えるようになる必要はないと思いますが、対策という点では、この打ち合いにも意味はあるでしょう。休憩が終わったらもう一戦、どうですかな?」
「はい! お願いします!」
僕は、アエルさんとマキネさんの三人しか居ない屋敷の庭で、気合の入った張りのある声を上げる、それから数分ほどして休憩を終えた僕達は、お互いに剣を構えて、後退してなるものかという意志を共にし、足腰に全力の力を込めた仁王立ちを取る。稽古というには、あまりにも力の入りすぎている、手加減なし——本気の『戦闘』を開始する。
「行きます!」
「いつでも来なさい」
その言葉が合図となって、僕ははち切れんばかりに右足に溜め込まれていた力を一気に解き放つ。薄緑が一面に敷き詰められている美しい芝生は、人外の脚力を全開にした僕の踏み込みに耐え切ることができず、小規模な罅割れを作ってしまっていた。そして、僕が思いっきり地を蹴ったのと同時に、小さい爆砕音が辺りに鳴り渡り、蹴り飛ばされた土塊が後方に勢いよく飛び散る。常軌を逸した凄まじい加速を持って『前方に飛んだ』僕に対し、応戦の意を確固としていたアエルさんはカッと目を見開き、右手に持った剣を肩を回して背後に溜めた。そして物を投擲をするかのように振りかぶった姿勢を取った彼は、左足を軸にして、一直線に突進してくる僕に狙いを定め、高速の上段斬りを繰り出した——!!
「ヌウゥンッッ!!」
前傾姿勢を取っていた僕の視界に迫り来る、柔軟すぎる肩を余すことなく使った、撓らせた腕から放たれる急加速する斬撃に対して僕は目をカッ開き、彼が一瞬で振り下ろすだろう『剣の刃』を狙った、渾身の剣突を放つ——!!
「はああああッ!!」
お互いに背に溜められた一撃を衝突させる。一秒でも長く力を溜め込まれたアエルさんの一撃の方が、この勝負では有利かと思われた中、心から尊敬している友の『鬼拳』を真似して編み出された僕の剣突が、長年の研鑽を積んできた彼の一撃を上回り、模擬戦が行われてから初めてとなる『先制』をもぎ取った!
「——なんと!?」
一撃の勝負に押し負けたアエルさんは、身を襲う甚だしい威力を殺すために後方に向かって足を進ませる。僕はそれを彼の硬すぎる防御を崩すための隙だと即断し、畳み掛けるように肉薄。縦横斜突——瞬く間に複数の斬撃を繰り出し、目の前にいる強者に一撃を与えようと力を尽くした。しかし、その程度の些細な隙を、素人同然の相手に突かせるような弱者ではないアエルは、悲鳴を上げる全身の力を『ビキビキ』という不快音と共に強引に引き出して、怒涛の勢いで自身に向かって迫り来る、慄いてしまうほどの強速斬撃を防御し続けた。
「——ッ!」
アエルさんの防御が硬すぎる! こんなに攻め立てているのに一撃を与える隙が見当たらない! 柔剣術以前に彼が積みかさねてきた難攻不落の『防御技術』が、守るためだけに磨き抜かれてきた彼の軌跡が、戦闘素人の若輩である僕なんかとは隔絶してしまっている! どうすれば、これが超えられる!? どうやれば、僕は彼を超えて——一歩先に行けるんだ!?
「甘いッッ!」
「——ッ!?」
縦横無尽に攻め立てていた『僕の隙』を正確無比に突いてきたアエルさんは、無数に迫り来る『攻撃の隙間』を軽いステップで縫い避けて、僕の十八番である剣突を僕自身に到達させてしまう。それを全身の力を使い、額に筋を浮かべながら回避に成功した僕は、今度は打って変わって守勢に回らされてしまった。腕を鞭のように使い放たれる斬撃を、刃を食いしばりながら必死に防御していく僕は、攻勢に転じるための苦肉の策を、怒涛の攻撃のせいで動きを鈍らせてしまっている頭に考えさせるものの、結局この状況を打開するための手立ては浮かんでこず、僕は思考を切り上げて目の前のことに集中した。
何とかして隙を作らないと、このままだと見るも無惨に切り刻まれてしまう。どうすれば、この強者から隙を作り出せる? どうすれば、鉄壁を誇る強者に一撃を与えられる? この勝負に風なんて卑怯な手は使えない。魔法なんか使えた試しはないし論外だ。ただ全力で剣を振るうのみ。戦闘技術で完敗してしまっている僕に残されている勝利条件は——彼を上回る身体能力を全開にすること?
いいや、違う。一撃だけでも、たった一撃だけでも彼の防御技術を僕が上回ることだけが、この勝負の勝利条件!
やれるのか、ど素人の僕に。できるのか、弱すぎる僕に。
いいや——僕には、やるしかねえんだよッ!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
僕は剣を持った右腕を『メキメキ』と嫌な音を鳴らしながら筋張らせ、攻勢に回っていたいたアエルさんの剣身に、全身全霊の『渾身の一撃』を与える。
「——なっ!?」
トウキ君とカラス——人間離れした、正真正銘の強者達の死闘を目の当たりにしてきた、今の僕に出来ること!
甚だしい弱者である、今の僕なんかがやれること!
それは、ただひたすらに旅の中で積み重ねてきた、友との日々の記憶を体の奥底から引き出して、雷のような強さ秘めた、強すぎる彼を全身で真似することだけ!
彼の強さを持ってすれば、目の前にいるアエルさんなんかに負けるわけがない——ッッッ!!
攻勢を崩されたアエルさんは目を見開きつつも、グッと眉間に力を入れて、崩れた体勢を立て直す。しかし、先程以上の迫力を周囲に発しながら、怒涛の攻勢に転じた僕に対し、彼はどんどん背後に押されて行ってしまう。無尽蔵に繰り出される連撃の『一つ一つの威力』が尋常ではないことに彼は目玉を飛び出さんばかりに瞼を開き、僕の袖を捲られて露出している筋張った右腕を見て、かなりの肉体負荷をかけて無茶をしていることに気づく。
耐久戦にさえ持ち込めば勝てる——そう確信したアエルは、ソラの目を見て、その意思を一変させる。泥臭さを覚えるほどに勝利だけを求めている少年の勇姿を目の当たりにした一人の武人は、ニッと盛大な笑みを作り出し、強者の領域に足を踏み入れんとする少年の意志に応えてしまう。
それが決定的な『隙』となって——二人の勝負は決した。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ヌウゥゥッ!?」
豪速で突き出された剣先が、アエルさんの構えられた剣の側面に到達し、その絶大な威力を流し切れなかった彼の鉄剣が耐久限界を迎えて盛大に砕け散る。武器の上半身を失ったアエルさんは、あまりの衝撃で姿勢を崩してしまい、それを追うように僕が地を蹴った。自身の間合いまで肉薄した僕は、右肩を回して剣を背後に溜める。そして放たれる、腕のしなりを利用した高速斬撃の名は——
『ウォルスルス柔剣術』
「はあああああああああああッッッ!!」
「グウゥッ!?」
僕が放った急加速する一撃は、アエルさんが行使した防御を優に置き去りにし、彼のガラ空きの左肩に到達する。寸でのところで出来る限り威力は殺したものの、刃の無い鉄塊を打たれた左肩から『ドグッ』という重低音が鳴り響き、そこから走る激痛から彼は尻餅をついてしまった。
「はははははははは! こんなに早く、私を超えてしまうとは思わなんだ! いやぁ、参りましたぞ!」
肩を押さえながら立ち上がったアエルさんは、口を大きく開けて笑い声を上げる。それを息を切らしながら聞いていた僕は、顔を勝利の喜びに染めて、歓喜の砲声を上げた。
「よっしゃあああああああああああああああああああああああ!!」
強者への勝利の実感は、瞬く間に僕の全身を駆け巡り、身体の奥底から源泉のように全能感を湧き上がらせてくる。
一時だけ、全能感と勝利に酔いしれてしまっていた僕は、柔和な笑みを浮かべている二人の人目も憚らず、弾けんばかりの笑顔で掻いていた汗を散らした——
* * *
燦々と地上を照らしていた太陽が、彼方の空に落ちていってしまったせいで辺りの空気は徐々に冷えていき、遠くの空が朱色に染まっているのを認められるものの、こちらの空は雷雲が立ち込める暗色だ。アエルさんへの初勝利後、ほぼ互角の戦いを繰り広げることができていた僕は、実感できるくらいの『成長』を手に入れて、満足げな表情のまま、昼過ぎまで続いていた模擬戦式稽古を終えた。
そして、僕と同じく満足げな表情をしていたアエルさんの「今日は祝いですな」という一言を聞いたマキネさんが、丹精込めて用意した豪勢すぎる食事——牛のサイコロステーキと、バターとチーズをたっぷりと使ったサンドイッチ。
それによく分からない緑色のフルーツゼリーと、カラメルが大量にかけられたプリンを満腹まで食した僕は、さらに満足げな表情に磨きをかけた状態で湯に浸かり、休息のために部屋に戻った。
「ふぅ~~~」
換気のために窓を全開にしてからベットに腰掛けた僕は、模擬戦式稽古で、山のように積み上げられた疲労感を取るために、そのまま両腕を広げて寝転がった。目の前に広がっている木目調の天井にある、人の顔のような不気味な染みを、無意味に目で追って数えていた僕は、パチパチと瞬きを繰り返した後、そっと目を閉じた。
今日は朝から昼過ぎまで模擬戦稽古を続けていたんだけど、稽古を見るために朝から屋敷を訪ねてきたロンが、村の花壇に植えられた花の世話をしに行くと言っていたアイネさんについて行ったっきり、帰ってきていない。もしかしてだけど、二人で駆け落ちとか——昨日の話を聞いていた自分としては、有り得なくないと思うんだよなぁ。何かあったのかって考えると心配だし、駆け落ちしたって言うなら追いかけることはできないし、アエルさんとマキネさんは心配している様子ではなかったから、大丈夫なんだと思うんだけどさ。二人ともどこ行ったんだろ?
「…………ん?」
ふと、窓から部屋の中に入ってきた、生暖かい不気味な風に意識を引っ張られてしまった僕は『なんだ?』と怪訝に思いながら慎重に窓の方に歩み寄った。まるで何かを伝えているような『妙な風』に惹かれるまま、僕は開け広げられた窓からそっと顔を出した。
「……雨か」
窓の外の景色を仕切りに首を動かして眺めていると、ポツポツと水滴が空から降ってきだした。さっきのは雨前の湿気を孕んだ風だったのかな? と思いつつ、雨水が部屋の中に入ってこないように窓を閉めようとした——その時。
遠くから屋敷に近づいてくる二体の人影を目視し、やっとロンとアイネさんが帰ってきたのかと、僕に気づいていなさそうな二人に「おーい!」と声を掛けようとして、風に乗ってくる『二人の暗い雰囲気』を敏感に感じ取った僕は、寸でのところで口を塞ぎ、誰にも見つからないように身を隠した。その状態でしばらく待っていると、屋敷の庭先から二人の話し声が聞こえてくる。僕は悪いとは思いつつ、耳に神経を集中させて、聞き耳を立てた——
「ロン、一緒に逃げましょう? 今なら誰も追っては来られないわ。お父様はソラさんとの稽古で疲れ果てて眠ってしまっているはず。マキネなら私達が故郷を捨てて逃げても理解してくれるはずよ……」
「…………」
こ、これは間違いなく『駆け落ち』の話だな。言葉の節々に覚悟を感じられる、アイネさんの声音的に。彼女は家族を置いて行ってでも、ロンと二人で村を出て行くという覚悟は固まっている様子。しかし、迷っているような雰囲気を醸し出しているロンの方は、家族を故郷に置いて行くことを躊躇っている様子で、一歩、村の外に踏み出せずに足踏みをしてしまっている感じだ。昨日の夜、彼とした話的に、彼は、アイネさんが切り出した『駆け落ち』を断ったことを後悔している様子だったし、もしかしたら、今ここで二人は——
「……できない。僕は弱い、君を守り切れるかわからないんだ。皆んなを、アエルさん達を心配させてしまう……」
決断を『躊躇った』ロンが言い放った、断りの言葉を正面から聞かされたアイネさんは、彼の発言から数瞬の間を開けて「グスッ」という嗚咽を漏らしてしまった。まるで、ここだけ時が止まってしまったかのような、芯まで冷えつく静寂が、恋仲止まりの男女の間に流れていく。そんな煮え切らない二人を天が引き裂きにきたかのように、極光を放つ稲光が暗い雷雲の中を走って、夜の暗闇が満ちかけている辺りを煌々と照らし、ゴロゴロという雷鳴が轟渡った。
「そ、っか……。ごめんね、ロン。いきなりこんなこと言って。……また明日、おやすみなさいっ!」
気付かれないように、そっと窓辺から顔を覗き出した僕が見たのは、大粒の涙を散らしながら、走って屋敷の中に入っていくアイネさんの姿と、土砂降りの雷雨になってしまった外で佇む、俯いた状態で動かないロンの姿だった。
彼はしばらくの間、呆然と豪雨に打たれた後、俯いたまま何処かへと歩いて行ってしまった。その去っていく友の背中を見つめていた僕は、何とも言えない気持ちになりながら、雨が入ってくる窓を閉めた。
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