上 下
30 / 58
二回目

16.生きる希望

しおりを挟む

「私を抱いてほしい」

 リリミアの言葉にアーサーは口を噤んだ。
 冗談にしては真剣な眼差しに茶化す事もできない。

「理由は?」

 リリミアは目線を下にして夜着の裾を握り締めた。

「私はもうあの人との閨をしたくない。
 でもあの人が最期の男にもしたくない。
 最悪な行為が最後と思いたくない。だから上書きしてほしい」

 リリミアは顔を上げ真っ直ぐにアーサーを見つめた。だが夜着を握る手は少し震えている。

「……行為自体に嫌悪は無いのか?」
「分からない。けど、あの人じゃないならたぶん大丈夫……」

 アーサーはリリミアの震える手を取った。
 触れた瞬間ピクリと震えたが、彼は包むようにして握った。

「元には戻れなくなるぞ。下手したら婚約だって無くなるかもしれない」
「好都合だわ。……ねえアーサー、どうして男は結婚前から愛人を持つ事を許されて、女は純潔を守らなくてはならないのかしら」

 貴族社会では女性は純潔で嫁ぐ事が習慣化している。
 義務では無いが血に混ぜ物をしない為だとか様々な理由を付けられている。

「婚約者がいるけど女性は純潔を守って、結局他の女性に奪われて、けれども男性は他に子を設けてもあまり批判されないわ。
 血を繋げばそれで良いの? そこに妻となる女性の意思は無いの?
 婚約だってそう。破棄された側に問題があるって女性は傷物扱いよ。
 私たちは男性の為に生きるんじゃないのにね……」

 それはリリミアが一回目にで感じていた理不尽さ。
 男性は良くて女性ははしたないとされる事。
 不貞も男性は「男の甲斐性」として言われ、女性は大きな醜聞になるのだ。
 婚家以外の種を入れない為、であれば結婚する時にお腹に宿していなければそれで良いはずだが、男性有利な世の中は暗黙の了解で女性は純潔を強いられていた。

 アーサーは逡巡する。
 確かに愛人役は引き受けた。だがあくまで振りだった。
 男の影をチラつかせるだけで効果はあるだろうと踏んでの事だった。

「……無理ならいいわ。他をあたるから」
「待ってくれ」

 アーサーはリリミアの手を掴んだ。
 他の男に触れられたくない、自分が支えたい、そんな想いが彼の中に巡っていく。

「後でシヴァルに殴られるだろうな……」
「私が無理矢理命令したって言うわ」

 アーサーは難しい顔をしてうなり、頭をガシガシと掻いた。

「……分かった。どうしても辛くて止めてほしい時は言ってくれ。
 無理はしない事。怖い時はちゃんと合図をする事。
 苦しくなったら俺の胸を叩くんだ。いいか?」

 熱を帯びる瞳に見つめられ、リリミアは小さく頷いた。

「それと、お願い、嘘でもいいから、愛してるって言って……」

 潤んだ瞳と朱に染まる頬にアーサーの劣情が刺激されていく。

「愛してる。……嘘じゃないからな」
「え……」

 聞こうとする暇も無くリリミアは抱き寄せられ口付けられた。
 記憶の中ではマクルドとのみした事があるそれはアーサーによって書き換えられていく。
 優しく触れる手付きも、様子を伺いながら震えを窘められながらリリミアを溶かしていった。

 痛みがあるのは、身体は初めてだから。
 それが今生きている事を実感させた。
 それ以外はただ塗り替えられていく事に集中していた。

「愛してる、リリミア」

 彼の長い髪がさらりと落ちてリリミアの頬をくすぐる。
 リリミアの中の酷く辛い記憶は、アーサーの優しさと温かさで上書きされていった。


 翌朝リリミアはアーサーの腕の中で目を覚ました。
 誰かが隣で寝ている事は久しぶりで、記憶の中では初めてではないのに何だか気恥ずかしかった。

「おはよう」

 もぞもぞしていると、アーサーから声を掛けられた。朝の光のせいか、眩しく見えるからリリミアはドキドキしてしまった。

「お、おはよう」
「身体は辛くないか?」
「だ、大丈夫……」
「そうか。……上書きは成功したか?」
「……ええ」

 リリミアは笑顔を浮かべた。
 その事にアーサーは目を細めた。

「笑えてるよ。上書き大成功だな」

 その言葉にリリミアは目を見開いた。
 不思議そうに自身の頬に手を当て、感触を確かめる。

「私、まだこんな風に笑えたのね……」

 それは、領地に来てから初めて浮かべた心からの笑みだった。


 それからアーサーとリリミアは急速に親密になっていった。
 とはいえ体を重ねたのは一度きり。
 アーサーがリリミアを見る眼差しに熱がこもり慈しみが溢れようとあくまでも主従の関係を貫いていた。
 リリミアも安心したように彼に寄り添うが一線を引いていた。
 穏やかに寄り添う二人に複雑に思いながらも、リリミアが笑みを浮かべられるようになって母も使用人たちも安堵していた。
 領地にいる間だけの束の間の愛。
 二人はそれを常に意識していたから目を瞑る事にしたのだ。

 そして一月が過ぎた辺りで、リリミアの体調に変化が現れた。
 あの時は早く嫌な記憶を消したくて、避妊の事を失念していた。
 いち早く気付いたのは母だった。

「どうするの?」
「私は……生みたい」
「こんな事公爵家に知られたら大変だわ……」
「あの人にもいるじゃない」
「だからって同じ事をしては同じレベルに落ちるでしょう?」
「でも授かった子を処分なんてできない。
 公爵家よりこの子の方が大事だわ。バレて婚約が無くなっても構わない」

 娘の引かない様子に、母は頭を抱えた。

「誰が育てるの」
「私が育てます」

 アーサーはリリミアの肩を抱き、伯爵夫人を見据えた。

「私がここで育てます」
「母無し子にするの?」
「平民にはよくある事です」

 純潔主義ではないとはいえ、貴族令嬢として結婚前に婚約者以外で失った事は大変な醜聞だ。ましてや婚外子まで実れば責められても文句は言えない。
 夫人はうんうん唸り、だが結局はリリミアの希望に沿う事にした。

 公爵家には無事に生まれてから相談する事にした。
 マクルドの子の事は何も言われていないが、起きた事の対処はすべきと夫人が窘めたのだ。それで婚約が無くなるかもしれないがそこはお互い様で通せる。
 生まれた子は貴族の籍に入れず、アーサーの子として育てる事にした。隣国の貴族である彼は、この国では爵位が無かった。だが多数の平民に紛れる方がちょうど良い。一平民の子なんて貴族は気にしないからだ。
 あらかじめ交流しないと伝えているから出産までは隠せるだろう。
 手紙は相変わらず来ていたが、目を通すだけ通して火に焚べた。

 父と兄は知らせを受けて口を開いたまま呆然とした。
 シヴァルは領地に飛んで来て、アーサーを一発殴ったが夜通し酒盛りをし話し合い、最終的には和解した。

 マクルドが面会に訪れる事も無かった為、リリミアは無事に男の子を出産した。
 名前はデウスと名付けられた。
 娘ならどうしようと思ったが杞憂で安堵した。
 娘でも、マクルドの子ではないなら大丈夫だろうと出産に臨んだ。

 だが生まれた時には王都に戻る期限が迫っていた。

「ここを離れたくないわ……。やっぱり早くに婚約破棄すれば良かった……」

 デウスを抱きながらリリミアは呟いた。

「じゃあ俺と逃げるか? 俺の国に行けばなんとかなるだろ」
「そうね……それもいいかも」

 すやすやと眠る我が子を見ながらリリミアは微笑んだ。

 デウスを生むと決め、リリミアはずっと悩んでいた。
 自分はマクルドと同じ位置に堕ちてしまった。
 デウスの存在を隠したまま結婚しようとしている。
 確かに同じ事をすると言えば、それでも良いと言われた。
 だからといって本当に同じ状況にする事が正しい事なのかと問われれば答えは否だろう。

「あまり自分を責めるな。全ての人間が正しく生きられるとは限らない。他人の事情を真に理解しても共感できるわけでもない。
 逃げたくなったら連れて逃げてやる。デウスを授かった時点で……いや、その前から俺は共犯だ。だから、リリミアは思う通りにすればいい」

 アーサーの言葉はリリミアにすんなりと響いていく。マクルドからは決して得られなかったもの。

 リリミアは己が抱いた我が子の重みを感じながら、これからの事を思っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】お前なんていらない。と言われましたので

高瀬船
恋愛
子爵令嬢であるアイーシャは、義母と義父、そして義妹によって子爵家で肩身の狭い毎日を送っていた。 辛い日々も、学園に入学するまで、婚約者のベルトルトと結婚するまで、と自分に言い聞かせていたある日。 義妹であるエリシャの部屋から楽しげに笑う自分の婚約者、ベルトルトの声が聞こえてきた。 【誤字報告を頂きありがとうございます!💦この場を借りてお礼申し上げます】

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~

コトミ
恋愛
 結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。  そしてその飛び出した先で出会った人とは? (できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです) hotランキング1位入りしました。ありがとうございます

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

(完結)私が貴方から卒業する時

青空一夏
恋愛
私はペシオ公爵家のソレンヌ。ランディ・ヴァレリアン第2王子は私の婚約者だ。彼に幼い頃慰めてもらった思い出がある私はずっと恋をしていたわ。 だから、ランディ様に相応しくなれるよう努力してきたの。でもね、彼は・・・・・・ ※なんちゃって西洋風異世界。現代的な表現や機器、お料理などでてくる可能性あり。史実には全く基づいておりません。

あなたには彼女がお似合いです

風見ゆうみ
恋愛
私の婚約者には大事な妹がいた。 妹に呼び出されたからと言って、パーティー会場やデート先で私を置き去りにしていく、そんなあなたでも好きだったんです。 でも、あなたと妹は血が繋がっておらず、昔は恋仲だったということを知ってしまった今では、私のあなたへの思いは邪魔なものでしかないのだと知りました。 ずっとあなたが好きでした。 あなたの妻になれると思うだけで幸せでした。 でも、あなたには他に好きな人がいたんですね。 公爵令嬢のわたしに、伯爵令息であるあなたから婚約破棄はできないのでしょう? あなたのために婚約を破棄します。 だから、あなたは彼女とどうか幸せになってください。 たとえわたしが平民になろうとも婚約破棄をすれば、幸せになれると思っていたのに―― ※作者独特の異世界の世界観であり、設定はゆるゆるで、ご都合主義です。 ※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。教えていただけますと有り難いです。

待つわけないでしょ。新しい婚約者と幸せになります!

風見ゆうみ
恋愛
「1番愛しているのは君だ。だから、今から何が起こっても僕を信じて、僕が迎えに行くのを待っていてくれ」彼は、辺境伯の長女である私、リアラにそうお願いしたあと、パーティー会場に戻るなり「僕、タントス・ミゲルはここにいる、リアラ・フセラブルとの婚約を破棄し、公爵令嬢であるビアンカ・エッジホールとの婚約を宣言する」と叫んだ。 婚約破棄した上に公爵令嬢と婚約? 憤慨した私が婚約破棄を受けて、新しい婚約者を探していると、婚約者を奪った公爵令嬢の元婚約者であるルーザー・クレミナルが私の元へ訪ねてくる。 アグリタ国の第5王子である彼は整った顔立ちだけれど、戦好きで女性嫌い、直属の傭兵部隊を持ち、冷酷な人間だと貴族の中では有名な人物。そんな彼が私との婚約を持ちかけてくる。話してみると、そう悪い人でもなさそうだし、白い結婚を前提に婚約する事にしたのだけど、違うところから待ったがかかり…。 ※暴力表現が多いです。喧嘩が強い令嬢です。 ※史実とは関係ない異世界の世界観であり、設定はゆるゆるで、ご都合主義です。魔法も存在します。 格闘シーンがお好きでない方、浮気男に過剰に反応される方は読む事をお控え下さい。感想をいただけるのは大変嬉しいのですが、感想欄での感情的な批判、暴言などはご遠慮願います。

目が覚めました 〜奪われた婚約者はきっぱりと捨てました〜

鬱沢色素
恋愛
侯爵令嬢のディアナは学園でのパーティーで、婚約者フリッツの浮気現場を目撃してしまう。 今まで「他の男が君に寄りつかないように」とフリッツに言われ、地味な格好をしてきた。でも、もう目が覚めた。 さようなら。かつて好きだった人。よりを戻そうと言われても今更もう遅い。 ディアナはフリッツと婚約破棄し、好き勝手に生きることにした。 するとアロイス第一王子から婚約の申し出が舞い込み……。

処理中です...