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本編
君を独りにはしない
しおりを挟むマダムリグレットをあとにして、伯爵邸に帰宅する馬車の中でカトリーナは物思いに耽っていた。
フィーネから聞かされた亡き母の事。
その母を愛していた父の事。
『オールディス公爵はマリアンヌ様を心の底から愛してらっしゃるから、……お亡くなりになったあとそれは落ち込まれたわ』
フィーネの言葉を思い出し漠然と湧いてきた疑問。もし自分の愛する人が亡くなったら、どうなるのだろう。
──多分、何も手が付かなくなる。
実際に亡くした父が仕事にのめり込み自分を省みられなくなったのは仕方が無いのかもしれないと思いながらも、心にモヤがかかったように晴れないでいる。
両親がいない寂しさから我儘になった自分を持て余し気味だったから、婚姻した相手に押し付けたのか、と思うと胸がキュッとなった。
「カトリーナ」
考え事をしていると、向かい側に座ったディートリヒが名を呼んだ。
「少し寄り道をしていかないか」
窓の外をちらりと見れば、まだ明るい。
ディートリヒは休日。
マダムリグレットでの滞在時間がどれくらいになるか不明だったので、今日の執務はフーゴに任せてきた。なのでカトリーナもその言葉に頷いた。
馬車を広場の待機場所に止め、ディートリヒのエスコートで街を歩く。
少し後ろからは侍女エリンと伯爵邸の護衛も一人着いて来ていた。
記憶が戻ってから数カ月。
毎日顔を合わせていればその人となりはよく分かる。
顔の傷の事を入れても、カトリーナから見たディートリヒは非の打ち所の無い夫だった。
婚姻前のような嫌悪や侮蔑は無い。
世話になっているから、という理由はあるがそれとはまた別の理由もあるように感じていた。
だがそれは初めて感じるもので、その感情が何なのか自分の中で名前の付けようが無かった。
信頼はある。
己を絶対的に傷付けない、優しさと守ってくれるという安心感。
常に自身を気遣い、どうしたいか尋ねてくれる。
全てを肯定し受け入れてくれる事に信頼を寄せている。
だが、それ以上となると踏み込めないでいる。
同じく信頼していた婚約者から裏切られた記憶は、カトリーナの中でまだ昇華できないでいるのだ。
あれからまだ数カ月。
思い出す事は無いがすぐに消えるものでもない。
そんな妻に着かず離れずに寄り添い、常に労りの表情の夫を嫌うなど、今のカトリーナにはもうできなくなっていた。
王都の一番賑わう広場には様々な屋台が並んでいた。
「すごい……」
「休日は市が立つんだ。だから人が多いな」
カトリーナは勿論初めて来る場所。あまりの人の多さに唖然としてしまった。
「人が多いから……。君が良ければ」
躊躇いがちに差し出されたディートリヒの手を、一拍遅れて取った。
ぶつからないよう、注意しながら歩くが足取りは覚束ない。だがそんな彼女に合わせるように、守るようにしてゆっくりと歩を進めるディートリヒは、彼女がはぐれないようにしっかりと手を握っていた。
広場の屋台で手慣れたように串に刺さった肉を包んでもらうと、少し離れた公園の椅子にハンカチを敷きカトリーナを座らせた。
先程購入したあつあつのそれをカトリーナに渡すと、ディートリヒは少し空けて隣に腰掛けた。
「唐揚げという、辺境名物だ。肉に味をつけてから小麦粉をまぶして揚げるらしい」
まだ湯気の上がるそれをカトリーナに差し出し、受け取ったのを確認してから自分の分にかぶりつく。
その様子を目を丸くして見ていたカトリーナは、戸惑いながらも肉をかじった。
「あふっ」
カリッという音とともに肉を食むと、衣に閉じ込められていた香ばしい匂いが空に向かう。
それは食欲を誘い、小さな口を一口、また一口と進めて行く。
初めての市、初めての食べ物。
幼い頃から王太子の婚約者として振る舞わなければならなかったカトリーナにとっては『はしたない』部類に入るがそれも忘れて食べていた。
「美味しかったです。ごちそうさま」
「たまにはこういうのも良いだろう」
「そうですね。……淑女としてはしたないかもしれませんが、新鮮です」
いつもの意地っ張りな発言ではなく、素直な言葉に違和感を感じたディートリヒは、カトリーナをじっと見つめた。
柔らかく笑みはしているがどこか貼り付けたようなもので、覇気もない事が気にかかった。
「元気が無いな。ご両親の件でか?」
夫からの真っ直ぐな問い掛けに、カトリーナは小さく息を飲んだ。
少しの沈黙。──そうして、自分の気持ちを吐露する。
「……私が父から疎まれているのは、……母を奪った存在だからでしょうか」
カトリーナを産まなければ、母はもう少し長生きできて父と暮らせたのではと思うと、申し訳無い気持ちになった。
自分が産まれなければ。
フィーネは『マリアンヌが望んだ』とは言っていたが、遺される側の父はそれを心の底から受け入れていたのだろうかと疑問が浮かんだ。
「……オールディス公爵が後添いを取らなかったのは、ひとえに君のお母様を深く愛しているからだろう」
カトリーナはディートリヒを見やる。
「愛している妻が自身の生命をかけて産んだ我が子を愛さない程、オールディス公爵は冷酷な方では無いと思う」
その言葉は、カトリーナの心にストンと入り込んだ。
「ではなぜ……」
喉まで出かかった言葉は詰まり、声にならない。
「カトリーナ──」
「泥棒ーー!私のお財布返してっ!!」
問い掛けようとするディートリヒは、しかし女性の叫び声のした方へ向いた。
「ベルトルト、カトリーナを頼む」
「えっ、あ、はい!」
控えていた護衛に彼女を任せ、ディートリヒは声のした方へ走って行った。
カトリーナのいる場所からも逃げる男を追うディートリヒの姿が見える。
彼はあっと言う間に男に追い付き、抵抗を物ともせずに地面に縫い付けた。
「縄を!」
「はいよっ」
市の商売人から縄を受け取り、縛って行く。
その後で男の懐から財布を出し、追い掛けてきた女性に渡した。
女性がしきりに頭を下げ、困惑しながら笑顔で応えるディートリヒを見て、カトリーナの胸は黒いもやがかかったようになった。
おそらく犯人を捕まえてくれた事のお礼を言っているのだろうが、カトリーナには聞こえない。
(そうよ、旦那様が優しいのは私に対してだけでは無いわ)
騎士だから。
国を救った英雄だから。
きっと、誰にでも優しいのだと思うとこみあげて来るものを飲み込むかのようにカトリーナは唇を噛んだ。
「カトリーナ」
弾かれたように顔を上げると、心配そうに妻を見るディートリヒの姿があった。
「一人にしてすまない。心細かったろう」
「……いいえ。困っている方を助けるのは、騎士として当然ですもの」
だから勘違いしてはだめだと。
カトリーナは自分を戒める。
「帰ろう、カトリーナ。……君に見せたいものがある」
そうして伯爵邸に着き、ディートリヒの私室に案内された。
初めて入る筈のそこは、ふと懐かしい匂いがする。おそらく記憶が無いときには頻繁にここにいたのだろうと予想した。
それは不快では無く、安心できるような。
なぜだか分からないがここにいたい、という気持ちが彼女を包んだ。
「これを読んでくれ」
引き出しの中から取り出したそれは、手紙のようだった。
ソファに座ったカトリーナが受け取り、封は開けられていた為中身の便箋を抜き開き読み始めた。
「…………………」
読み終えたカトリーナは困惑を隠せないでいた。
その手紙はオールディス公爵からディートリヒに宛てられたもので、内容は『娘を頼む』というものだった。
『私は国の宰相として王宮にいる時間が長い。
その為娘を守る事が難しい。
王太子は執務を肩代わりさせていたと聞く。
いつかまた娘を呼び戻そうとする時があるかもしれない。
だから、私の代わりに守って欲しい』
「視察から帰られたオールディス公爵は私を訪ねて来られた。
そのときに……、娘をくれぐれも頼むとおっしゃったんだ」
「父が……」
(見放されたわけでは無かった……?)
「公爵家から持参金も預かっている。それは君が自由にしていいお金だ。だから……何かあれば」
そこで一度言葉が途切れた。
何かを堪えるように唇を引き結ぶ。
「君が……もしも」
「いつか、ここを離れたいと言うのなら」
絞り出すように、言葉が紡がれる。
「私は……」
それに反応するかのように、カトリーナが口を開いた。
「私は、ランゲ伯爵家に嫁ぎました。領地の経営にも携わっています。
今は侍女とも、仲良く……できています。だからっ。
私はここにいてはいけませんか?」
「私は君にずっと側にいてほしい。それは、最初から、変わらない。
だが、君が望むなら……」
ディートリヒの瞳が揺れる。
「君は……私を嫌っていたから」
その言葉にカトリーナは目を見開いた。
「あ……、わ、私は……っ、確かに以前は……、そう、だったかもしれませんがっ。
い、今は、そこまで、無いと言うかっ」
カトリーナは目を瞬かせ、ドレスをぎゅっと握った。
「貴方の人となりを見て、無闇に嫌う要素がありませんしっ。そ、それに父がっ……、こう、言ってますしっ!
そ、それともあなたは私を守る約束を違えるのですか!?」
(違う、本当はこんな言葉では無くて)
カトリーナは思うような言葉が紡げず、自己嫌悪でぎゅっと瞳を閉じた。
「私は君を守る」
カトリーナが目を開くと、目の前にディートリヒが跪いていた。
その手を取り、そっと、唇が触れるか触れないかくらいの口付けを落とす。
「私は君を見捨てたりしない。
オールディス公爵に言われたからではない。
例え世界中の誰を敵に回しても、最期まで君を守り抜くと誓う」
真っ直ぐに射抜かれ、カトリーナは唇を引き結んだまま息を呑んだ。
「君から嫌われているならば遠くから、と思っていたが、嫌われていないのであれば側で守らせてほしい」
視線が絡み合い、互いに逸らせない。
「……私は……っ、ここに、いたい」
「……っ、ずっと、ここにいていい」
「ずっと……寂しかった。両親はいなくて、誰にも、本音を言えなくて。……それが当たり前だった。けどっ……。
独りは、もう、いや……」
カトリーナの頬から雫が溢れる。頬を伝い手の甲に跳ねた。
「君を独りにはしない。私が側にいる。仕事に行ってる間は必ず使用人の誰かを付けさせる。
もう寂しさを我慢しなくていいんだ。誰かに頼っていいんだ」
『何かをしてはいけません』と言われてきたカトリーナは、全てを肯定され、止め処なく涙があふれてきた。
ディートリヒは躊躇いがちに、指の背で拭う。
次から次へと零れ落ちるそれを拭う仕草を、カトリーナは止めることはなかった。
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