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改札を出ると雨はざんざん降りであった。
天気予報の通りである。このために今日はナイロンのバッグに、レインシューズを履いて出社したのでぬかりはない。
北海道には梅雨がないと言われている。故郷を出て数年が経つが、確かに言われてみればそうだったかもしれない、と感じるぐらいだ。何しろ、夏の暑さと冬に雪が降らない、台風が来る、のインパクトが強すぎて、梅雨があるかないかは「ささやかな問題」にしか過ぎないのだ。
駅直結のスーパーで買い物を終え、折りたたみ傘を開き、足早に帰宅の途についていると、数十メートル先に一人の女性が歩いているのが見えた。見慣れた制服は、百合の通う学校のものであろう。
かといって、本人とは限らない。うっかり声をかけて他人だったならば、気まずい事この上ない。
適度な距離を保つためにのろのろと歩いていると、不意に風の勢いが強まるのを感じた。
(あ、まずい)
慌てて傘を斜め前に傾け、向かい風の直撃を受けない様にする。紺色の傘に遮られた視界の向こうで、「あーもうっ」と苛立った声が聞こえた。
これはもう、勘違いはあり得ない。
「最悪……」
「百合?」
「え? 京子さん!?」
気まぐれな風にビニール傘を完膚なきまでに破壊されていたのは、やはり隣人の女子高生であった。
「最悪です! この傘、五百円もしたのに……」
「お気に入りの傘じゃなくてよかったと思うしかないね」
骨の部分が完全に折れ曲がってしまっているので、もう復活は望めないだろう。マンションはもうすぐそこなので、いわゆる相合い傘で帰宅する。
「靴がびしょびしょになりました」
「サーキュレーターを使うとすぐに乾くよ」
あたしの部屋にある小さなサーキュレーターは、年がら年中二十四時間稼働して部屋の空気をかき混ぜている。はずだ。
「あれ、やっぱり便利なんですか? 冷暖房の効率が上がるって書いてありますけど……」
「効果は不明」
空気の流れなんて目に見えるものではないし、運転を止めるタイミングもないので正直わからない、と言った方が正しい。しかし、風が出ているのは紛れもない事実なのであり、小さな洗濯物を乾かすときなどには重宝している。
「今日はあたしにまかせときなよ」
部屋からサーキュレーターを運び出し、百合に貸し出すついでに今夜の晩ご飯について話し合う。
「この前買った本のレシピに挑戦するから」
「何か本を買ったんですか?」
百合の脳内では、一緒に本屋に行ったことは完全に忘却の彼方だったらしい。
フライパン一つで出来るフレンチ、という宣伝文句に惹かれて購入したはいいものの、中身はやはり知らない単語のオンパレードであり、道具がフライパンなだけでどこにも簡単とかお手軽とは書いていないのだ。ぱらぱらとページをめくって、オマール海老が突然現れた時にはひっくり返りそうになってしまった。
その中で、ぎりぎり自分にも手軽に出来そうとぱっと目をひいたのが鶏肉のマスタードソースだ。
ちょうど持て余している粒マスタードの小瓶がある我が家としては願ったりかなったりのレシピであった。
ブックスタンドに本を開いてキッチンにセットする。いつもは適当だが、せっかく購入したのだから、そっくりそのまま再現してみよう、というわけだ。
レシピの一行目。鶏もも肉の筋を切ります。と素っ気なく書いてある。
……はて。今まで鶏肉に対してそんな事をした覚えがない。おそらく「筋」であろう箇所の事はわかる。確かに、ファミレスでアルバイトをしていた頃は、肉が丸まってしまうのを防ぐために、脂身の部分に切り込みを入れていた。
調べてみると、やはり肉が縮まるのを防ぎ、ふっくらと仕上がるとの事だった。しかし日本のスーパーでは大概は処理されているとの事で、これはフランスの習慣に忠実なレシピなのであろうと、取り合えず肉の表面に切り込みを入れ、何本か出ているアキレス腱のような筋を切り取る。こしょうをすり込み、皮目から焼き始める。
中火で動かさずにじっくり焼くことがポイントらしい。
ひっくり返し、フライパンの隙間に大きめのくし切りにしたタマネギ、トマト、輪切りにしたニンジンなどを追加して一緒に仕上げる。
キッチンの小窓がとんとん、と叩かれる。人影は、百合だろう。もし違ったらものすごく怖い。
「ローズマリーがありますよ!」
彼女の中で、おしゃれなフランス料理と言えばハーブ。ハーブと言えばローズマリーなのであろう。そういえばキッチンに苗が置いてあったな……と思い返す。
「じゃあ、せっかくだから使ってみるわ」
レシピには書いていないのだが、想定される仕上がりから考えて、ローズマリーを追加したところで恐るべきマイナス要素にはならないだろう。
小窓の隙間から、切り取られたローズマリーの枝を二本受け取り、軽く水洗いをしてフライパンに投入する。途端に、ハーブソルトとは比較にならないほどの濃厚な香りがキッチンに充満する。
「うわ、めっちゃおしゃれになった……」
あたしの独り言は、煙に巻かれて消えていった。
肉が焼けたところで、一旦皿に移す。染み出た油がもったいないと思うのだが、ソースを作るときに油が跳ねてしまうので拭き取ってください、と書かれている。
ソースの材料は、白ワインを100ミリリットルと、粒マスタードを小さじ1。
「えっ、これだけ?」
すでに塩こしょうはしてあるものの、ソースの材料が二つしか無いので不安になってくる。
白ワインを煮詰めて、粒マスタードを溶かすだけ……。しかし、本に載っているレシピなのだから、これでなんとかなるに違いない。皿に置いてある間に染み出てきた油は、最後にソースと混ぜるらしい。
ぐつぐつと煮込んでいくと、薄い半透明のマスタードソースが出来上がる。自分としてはソースの色は濃ければ濃いほど料理っぽいと感じているので。非常に頼りなげな気分になってしまう。
しかし、爽やかな香りは十分に食欲をそそる。トースターで軽くパンを温め、ついでに冷凍のカットレモンを沈めた水などもセッティングする。
「いただきます」
「いただきます」
ハーブやワインの力なのか、臭みはなくさっぱりとした味わいだ。不思議な事に、野菜の方が甘さや酸味を強く感じる仕上がりになっている。
油でパリパリになるまで揚げたローズマリーを噛むと肉の味が中和される。お酒は飲めないが、確かにワインがあったらすばらしく合うのかもしれない。
「確かに、違う国の料理って感じがしますね」
「そうね」
皮の表面は動かさずにじっくりと焼いたおかげでパリパリで、元々のもも肉の柔らかさを引き立てている。普通にチキンソテーを作るより、なかなかに楽しい経験であったと言える。
食後にふとスマートフォンを確認すると、妹からメッセージが届いていた。今までとは違い、すぐに返信をすることができた。先延ばしせず、一歩踏み出せば、事態は簡単に進むのだ。
外は相変わらず雨が降っているが、天気の割には悪くはない日だ。
天気予報の通りである。このために今日はナイロンのバッグに、レインシューズを履いて出社したのでぬかりはない。
北海道には梅雨がないと言われている。故郷を出て数年が経つが、確かに言われてみればそうだったかもしれない、と感じるぐらいだ。何しろ、夏の暑さと冬に雪が降らない、台風が来る、のインパクトが強すぎて、梅雨があるかないかは「ささやかな問題」にしか過ぎないのだ。
駅直結のスーパーで買い物を終え、折りたたみ傘を開き、足早に帰宅の途についていると、数十メートル先に一人の女性が歩いているのが見えた。見慣れた制服は、百合の通う学校のものであろう。
かといって、本人とは限らない。うっかり声をかけて他人だったならば、気まずい事この上ない。
適度な距離を保つためにのろのろと歩いていると、不意に風の勢いが強まるのを感じた。
(あ、まずい)
慌てて傘を斜め前に傾け、向かい風の直撃を受けない様にする。紺色の傘に遮られた視界の向こうで、「あーもうっ」と苛立った声が聞こえた。
これはもう、勘違いはあり得ない。
「最悪……」
「百合?」
「え? 京子さん!?」
気まぐれな風にビニール傘を完膚なきまでに破壊されていたのは、やはり隣人の女子高生であった。
「最悪です! この傘、五百円もしたのに……」
「お気に入りの傘じゃなくてよかったと思うしかないね」
骨の部分が完全に折れ曲がってしまっているので、もう復活は望めないだろう。マンションはもうすぐそこなので、いわゆる相合い傘で帰宅する。
「靴がびしょびしょになりました」
「サーキュレーターを使うとすぐに乾くよ」
あたしの部屋にある小さなサーキュレーターは、年がら年中二十四時間稼働して部屋の空気をかき混ぜている。はずだ。
「あれ、やっぱり便利なんですか? 冷暖房の効率が上がるって書いてありますけど……」
「効果は不明」
空気の流れなんて目に見えるものではないし、運転を止めるタイミングもないので正直わからない、と言った方が正しい。しかし、風が出ているのは紛れもない事実なのであり、小さな洗濯物を乾かすときなどには重宝している。
「今日はあたしにまかせときなよ」
部屋からサーキュレーターを運び出し、百合に貸し出すついでに今夜の晩ご飯について話し合う。
「この前買った本のレシピに挑戦するから」
「何か本を買ったんですか?」
百合の脳内では、一緒に本屋に行ったことは完全に忘却の彼方だったらしい。
フライパン一つで出来るフレンチ、という宣伝文句に惹かれて購入したはいいものの、中身はやはり知らない単語のオンパレードであり、道具がフライパンなだけでどこにも簡単とかお手軽とは書いていないのだ。ぱらぱらとページをめくって、オマール海老が突然現れた時にはひっくり返りそうになってしまった。
その中で、ぎりぎり自分にも手軽に出来そうとぱっと目をひいたのが鶏肉のマスタードソースだ。
ちょうど持て余している粒マスタードの小瓶がある我が家としては願ったりかなったりのレシピであった。
ブックスタンドに本を開いてキッチンにセットする。いつもは適当だが、せっかく購入したのだから、そっくりそのまま再現してみよう、というわけだ。
レシピの一行目。鶏もも肉の筋を切ります。と素っ気なく書いてある。
……はて。今まで鶏肉に対してそんな事をした覚えがない。おそらく「筋」であろう箇所の事はわかる。確かに、ファミレスでアルバイトをしていた頃は、肉が丸まってしまうのを防ぐために、脂身の部分に切り込みを入れていた。
調べてみると、やはり肉が縮まるのを防ぎ、ふっくらと仕上がるとの事だった。しかし日本のスーパーでは大概は処理されているとの事で、これはフランスの習慣に忠実なレシピなのであろうと、取り合えず肉の表面に切り込みを入れ、何本か出ているアキレス腱のような筋を切り取る。こしょうをすり込み、皮目から焼き始める。
中火で動かさずにじっくり焼くことがポイントらしい。
ひっくり返し、フライパンの隙間に大きめのくし切りにしたタマネギ、トマト、輪切りにしたニンジンなどを追加して一緒に仕上げる。
キッチンの小窓がとんとん、と叩かれる。人影は、百合だろう。もし違ったらものすごく怖い。
「ローズマリーがありますよ!」
彼女の中で、おしゃれなフランス料理と言えばハーブ。ハーブと言えばローズマリーなのであろう。そういえばキッチンに苗が置いてあったな……と思い返す。
「じゃあ、せっかくだから使ってみるわ」
レシピには書いていないのだが、想定される仕上がりから考えて、ローズマリーを追加したところで恐るべきマイナス要素にはならないだろう。
小窓の隙間から、切り取られたローズマリーの枝を二本受け取り、軽く水洗いをしてフライパンに投入する。途端に、ハーブソルトとは比較にならないほどの濃厚な香りがキッチンに充満する。
「うわ、めっちゃおしゃれになった……」
あたしの独り言は、煙に巻かれて消えていった。
肉が焼けたところで、一旦皿に移す。染み出た油がもったいないと思うのだが、ソースを作るときに油が跳ねてしまうので拭き取ってください、と書かれている。
ソースの材料は、白ワインを100ミリリットルと、粒マスタードを小さじ1。
「えっ、これだけ?」
すでに塩こしょうはしてあるものの、ソースの材料が二つしか無いので不安になってくる。
白ワインを煮詰めて、粒マスタードを溶かすだけ……。しかし、本に載っているレシピなのだから、これでなんとかなるに違いない。皿に置いてある間に染み出てきた油は、最後にソースと混ぜるらしい。
ぐつぐつと煮込んでいくと、薄い半透明のマスタードソースが出来上がる。自分としてはソースの色は濃ければ濃いほど料理っぽいと感じているので。非常に頼りなげな気分になってしまう。
しかし、爽やかな香りは十分に食欲をそそる。トースターで軽くパンを温め、ついでに冷凍のカットレモンを沈めた水などもセッティングする。
「いただきます」
「いただきます」
ハーブやワインの力なのか、臭みはなくさっぱりとした味わいだ。不思議な事に、野菜の方が甘さや酸味を強く感じる仕上がりになっている。
油でパリパリになるまで揚げたローズマリーを噛むと肉の味が中和される。お酒は飲めないが、確かにワインがあったらすばらしく合うのかもしれない。
「確かに、違う国の料理って感じがしますね」
「そうね」
皮の表面は動かさずにじっくりと焼いたおかげでパリパリで、元々のもも肉の柔らかさを引き立てている。普通にチキンソテーを作るより、なかなかに楽しい経験であったと言える。
食後にふとスマートフォンを確認すると、妹からメッセージが届いていた。今までとは違い、すぐに返信をすることができた。先延ばしせず、一歩踏み出せば、事態は簡単に進むのだ。
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