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「え? あ、はい。めっちゃ好き……です」

 反射的に答えてしまったが、べつに嘘でもない。豚の角煮は好物だ。豚バラブロックは高いし、そもそも最寄りのスーパーであまり見かけないから作らないだけだ。

 何かの宗教の勧誘……いや、それに煮物はないな。待てよ、もしかしてあれか? ネズミ講の鍋セットか何かを押し売りされてしまうのか!?

「夕食を作りすぎてしまって。よかったら少し受け取っていただけませんか」

 あたしの不安をよそに、彼女は味付けは多分普通だと思いますとか、煮卵は食べられますか、と話を続けた。

 これは伝説の、ラブコメによくある「料理を作り過ぎちゃって」だ。

 いやはや、こんなことが自分の身に起こるとは人生何があるかわからないものである。

 「はい。よろこんで」と返事をすると、マドモアゼル・笠音はすっと顔を引っ込めた。そのままぼけっと突っ立っていると、彼女は炊飯器の内釜とお玉を持ち、ピンクのサンダルを履いて再び現れた。

 今時珍しくエプロンを身につけており、「笠音百合」とフルネームのワッペンがついている。ユリ。なんとも言えず、お上品な名前である。その名にふさわしく、色白でつるっとした頬と、さらさらの黒髪を持つお嬢さんだ。家庭科の授業で作ったエプロンを愛用しているなんて、しっかりしたものである。

「なにか、お皿を……」

 上からのぞきこむと、釜の中には茶色の液体がひたひたに満たされ、具がぎっしりと詰まっている。確かにこれは一人分としては作りすぎであると思われるので、ありがたくいただくことにした。

「今持ってくる……ところで、炊飯器がこれって、お米は炊けてるの?」

 炊飯器で豚の角煮を作るのは火を使わないので楽ちんなのだが、当然炊飯器が塞がってしまうので米を炊けないデメリットがある。そうなると冷凍ご飯かレンジかガスで米を用意する……となるのだが、そもそも鍋で煮込む事を回避して炊飯器調理しているのだから土鍋で、と言う展開はないだろう。

「冷凍してあるご飯を使おうかと」

  どうやら彼女もご飯をまとめて炊いて冷凍保存する性格のようだ。年齢は離れているけれど、親近感が湧いてくる。

「うちに炊きたてのお米があるから、よかったらどうぞ」

 まとめて三合炊いたので遠慮無く。と告げると、笠音百合は視線を宙にさまよわせた。最初にパーソナルスペースに踏み込んできたのはそちらじゃないの。とは思うものの、彼女の隣人づきあいシミュレーションには想定されていない展開だったのだろう。

「では、お言葉に甘えていただきます。助かります」

 軽く頭を下げた笠音百合の白いつむじを見て、その時ふいに、ぼろっと、ほんとうにぽろっと口から「何か」がこぼれ出た。

「どうせなら、うちで一緒に食べませんか」

 笠音百合はびっくりした顔をしたし、当事者であるあたしも自分で自分の発言にびっくりした。

 なぜそのような提案をしたのか、あたしにもよくわからない。

 仕事。休日にだらだら。また仕事。不満があるわけでもないが、彼女と関わって刺激を受ける事で学生時代の無敵にキラキラしていた頃を少しでも思い出せたなら、なーんて思ったのかもしれない。

 
「あの、では、お願いします。えーと、お邪魔しますという話です」

 おとなしそうな見た目とは裏腹に、彼女はノリが良かった。若さ故の純粋さのなせる技だろうか。まあ、あたしが冴えないサラリーマンだったならば危険な予感がするが、同性だしトラブルにはならないだろうと考えたのだろう。

「オッケー。ひとまずそれ受け取っちゃうね」

 うかつな発言をしてドン引きされなくて良かったとほっとしながら炊飯器の釜を受け取り、汁をこぼさないようになんとかドアを開け、室内に入る。履いている柔らかいスエードのパンプスは、両手が埋まっていたとしても柔軟体操のごとく足を振ると、すぽりと抜け落ちる。

 この部屋の間取りは1DK。玄関を入ると右手にダイニングキッチン、左手に浴室、洗面所、トイレ。奥に寝室がある。引き戸なので解放しておくと大きなワンルームになる仕組みで、あたしはいつも全開にしている。

 ひとまずテーブルの真ん中に炊飯釜を置く。うちの炊飯器はきっちり仕事を成し遂げたようで、保温中のランプが頼もしげに光っている。

「あんたもさ、ついにデビューの時が来たってわけよ」

 一人暮らしを始める際に、不要かもしれないと考えたけれど、念のために椅子を二脚買った。もっぱらそれは荷物置きになっていたのだが、ここで不意の来客である。

 ぽん、と椅子の背もたれをたたく。イスはどことなく誇らしげで、ショールームでスポットライトを浴びていた時代を思い出しているかのようだった。

 タイミングの良いことに、部屋はきれいだ。虫の知らせと言うやつだろうか。昨日はせっかくの平日休みだったにもかかわらず、どこにも行かずにせっせと部屋を掃除していたのだ。どっぷり日が暮れて、ああ、これならどこかへ出かけて、掃除は毎日コツコツすべきだったなとなんとも言えない後悔が襲ってきたものだったが、人生塞翁が馬とはこのことだろう。
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