ゆめなか相談所

寶來 静月

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相談者・由比朝陽〜それでも〜

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 もう、死んでしまおう。

 どうやって死のうか。高いビルから飛び降りようか?薬の大量摂取をしようか?どこかで首を吊ろうか?線路に身を投げようか?
 辺りの喧騒から少し離れた乱雑とした薄暗い路地に座り込み、由比朝陽ゆいあさひは、ビルとビルの間の狭い空を見つめていた。
 考えるのは、死に場所やその方法についてだけ。それ以外に考えたいことなんて、朝陽にはもうなかった。
 もう何も残っていないし、今さらもう何もいらないと、朝陽はその場に倒れるように体を横たえた。
 なんならもうこのまま目覚めなくてもいいと思いながら、朝陽は静かに目を閉じた――。



 いつの間にか、知らない場所に立っていた。月がよく見える夜のT字路だ。
 あぁそうか……死んだんだ、私。朝陽はすぐ、そう思った。
 ちっとも痛くなかった。苦しまないで楽に死ねたなら良かった。私もほんの少しくらいはツイてた。良いこともあった。
 あぁ……楽に死ねて良かった。
 それにしても、死後の世界って随分とリアルなんだな。
 朝陽はゆっくりと辺りを見回す。T字路と、街灯と、どこまでも広がる月夜。そして、T字路の突き当たりとなる場所にぽつんと、三角屋根の家がひとつ建っていた。
「何だろう、ここ……」
 朝陽はその家をボーッと見つめる。
「私、ここからどこに行けばいいんだろう」
 朝陽は右、左と首を動かして左右に伸びる道の先に目を凝らすが、ただ真っ直ぐ月夜の下を伸びているだけで、先には何も見えなかった。
「死んだ時って、誰かが迎えに来てくれるんだっけ?」
 朝陽は独りごとを呟く。
 しばらくの間、辺りをうろうろとしながら誰かが来るのを待ってみたが、一向に来る気配がなかった。
「そうだ」
 朝陽はひらめいたとばかりに、少し戻って家の前まで行く。
「この家、今どき呼び鈴もないのね?」
 そう言って朝陽は軽く扉を叩く。
「はい」
 中から声が聞こえ、すぐに扉が開かれる。
 姿を現したのは、長い黒髪が良く似合う綺麗な女の人だった。
「あっ、こんばんは」
「こんばんは」
 朝陽がすぐに挨拶をすると、女性もニコリとして挨拶を返してくれた。
「あの……少しここで待たせてもらえませんか?」
「待つ?」
「はい、お迎えが来ると思うんです」
「……お迎え、ですか?」
「はい、お迎えです」
「お迎え……」
 女性は少し困ったように眉を寄せ、朝陽を見ている。
「とにかくどうぞ、お入りください」
 女性が中へ入るよう言った。朝陽はその言葉を聞いてから、「お邪魔します」と中へ入っていった。

 

「意外と何にもないですね」
 朝陽は室内を隅々まで見渡しながら言った。
「ええ。机と椅子と少しの棚以外は、特に必要ありませんので。必要最低限のものしか置いておりません」
 女性はフフフッと笑った。
「必要ないって、これでどう生活するんですか?」
「ここで暮らしているわけではありません」
「へぇ……そうなんですか」
 そうそう、と朝陽は女性を見る。
「しばらくここにいさせてください。たぶん、そろそろお迎えの人か、天使か、うーん……まあ形はわからないですけど、そういうのが来ると思うんです。だから、それまでここで暇潰しさせてください」
 朝陽は頭を下げた。
「あの……その、お迎えというのは一体どういうことなのでしょうか?」
「え?あぁ……。たぶん私、死にました」
「……え?」
 女性は目を丸くしている。
「ここって、死後の世界ですよね?私は死んだからここにいて、お迎えを待ってます。何かの本で、死んだらお迎えが来るって書いてあったのを見ました。でも全然来なくて、この辺何もないしいつまで待てば良いのかもわからなくて、とりあえずここで待たせてもらおうと思ったんです」
 朝陽は話終わって息を吸う。
 そんな朝陽を見て、女性がまたフフフッと笑う。
「……何ですか?」
 朝陽が眉を顰める。
「申し訳ありません。ですが――」
 女性は紫色の瞳で朝陽を優しく見る。

「大丈夫。あなたは生きていますよ」



「……へ?」
「あなたは亡くなってなんかいません。まだちゃんと、生きています」
「死んで……ない……?」
「はい。ただ、夢を見ているだけです」
「どうしてそうだとわかるんですか?」
「あなたが今、ここにいるからです」
「……えっ、ここって、死後の世界ですよね?」
「いいえ」
「え?じゃあ、ここはどこなんですか?」
「ここはあなたの夢の中。あなたの夢の中にある、ゆめなか相談所です」
「……夢の中?ゆめなか相談所?」
 朝陽は首を傾げる。
「えぇそうです。おそらくどこかで眠り、夢を見ているのです」
「なんだ……」
 朝陽は何も言わずに自分の手を見つめていた朝陽は、そう呟いた。
「私、死んだんじゃないんだ……なんだ……」
 朝陽の手がだらりと体の横におりる。
「やっと死ねたと思ったのに……まだ生きてたの……私」
 朝陽がフラフラと机のそばまで行き、机に手をついて項垂れる。
「こちらにお掛けください」
 女性にそう促され、朝陽は怠そうに椅子に座る。
「私はこのゆめなか相談所の相談員、暁と申します。よろしくお願いいたします」
 朝陽の向かい側の椅子に腰を下ろした暁は、ストレートの黒髪を耳に掛けながら自己紹介をして、そのあと丁寧な仕草で頭を下げた。
「まず、お名前をお伺いしても?」
 暁がそう言われ、しばらく何かを考える様子を見せてから「私は……」と小さく声を発した。
「私は……由比朝陽……です」
「朝陽……。素敵なお名前ですね」
 それを聞いて、朝陽はフッと鼻を鳴らした。
「名前だけ素敵でもね……」
 朝陽は背もたれに体を預け、上を見上げる。天窓の向こうは、相変わらず月夜だ。
「名前は朝陽でも、私のこれまでの人生に光なんてものはなかったですけどね。私はずっと、ずっとずっと……濃くて暗い影の中」
 朝陽はぼんやりと天窓の外を見つめていた。
「何かお悩みや迷いを抱えていらっしゃるのなら、私がお伺いします」
 そんな暁の言葉に、朝陽は首を持ち上げて暁を見た。
「悩みや迷い……ね……」
 また天窓を見上げる姿勢に戻ると、そのまましばらく動かなくなった。

 外を何度か風が通り過ぎたあと、部屋に朝陽の声が響く。
「死にたいって……そう思って、いつもただ息をしてました。“生きてる”とか、そんなんじゃなくて。何も考えないで、ただ息を吸って吐くだけ。それだけの日々でした。そんな時間に意味なんてないからもう死のう、死んで楽になろう。そう思ってからは、どこで死のうか、どんな方法で死のうか……夜が行ってまた次の夜が来るまで、ひたすらそれだけを考えてました。でも、いざ死のうと決意したらしたで、少しでも楽に死にたいって変な欲が出てきちゃって。結局死に方を決めきれないままでいたんです」
 天窓の向こうの夜空か、さらにその向こうか、どこか遠くを見つめていた朝陽は、ゆっくりと暁と向き合う形に体勢を変えた。
「何があったのですか?由比さんにそう決意させる何かが、あったのでしょう?」
 朝陽はフッと悲しく笑い、ポツポツと話しはじめた。

「……私の父はとても暴力的な人で、母はよく父に叩かれたりしていました。子どもだった私も、時々ぶたれてケガをしました。そんな環境から必死の思いで私を連れ出して逃げ出した母は、それから毎日父の影に怯えながら、私を女手ひとつで育ててくれました。それから10年くらいは母とふたり、決して豊かではなかったですけど、平和な日々を送っていました。そんなある時です。どこで知ったのか、17年振りに父が私の前に現れてお金を要求してきたんです。渡せるお金なんかないと言うと、父はあの頃のように躊躇なく私を平手打ちしてきました。あの人は何も変わってなかった。何年経っても、あの人はクズのままだった。このままでは母に何をされるかわからないと思った私は、仕方なく自分の貯金を渡そうとしたんです。そうすると今度は、数十万あったはずの私の貯金が口座から空っぽになっていたんです。なぜかと思って調べたら、彼氏が私の財布から抜き取ったカードで徐々に私の口座からお金を引き出していたことがわかって……。たぶん、暗証番号はどこかのタイミングで盗み見たんだと思います。しかもそのお金は、違う女のために使われてた。私と彼と同じ職場の、私より2つ下の女でした。同じ職場で浮気してたんですよ。ありえます?ありえないですよね?」
 朝陽は呆れたように笑った。
「しかもその浮気男と泥棒猫、私を嵌めたんですよ。私が経理なのを良いことに、あろうことか私に会社のお金を横領した濡れ衣を着せたんです。すぐにわかりました、あいつらだって。でも会社は私の言うことをまともに取り合ってくれなくて、そのまま私は会社をクビになりました」
 朝陽は目に涙を溜め、時々小さく深呼吸をしながら話していく。
「そして母は倒れ、そのまま天国に行ってしまいました」
 朝陽の目から、一筋の涙が頬へ流れる。
「許せなかった。父も、あの男も、あの女も、会社も、そして私自身も……何もかも全部、許せなかった」
 暁は朝陽が話すのを、目を逸らさずに静かに聞いていた。
「父には見つかり、恋人には勝手にお金を使い込まれ、後輩女に恋人を奪われ、挙句濡れ衣を着せられて職も失い、そして……とても優しくて私に限りのない愛を注いでくれた母まで……。もう私には何もなくなったんです。大切な家族も、居場所も、愛した人も、信じられるものも、すべてがなくなった。だからもう、生きる意味がないんです。生きる目的が私にはない。それならいっそ死んでしまおう。そう思ったんです。それで、死に場所や死に方を考えてました」
 朝陽は頬を伝う涙を手で拭っている。
「だからそこのT字路に立っていたとき、知らないうちに楽に死ねたんだ、苦しい思いも痛い思いもしないで死ねたんだって思って嬉しかったんですけどね。ただの夢だなんて残念」
 朝陽が苦笑いをしてみせる。
 そんな朝陽を、暁は黙って見つめていた。
「とても辛い思いをされて来たのですね」
「同情とかいらないですから」
 朝陽はそう言いながら、まだ涙を拭っていた。
「由比さんのお悩みは、死に方を決められないということなのですか?」
「そうです」
 朝陽は真顔を答える。
 窓の外は、相変わらず月明かりが照らす夜だった。
「違うと思うのですが」
 少しの間朝陽を見つめていた暁の思いがけない返答に、朝陽は「え?」と声を漏らしていた。
「違うと思います」
「違うって……何がですか?」
「あなたのお悩みは、死に方を決められないということではないように思うのですが」
「どういうことですか?」
「自分の本当の気持ちから顔を背けていませんか?」
「もう……何が言いたいんですか?さっきから」
 朝陽が少しイラついている。
「あなたは死に方や死に場所を悩んでいるのではなく――」
 暁は一度軽く目を伏せて、もう一度強い視線で朝陽を捕らえる。
「死ぬこと自体を、迷っているのではないですか?」
「え……」
「確かに大変お辛い日々だったのだと思います。ですが、死ぬことを決意したと言っても、きっと心のどこかでは迷っている。心のどこかでは、生きたいと思っている。笑えるほどに絶望的なこれまでだった。それでもまだ、一縷の希望を諦められないでいる。わたしにはどうしても、あなたがそう思っているように見えてならないのです」
「そんなわけないですよ……。私はこんな人生、終わりにしたいって思ってます」
「確かにあなたが望めば、すぐにでも人生を終わらせることは出来るでしょう。あなたをここまで追い込んで苦しめた人たちに、罪悪感を与えて反省させることも出来るかもしれませんね」
「そうでしょう?」
「しかしあなたは死んでしまいたいという気持ちのどこか奥深くで、それでも生きたいと思っているはずです。お母様のこと、心から大切に思われていらっしゃいましたよね?」
 暁の声はとても優しかった。
「……」
「ひとりで頑張って大切に育ててくれたお母様を裏切りたくないと、そう思っていらっしゃるのではないですか?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「由比さんがお母様のことを話されるたび、あまりに優しい目をされていましたので。お母様への愛が大きいのだろうと感じました。心から大切な人を裏切りたくない、傷つけたくないと思うのは人の心理ですから」
 朝陽は俯いて、両手を小さく擦り合わせている。
「由比朝陽さん」
「は、はい」
 暁が突然名前を呼ぶので、朝陽は何故か少し慌てて返事をした。
「あなたの、本当の気持ちは何ですか?」
「本当の気持ちって……」
「どんなに辛くても、目を逸らさないでください。自分の気持ちと素直に向き合ってください。いいですか、由比さん。必ずしも、大きいものが小さいものに勝つのではないのです。たとえ広い海の中を漂う砂粒のように小さな気持ちでも、それが自分の本心なら、それが自分の本当の願いなら、そのたったひとつの砂粒が海にも勝る真実なのですよ」
 朝陽の目から、再び涙が溢れる。

 朝陽はしばらくの間、ただ泣いていた。
「死にたいって……もうこんな人生やめてしまいたい、こんな人生捨ててしまいたいって……母が亡くなった日からずっと思ってました……。不条理だし……惨めだし……何でだよって思うことばっかりで……」
 朝陽は服の袖でゴシゴシと目元を擦る。
「でも……いつまでも死ねなかった……。死に場所とか、死に方とか、そんなのは自分に対するただの理由付けなんです……。いざ死のうとするとどうしても……もう一度だけ……朝日が見たいと思ってしまう……。そしてその時は思い留まって、また死のうすると、また明日が見たくなる……。死にたいって、そう思ってるはずなのに……どうしても心の中から……生きたいって思いが溢れてくるんです……。母が必死に父から守ってくれて、ずっと大切に育ててくれた命だから……諦めちゃダメだって……そんな声が聞こえてくるんです……」
 暁が、膝の上で手のひらを重ねる。
「それが、由比さんの本当の気持ちですよね?」
「……はい」
「それではきっと、あなたは大丈夫」
「大丈夫……?」
「自分の本当の気持ちを見つけました。見失いかけていた大切な気持ちを」
 ふたりの間に、十数秒の沈黙が流れる。
「私……もう少し頑張ってみます。辛いことのほうが今は多いけど……いつか夜は明けるって信じて、頑張ります」
 朝陽の頬を伝う涙は、もうなかった。
「由比さんなら強くやれるでしょう」
「……そう、ですかね?」
「素敵なお名前を、持っているじゃないですか」
 そう言うと暁がニコリとする。
 少し驚いた顔をしてから、「そうですね」と朝陽も微笑む。
 いつの間にか朝が近づいた空を見上げた暁は徐に椅子から立ち上がり、朝陽のそばまでやってきた。
 朝陽の肩にそっと手を置くと、朝陽と暁は目が合う。
「大丈夫。自分を信じて。あなたを信じて。お母様の愛を信じて」
 そう言うと暁は右手を上げる。
「さあ、お目覚めの時間ですよ」
 パチンッ、と音が響いた――。



「朝陽さん!朝陽さん!」
 うっすらと聞こえてきた声に、朝陽はゆっくりと目を開ける。
「ん……んん……」
 朝陽の目に、眩しい光が入り込んでくる。
「眩しい……」
 目を開けると、そこは昨日フラフラとやってきて座り込んだ路地だった。
「朝陽さん!」
 誰かが名前を呼び、肩を揺すっていることに気づいた。
 体をゆっくりと起こすと、体のあちこちに痛みが走った。
「いてて……」
 そう言いながら近くにある気配に目を向けると、よく知った顔がふたつ、そこにはあった。
「岩佐さん……?茜ちゃん……?」
 岩佐孝弘いわさたかひろ高野茜たかのあかねだった。ふたりは朝陽がいた経理部の同僚で、孝弘は先輩、茜は後輩にあたる。
「どうしてふたりがここに……?」
「ずっと探したんですよ!朝陽さんのこと!」
「探した?私を……?」
 茜の声に驚いて、朝陽は目を丸くする。
「会社をクビにされてから、お前全然連絡つかなくなって。心配でさ」
「あぁ……ごめんなさい。携帯、ずっと電源切ってて」
「心配したんですよ!!」
 茜が朝陽に抱きついた。
「え……ご、ごめん……。でも、何でここにいるってわかったの?」
「朝陽さんのことを知ってる色んな人に聞いてまわって、朝陽さんの普段の行動範囲をしらみ潰しに探したんですよ!もう!本当に大変だったんですから!!」
 茜が朝陽を抱きしめながら叫ぶ。
「由比」
 孝弘の声に、朝陽は抱きしめられたままそちらを向く。
「お前を助けたいんだ、俺たち」
「え……?助けるって……?」
 朝陽から少し体を離した茜も、うんうんと大きく頷いている。
「どうして」
「どうしてって、お前横領なんかしてないだろ?」
 朝陽は声が出せなかった。まさかそう思っていてくれる人がいたなんて、思いもしなかったのだ。
「朝陽さんは絶対そんなことする人じゃないって、私知ってます!だから朝陽さんを助けようってみんなで話して……」
「……みんな?」
「お前が無実だって信じてる人は社内にたくさんいる。お前はひとりじゃない」
「そうですよ!朝陽さん、諦めちゃダメです!」
「岩佐さん……茜ちゃん……」
 ぽとりと地面に涙が落ちる。
 こんな気持ちは、凄く久しぶりだった。心の芯がじんわりと温かくなるような、しばらく忘れていた感覚だった。
「私……死ぬつもりだった」
 朝陽は、ふたりにこれまでの出来事を包み隠さずに打ち明けた。
「お前……そんなに苦労してたんだな……。知らなかった」
 神妙な面持ちの孝弘の横で、茜はおいおいと咽び泣いていた。
「死ぬつもりでフラフラと歩いてたんです。そしてここで、疲れて眠った。そうしたら何だか不思議な夢を見て……目が覚めると岩佐さんと茜ちゃんがいた」
 茜がボロボロと涙を落としながら再び朝陽に抱きつき、腕に強く力を込める。
「朝陽さん……私は朝陽さんの味方ですからね……」
「俺もだ、由比」
 孝弘も朝陽の背中を優しく摩る。
「お母さんが守ってくれた命を私は……粗末にしようとしてた。でも、それはダメだって気づいた。それに、こんな私のことを心配して必死で探して、味方だって言ってくれる人がいて、こんな私にもまた……朝が来たから。だから私……もう少し頑張って生きてみようと思います」
「俺も高野も力を貸す。負けるなよ、絶対に」
 朝陽は静かに頷く。
「立てるか?由比」
 孝弘が差し出した手を、朝陽は少し躊躇ってから握る。
「はい……大丈夫です」
 孝弘に力強く引っ張られて立ち上がった朝陽は、両足に力を込めた。
「とりあえず、この路地から出ましょう」
 茜のその声を合図に、朝陽は一歩足を踏み出した。



「これからどうするか、どこかで朝ご飯食べながら作戦会議しましょうよ!私、今日仕事休みだし、岩佐さんも休みですよね?私お腹ペコペコですよー」
 孝弘と茜とともに朝陽は路地を出て、ちらほらと人が行き交う道を歩いていた。
 茜は朝陽と孝弘の少し前を歩きながら、お腹を手のひらで軽く叩いている。
「そう言われれば、確かに腹ペコだ。由比を探すのに必死で忘れてたな」
 孝弘が悪戯っぽい表情で朝陽に視線を向けてくる。
「……ごめん……なさい」
 肩をすぼめる朝陽を見て、孝弘がハハッと笑う。
「横領でお前が疑われてる時、助けてやれなくて悪かった」
「い、いえ……。助けに来てくれて……ありがとうございます」
 スーツのズボンのポケットに手を入れて歩いていた孝弘は、ポケットから右手を出すと朝陽の頭を軽くポンポンとする。
「そうだ朝陽さん、しばらくうちに泊まりません?というか、何なら一緒に住みません?私も一人暮らしだし、朝陽いたら楽しそう!私、最近寂しいんですよー!」
 茜が振り返り、朝陽に言ってくる。
「高野、寂しすぎてそろそろ犬飼いそうなんだとさ。飼うならどんな犬がいいかってここ最近ずっとうるさいんだ。何とかしてやってくれよ」
 孝弘が少しうんざりした顔をする。
「もしかして茜ちゃん、私を犬の代わりにしようとしてる?」
「嫌だなぁ、朝陽さん!そんなわけないじゃないですか!それに、朝陽さんは犬っていうより猫ですよ、猫!」
「何それ」
 朝陽はプッと吹き出した。


 
 また、朝が来た。少しずつ、街が賑わい始める。
 朝陽は、久しぶりに人の優しさというものに出会えた喜びと、胸の中に芽吹いた小さな希望、そして、それでも生きていくという決意を引き連れて、新しい一日が始まっていく気配の中を一歩一歩進んで行く。
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