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相談者・小早川ほなみ〜愛の形〜
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そよそよと風が流れるある日の15時を過ぎた頃、病院を出た小早川ほなみはふと立ち止まると、下唇を噛んだ。そうでもしないと、たちまち涙が溢れて止まらなくなってしまいそうだったからだ。
転んで膝を擦りむいた時、お母さんに怒られた時、徒競走で1位になれなかった時、友だちと喧嘩をした時――。
下唇を噛むのは、悲しくて涙が出そうになる時のほなみの小さい頃からの癖だった。
病院の前でほなみが涙を堪えていた時、不意にほなみのスマホが震えた。
肩にかけた白いバッグからスマホを取り出して画面を確認すると、潤也からの着信だった。
森川潤也は、ほなみが結婚を前提に交際している恋人だ。
「もしもし。どうしたの?潤也」
ほなみは努めて明るく電話に出た。
『ほなみ、今何してる?もし時間あるなら、これからご飯食べに行かないか?』
「あぁ……ごめん。私、何だか少し体調が悪くて……」
ほなみはほんの数秒考え、小さな嘘をついた。
『え、大丈夫か?』
「うん、大丈夫。でも今日は早めに寝ることにする」
『そっか……。仕方ないな。ほなみの体調が一番大事だから』
「ごめんね……潤也」
『何か買って行こうか?』
「ううん、大丈夫」
『わかった。じゃあ、ゆっくり休めよ。でも、何か困ったことがあったら遠慮しないですぐに呼んでくれよ?』
ほなみの心がギュッと音を立てた。
「ありがとう……。じゃあ、またね」
そう言ってほなみは電話を切った。
スマホを強く握りしめ、ほなみは空を見上げながら再び下唇を強く噛んだ。
なんだか真っ直ぐ帰る気にはなれなくて、ふらふらと寄り道をしながら家に帰ってきたときには、もうすっかり夜になっていた。
簡単に晩ご飯を済ませたほなみがお風呂から上がりスマホを確認すると、潤也からメッセージが来ていた。
『体調、大丈夫か?あまり無理するなよ』
そのメッセージを読んだほなみの頬を、そっと涙が伝う。
「優しいな……潤也は……」
そう呟いたほなみは『大丈夫、ありがとう』とだけ返信をして、どんどん沈んでいく暗い気持ちを断ち切るようにベッドに潜り込んだ。
「ここ……どこ?」
私は寝たはずではなかったか。ほなみはそう思ったが、今の自分はちゃんと服を着て、お気に入りのスニーカーを履き、突然どこかのT字路に立っていた。
辺りを見回してみても、今いる場所がどこなのかはよくわからなかった。
今何が起こっているのか、ほなみの理解は追いついていなかった。
混乱した頭のまま、ほなみは自分の目の前にある建物に目を向ける。小さな、洋風の三角屋根の家のようだった。よく見ると、玄関扉の横にある小さな磨りガラスの窓から、ほんのりと明かりが漏れている。
中に人がいるのだろうか?
ほなみは辺りにさっぱり人気がないことを確認し、目の前の家を訪ねてみることにした。
扉の前まで行ってみるが、いくら探しても呼び鈴がないようだったので、仕方なく扉をノックしてみることにした。
トン、トン。
ほなみが扉をノックする音が、辺りの静けさに溶けていく。
数秒あって、扉が開く気配があった。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから顔を出したのは、透き通るような肌の、とても端正な顔立ちの男性だった。
「いらっしゃいませ」
男性が優しい声で言う。
「あ、あの……こんばんは」
ほなみは挨拶をしてから、「あの、すみません……私、なぜか気づいたらここにいて……でも、ここがどこかわからなくて困ってて……」と事情を説明した。
「道に、迷われたのですね」
男性はそう言った。
「迷った……というかなんというか……」
「とにかくどうぞ、お入りください」
そう言って男性は、扉を大きく開いた。
ほなみは少し戸惑ったが、とりあえず入ってみることにした。
中は20畳ほどの広さで、内装もシックな洋風の造りだった。しかし部屋はひとつしかないようで、奥隅に小さな飾り棚がひとつあり、あとは部屋の真ん中に机がひとつと椅子が二脚あるだけだった。それでも、どこか小洒落た雰囲気の漂う空間だった。
「うわぁ……」
ほなみは思わず声を漏らしていた。
「小さくてほとんど何もないけど……でも凄く素敵……」
「ありがとうございます」
男性は微笑んだ。そして「どうぞ、お座りください」と部屋の真ん中にある椅子を少し引いた。
「あ、すみません……ありがとうございます」
ほなみは少し緊張しながら、引かれた椅子に腰掛けた。
ほなみが座ったことを確認すると、男性も机を挟んだ向かい側の椅子に座った。
「あの……ここは……?」
ほなみがキョロキョロしながら、男性に問いかける。
「ここは、ゆめなか相談所です」
「ゆめなか相談所?」
「はい」
「住所はどこでしょう?何でここにいるのか、本当にわからなくて……」
「住所はありません」
「ない……?」
「はい」
「え、あの、住所がないというのは一体どういう……」
「ここは、今あなたが見ている夢の中だからです」
「……うん?」
目の前の男性が何を言っているのか、ほなみは理解が出来なかった。
「あの……真面目に答えていただけますか?」
「真剣にお答えしています」
男性の目は、確かに真剣だった。
「ここはあなたの夢の中にある“ゆめなか相談所”で、私はこの相談所の相談員の黎明と申します」
「黎明さん……。あっ、すみません、私は小早川ほなみです」
「よろしくお願いいたします」
黎明と名乗った男性は、丁寧に頭を下げた。ほなみも慌てて頭を下げる。
「あの、黎明さん。私は真剣に聞いてます。真面目に答えてくれますか?」
ほなみは思い出したように話を戻す。
「ですから、私は先ほどから真面目にお答えしています。ここはあなたの夢の中にある相談所で、私はここの相談員です」
黎明は先ほどと同じことを繰り返す。
ほなみは黎明をまともに相手をするのを諦め、ため息を吐く。顔は良いが変な人だと、ほなみは思っていた。
「じゃあ、私は何でここにいるんですか?」
「それは恐らく、あなたに悩みや迷いがあるからです」
「悩み、ですか?」
黎明が黙って頷く。
「誰にも言えない悩みや迷いが、あなたにはあるのでは?」
そこでほなみは思わずどきりとした。
「誰にも言えない、言いづらい、ちゃんと言わなきゃいけないと思っている悩みや迷いがある方のところに、この相談所は現れます。あなたがここにいらっしゃったということは、そういうことかと」
「悩み……」
「あなたのお悩み、お聞かせ願えますか?」
綺麗に整った顔が、ほなみを見つめている。
誰にも言えずにいることがあるのは事実だった。しかし、どうして初対面のこの人にそのことを話さなければいけないのだろうとほなみは黎明を見ながら思っていた。
でも……。どうせずっと誰にも言えないなら、見ず知らずの、今日限りの出会いであろうこの人にくらいは全てを吐き出してみてもバチは当たらないのではないか、ほなみはそう思いはじめた。
「私には、恋人がいます。森川潤也と言います。とても……大切な人です」
ほなみは黎明の曙色の瞳を見つめたまま、話はじめた。
「彼はいつも明るくて優しくて真面目で、それに……子ども好きな人です。彼はいつも、結婚したら子どもはふたり欲しいと言っています。女の子と男の子をひとりずつが良いそうです。私もそんな彼との家庭を思い描いていました。でも数か月ほど前、私のその夢は崩れてしまったんです」
ほなみは小さく深呼吸をした。
「私は……子どもが産めない体だったんです」
黎明は途中で言葉を入れてくるわけでもなく、黙ってほなみの話を聞いていた。
「膝から崩れ落ちるほど絶望しました。愛する彼の夢を私は叶えてあげられないんだと知って、涙が止まりませんでした。毎日毎日、涙が枯れ果てるまで泣きました。今でも彼の顔を見るたびに、彼の声を聞くたびに、罪悪感が押し寄せてきて涙が出そうになります。でも……どうしても言い出せないんです。このことを彼に言ったらきっと彼は悲しんで、こんな私に絶望して、私の元を去って行ってしまう……。そんなの……耐えられなくて……」
ほなみは両手で顔を覆って泣き出した。
「大好きだから……愛してるから……彼を……。離れたくないんです……」
ほなみは泣き続ける。黎明はそっとハンカチを差し出す。
「すみません……」
黎明が差し出したハンカチを受け取り、ほなみは目元にあてる。
「病気のことをずっと隠して彼といることがズルいということはわかっています……わかっているんですけど……」
「小早川さん」
ずっと黙ってほなみの話を聞いていた黎明の口が動く。
「誰かをそんなに愛せるのは、とても素敵なことですね」
ほなみは黙って鼻をすすっている。
「こうするべき、ああするべき、ということは、私が言うことではありません。最終的にどうするかを決めるのはあなたですから」
黎明の声は落ち着いていた。
「ですので私からは、参考程度のお話だけ」
そう言って黎明は、机の上で両手を組んだ。
「愛には、たくさんの形があるということをご存じでしょうか?」
「愛……?」
「そうです。もしもあなたの恋人の森川さんが壁にぶつかったとして、小早川さんが手を差し伸べるとしても、森川さんを信じて何も言わずに静かに見守ることも、どちらも愛です。ですから、あなたが森川さんとずっと一緒にいたいと願うことも、森川さんの夢を叶えてあげたいと思うことも、森川さんを悲しませたくないと思うことも愛ですし……もし仮に、愛しているからこそ相手の幸せを願って身を引くことを選んだとしても、そのどれもすべてが“愛”と名のつくものなのです。誰かを大切に思って生まれる気持ちなら、形は違えど立派な愛です」
ほなみはまだズビズビと鼻をすすりながら涙の溜まった目で黎明を見つめている。
「あなたが森川さんに対してどんな愛の形を選ぶかは、あなた次第です」
「愛の形……」
ほなみが小さく呟く。
「そしてもうひとつ。これは私からの忠告ですが」
黎明が右手の人差し指を顔の横で立てる。
「時に愛とは非常に厄介で、愛の形によっては言葉にしないと知らず知らずにすれ違ってしまうこともありますから、その点はお気をつけて」
黎明が優しく微笑んだ。
ハンカチを握りしめてしばらく黙っていたほなみは、泣き腫らした目を黎明に向けた。
「私……話してみようかな……潤也に」
ほなみはさらにギュッとハンカチを握った。
そんなほなみを見て、黎明はフッと口の端を上げる。
「あなたはもう心配ないようです。朝も近づいてきています」
そう言われ辺りを見回すと、玄関の横の磨りガラスや天窓から、夜明けの白みがかった光が射し込んできていた。
「えっ、もうこんな時間!?私、帰らなきゃ!」
「大丈夫ですよ、すぐに帰れますから」
「あっ、ハンカチ!洗ってお返しします」
ほなみは涙で濡れたハンカチを見つめる。
「ハンカチのことはお気になさらず」
「え?でも……」
「さあ、お目覚めの時間です」
黎明はパチンと指を鳴らした。
「なんか……凄くリアルな夢だったな……」
朝7時。起き抜けにほなみは、今まで見た夢を思い出していた。
「愛の形……か」
そう呟いたほなみは、少し考えてからベッド脇のテーブルの上に置いていたスマホを取る。連絡先から探すのは、潤也の電話番号だ。
数回のコールのあと、聞き慣れた潤也の声が耳に優しく流れてきた。
『おはよう、ほなみ。朝からどうしたんだ?もしかして……体調悪いのか?』
「おはよう。こんな朝早くにごめんね。体調は大丈夫なんだけど……今日の夜、仕事終わりに会えるかな?」
『会えるけど、どうしたんだよ。何か暗くないか?』
「うん……ちょっと、話が……あるんだ」
20時過ぎ、レストランで食事を済ませたふたりは近くの公園のベンチにいた。
「あのさ……それで、話って何?ずっと気になってるんだけど……」
「うん……」
「もしかして……別れ話、じゃないよな?」
潤也が泣きそうな顔でほなみを見つめてくる。
ほなみは大きく深呼吸をしてから、潤也を見つめ返す。
「あのね……私……実は、子ども産めない体なの……」
えっ、という小さな声が聞こえた。
「病気だったの……。ずっと黙ってて……ごめん……。言えなかったの……潤也に……嫌われたくなくて……」
泣かないと決めたのに、ほなみの声は少しずつ震えてくる。
「私……大好きなんだよ……潤也のことが……。だから……将来子どもが欲しいっていう潤也の夢……私じゃ叶えられないってわかったとき……凄く辛くて……」
次第に涙が溢れる。
「色んなこと考えた……。潤也とのこと……色々……」
「ほなみ……」
「でもね……私やっぱり、潤也には幸せになってほしいの……。素敵なお父さんに……なってほしい……」
潤也は黙っている。
「だから……だから……」
ほなみはもう一度深呼吸をした。
「潤也……私と別れて……」
その瞬間、潤也の目が大きく見開かれた。
夜の公園は静かで、風の音とほなみのすすり泣く音が聞こえるだけだった。
「ほなみ」
しばらくの沈黙のあと、静寂を破ったのは潤也だった。
「話してくれて、ありがとう。病気のこと、今までずっとひとりで抱えて辛かったよな」
潤也はほなみの背中に手を当て、そっとさする。
「俺、別れないよ」
「……え?」
「別れないよ。別れるわけないじゃん、こんなにほなみのことが好きなのに。確かに将来、俺とほなみの間に子どもが産まれないのは残念だけど、ほなみを手離すなんて俺には出来ない。俺のこれから先の人生には、絶対にほなみがいてほしいから。俺はほなみといたいんだよ」
潤也は泣きそうな顔で微笑んだ。
「潤也……」
「ほなみ」
潤也優しくほなみの名前を呼ぶと、そっとほなみを抱き寄せた。
月の綺麗な夜、いくつかの星がキラキラと瞬いていた。
転んで膝を擦りむいた時、お母さんに怒られた時、徒競走で1位になれなかった時、友だちと喧嘩をした時――。
下唇を噛むのは、悲しくて涙が出そうになる時のほなみの小さい頃からの癖だった。
病院の前でほなみが涙を堪えていた時、不意にほなみのスマホが震えた。
肩にかけた白いバッグからスマホを取り出して画面を確認すると、潤也からの着信だった。
森川潤也は、ほなみが結婚を前提に交際している恋人だ。
「もしもし。どうしたの?潤也」
ほなみは努めて明るく電話に出た。
『ほなみ、今何してる?もし時間あるなら、これからご飯食べに行かないか?』
「あぁ……ごめん。私、何だか少し体調が悪くて……」
ほなみはほんの数秒考え、小さな嘘をついた。
『え、大丈夫か?』
「うん、大丈夫。でも今日は早めに寝ることにする」
『そっか……。仕方ないな。ほなみの体調が一番大事だから』
「ごめんね……潤也」
『何か買って行こうか?』
「ううん、大丈夫」
『わかった。じゃあ、ゆっくり休めよ。でも、何か困ったことがあったら遠慮しないですぐに呼んでくれよ?』
ほなみの心がギュッと音を立てた。
「ありがとう……。じゃあ、またね」
そう言ってほなみは電話を切った。
スマホを強く握りしめ、ほなみは空を見上げながら再び下唇を強く噛んだ。
なんだか真っ直ぐ帰る気にはなれなくて、ふらふらと寄り道をしながら家に帰ってきたときには、もうすっかり夜になっていた。
簡単に晩ご飯を済ませたほなみがお風呂から上がりスマホを確認すると、潤也からメッセージが来ていた。
『体調、大丈夫か?あまり無理するなよ』
そのメッセージを読んだほなみの頬を、そっと涙が伝う。
「優しいな……潤也は……」
そう呟いたほなみは『大丈夫、ありがとう』とだけ返信をして、どんどん沈んでいく暗い気持ちを断ち切るようにベッドに潜り込んだ。
「ここ……どこ?」
私は寝たはずではなかったか。ほなみはそう思ったが、今の自分はちゃんと服を着て、お気に入りのスニーカーを履き、突然どこかのT字路に立っていた。
辺りを見回してみても、今いる場所がどこなのかはよくわからなかった。
今何が起こっているのか、ほなみの理解は追いついていなかった。
混乱した頭のまま、ほなみは自分の目の前にある建物に目を向ける。小さな、洋風の三角屋根の家のようだった。よく見ると、玄関扉の横にある小さな磨りガラスの窓から、ほんのりと明かりが漏れている。
中に人がいるのだろうか?
ほなみは辺りにさっぱり人気がないことを確認し、目の前の家を訪ねてみることにした。
扉の前まで行ってみるが、いくら探しても呼び鈴がないようだったので、仕方なく扉をノックしてみることにした。
トン、トン。
ほなみが扉をノックする音が、辺りの静けさに溶けていく。
数秒あって、扉が開く気配があった。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから顔を出したのは、透き通るような肌の、とても端正な顔立ちの男性だった。
「いらっしゃいませ」
男性が優しい声で言う。
「あ、あの……こんばんは」
ほなみは挨拶をしてから、「あの、すみません……私、なぜか気づいたらここにいて……でも、ここがどこかわからなくて困ってて……」と事情を説明した。
「道に、迷われたのですね」
男性はそう言った。
「迷った……というかなんというか……」
「とにかくどうぞ、お入りください」
そう言って男性は、扉を大きく開いた。
ほなみは少し戸惑ったが、とりあえず入ってみることにした。
中は20畳ほどの広さで、内装もシックな洋風の造りだった。しかし部屋はひとつしかないようで、奥隅に小さな飾り棚がひとつあり、あとは部屋の真ん中に机がひとつと椅子が二脚あるだけだった。それでも、どこか小洒落た雰囲気の漂う空間だった。
「うわぁ……」
ほなみは思わず声を漏らしていた。
「小さくてほとんど何もないけど……でも凄く素敵……」
「ありがとうございます」
男性は微笑んだ。そして「どうぞ、お座りください」と部屋の真ん中にある椅子を少し引いた。
「あ、すみません……ありがとうございます」
ほなみは少し緊張しながら、引かれた椅子に腰掛けた。
ほなみが座ったことを確認すると、男性も机を挟んだ向かい側の椅子に座った。
「あの……ここは……?」
ほなみがキョロキョロしながら、男性に問いかける。
「ここは、ゆめなか相談所です」
「ゆめなか相談所?」
「はい」
「住所はどこでしょう?何でここにいるのか、本当にわからなくて……」
「住所はありません」
「ない……?」
「はい」
「え、あの、住所がないというのは一体どういう……」
「ここは、今あなたが見ている夢の中だからです」
「……うん?」
目の前の男性が何を言っているのか、ほなみは理解が出来なかった。
「あの……真面目に答えていただけますか?」
「真剣にお答えしています」
男性の目は、確かに真剣だった。
「ここはあなたの夢の中にある“ゆめなか相談所”で、私はこの相談所の相談員の黎明と申します」
「黎明さん……。あっ、すみません、私は小早川ほなみです」
「よろしくお願いいたします」
黎明と名乗った男性は、丁寧に頭を下げた。ほなみも慌てて頭を下げる。
「あの、黎明さん。私は真剣に聞いてます。真面目に答えてくれますか?」
ほなみは思い出したように話を戻す。
「ですから、私は先ほどから真面目にお答えしています。ここはあなたの夢の中にある相談所で、私はここの相談員です」
黎明は先ほどと同じことを繰り返す。
ほなみは黎明をまともに相手をするのを諦め、ため息を吐く。顔は良いが変な人だと、ほなみは思っていた。
「じゃあ、私は何でここにいるんですか?」
「それは恐らく、あなたに悩みや迷いがあるからです」
「悩み、ですか?」
黎明が黙って頷く。
「誰にも言えない悩みや迷いが、あなたにはあるのでは?」
そこでほなみは思わずどきりとした。
「誰にも言えない、言いづらい、ちゃんと言わなきゃいけないと思っている悩みや迷いがある方のところに、この相談所は現れます。あなたがここにいらっしゃったということは、そういうことかと」
「悩み……」
「あなたのお悩み、お聞かせ願えますか?」
綺麗に整った顔が、ほなみを見つめている。
誰にも言えずにいることがあるのは事実だった。しかし、どうして初対面のこの人にそのことを話さなければいけないのだろうとほなみは黎明を見ながら思っていた。
でも……。どうせずっと誰にも言えないなら、見ず知らずの、今日限りの出会いであろうこの人にくらいは全てを吐き出してみてもバチは当たらないのではないか、ほなみはそう思いはじめた。
「私には、恋人がいます。森川潤也と言います。とても……大切な人です」
ほなみは黎明の曙色の瞳を見つめたまま、話はじめた。
「彼はいつも明るくて優しくて真面目で、それに……子ども好きな人です。彼はいつも、結婚したら子どもはふたり欲しいと言っています。女の子と男の子をひとりずつが良いそうです。私もそんな彼との家庭を思い描いていました。でも数か月ほど前、私のその夢は崩れてしまったんです」
ほなみは小さく深呼吸をした。
「私は……子どもが産めない体だったんです」
黎明は途中で言葉を入れてくるわけでもなく、黙ってほなみの話を聞いていた。
「膝から崩れ落ちるほど絶望しました。愛する彼の夢を私は叶えてあげられないんだと知って、涙が止まりませんでした。毎日毎日、涙が枯れ果てるまで泣きました。今でも彼の顔を見るたびに、彼の声を聞くたびに、罪悪感が押し寄せてきて涙が出そうになります。でも……どうしても言い出せないんです。このことを彼に言ったらきっと彼は悲しんで、こんな私に絶望して、私の元を去って行ってしまう……。そんなの……耐えられなくて……」
ほなみは両手で顔を覆って泣き出した。
「大好きだから……愛してるから……彼を……。離れたくないんです……」
ほなみは泣き続ける。黎明はそっとハンカチを差し出す。
「すみません……」
黎明が差し出したハンカチを受け取り、ほなみは目元にあてる。
「病気のことをずっと隠して彼といることがズルいということはわかっています……わかっているんですけど……」
「小早川さん」
ずっと黙ってほなみの話を聞いていた黎明の口が動く。
「誰かをそんなに愛せるのは、とても素敵なことですね」
ほなみは黙って鼻をすすっている。
「こうするべき、ああするべき、ということは、私が言うことではありません。最終的にどうするかを決めるのはあなたですから」
黎明の声は落ち着いていた。
「ですので私からは、参考程度のお話だけ」
そう言って黎明は、机の上で両手を組んだ。
「愛には、たくさんの形があるということをご存じでしょうか?」
「愛……?」
「そうです。もしもあなたの恋人の森川さんが壁にぶつかったとして、小早川さんが手を差し伸べるとしても、森川さんを信じて何も言わずに静かに見守ることも、どちらも愛です。ですから、あなたが森川さんとずっと一緒にいたいと願うことも、森川さんの夢を叶えてあげたいと思うことも、森川さんを悲しませたくないと思うことも愛ですし……もし仮に、愛しているからこそ相手の幸せを願って身を引くことを選んだとしても、そのどれもすべてが“愛”と名のつくものなのです。誰かを大切に思って生まれる気持ちなら、形は違えど立派な愛です」
ほなみはまだズビズビと鼻をすすりながら涙の溜まった目で黎明を見つめている。
「あなたが森川さんに対してどんな愛の形を選ぶかは、あなた次第です」
「愛の形……」
ほなみが小さく呟く。
「そしてもうひとつ。これは私からの忠告ですが」
黎明が右手の人差し指を顔の横で立てる。
「時に愛とは非常に厄介で、愛の形によっては言葉にしないと知らず知らずにすれ違ってしまうこともありますから、その点はお気をつけて」
黎明が優しく微笑んだ。
ハンカチを握りしめてしばらく黙っていたほなみは、泣き腫らした目を黎明に向けた。
「私……話してみようかな……潤也に」
ほなみはさらにギュッとハンカチを握った。
そんなほなみを見て、黎明はフッと口の端を上げる。
「あなたはもう心配ないようです。朝も近づいてきています」
そう言われ辺りを見回すと、玄関の横の磨りガラスや天窓から、夜明けの白みがかった光が射し込んできていた。
「えっ、もうこんな時間!?私、帰らなきゃ!」
「大丈夫ですよ、すぐに帰れますから」
「あっ、ハンカチ!洗ってお返しします」
ほなみは涙で濡れたハンカチを見つめる。
「ハンカチのことはお気になさらず」
「え?でも……」
「さあ、お目覚めの時間です」
黎明はパチンと指を鳴らした。
「なんか……凄くリアルな夢だったな……」
朝7時。起き抜けにほなみは、今まで見た夢を思い出していた。
「愛の形……か」
そう呟いたほなみは、少し考えてからベッド脇のテーブルの上に置いていたスマホを取る。連絡先から探すのは、潤也の電話番号だ。
数回のコールのあと、聞き慣れた潤也の声が耳に優しく流れてきた。
『おはよう、ほなみ。朝からどうしたんだ?もしかして……体調悪いのか?』
「おはよう。こんな朝早くにごめんね。体調は大丈夫なんだけど……今日の夜、仕事終わりに会えるかな?」
『会えるけど、どうしたんだよ。何か暗くないか?』
「うん……ちょっと、話が……あるんだ」
20時過ぎ、レストランで食事を済ませたふたりは近くの公園のベンチにいた。
「あのさ……それで、話って何?ずっと気になってるんだけど……」
「うん……」
「もしかして……別れ話、じゃないよな?」
潤也が泣きそうな顔でほなみを見つめてくる。
ほなみは大きく深呼吸をしてから、潤也を見つめ返す。
「あのね……私……実は、子ども産めない体なの……」
えっ、という小さな声が聞こえた。
「病気だったの……。ずっと黙ってて……ごめん……。言えなかったの……潤也に……嫌われたくなくて……」
泣かないと決めたのに、ほなみの声は少しずつ震えてくる。
「私……大好きなんだよ……潤也のことが……。だから……将来子どもが欲しいっていう潤也の夢……私じゃ叶えられないってわかったとき……凄く辛くて……」
次第に涙が溢れる。
「色んなこと考えた……。潤也とのこと……色々……」
「ほなみ……」
「でもね……私やっぱり、潤也には幸せになってほしいの……。素敵なお父さんに……なってほしい……」
潤也は黙っている。
「だから……だから……」
ほなみはもう一度深呼吸をした。
「潤也……私と別れて……」
その瞬間、潤也の目が大きく見開かれた。
夜の公園は静かで、風の音とほなみのすすり泣く音が聞こえるだけだった。
「ほなみ」
しばらくの沈黙のあと、静寂を破ったのは潤也だった。
「話してくれて、ありがとう。病気のこと、今までずっとひとりで抱えて辛かったよな」
潤也はほなみの背中に手を当て、そっとさする。
「俺、別れないよ」
「……え?」
「別れないよ。別れるわけないじゃん、こんなにほなみのことが好きなのに。確かに将来、俺とほなみの間に子どもが産まれないのは残念だけど、ほなみを手離すなんて俺には出来ない。俺のこれから先の人生には、絶対にほなみがいてほしいから。俺はほなみといたいんだよ」
潤也は泣きそうな顔で微笑んだ。
「潤也……」
「ほなみ」
潤也優しくほなみの名前を呼ぶと、そっとほなみを抱き寄せた。
月の綺麗な夜、いくつかの星がキラキラと瞬いていた。
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