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夏休みが終わり、学校が始まっても残暑は容赦なく襲ってくる。そんな学校の帰り道、私は祖母の家へ行くため坂道を登っていた。祖母の家は自宅とは逆の方向だが、小学校からは近かったからだ。
――祖母の家へ行く
母がそう言ってからすでに三日。帰ってこない母が気になり、私は意を決して『来るな』と言われていた祖母の家へと赴くことにした。いつも裏口から入るため、いつもどおり裏口を開けて中へ入る。
「――見るの……」
「多分――」
家に入るといつも私が祖母の家に泊まりに行った時に寝る部屋から母と祖母の声が聞こえてきた。久しぶりに聞いた母の声に安堵し、私は部屋の襖を開け放つ。
「ただいま、お母さん、ばあちゃん! まだ帰って来れ――」
布団に入って上半身を起こしている母を見て絶句する。これが、母か? と、言いたくなるほどやせ細り、生気の無い目をし、髪はぼさぼさになっていたからだ。そんな私を見て祖母がにこりと微笑みながら声をかけてくれた。
「お帰り、涼君。お母さんはちょっと具合が悪くてねぇ。もうすぐ帰れるようになるから」
「ごめんね涼太。ちゃんとご飯食べてる?」
頼りない儚げな笑顔で俺の頭を撫でてくれるが、たった三日離れていただけとは考えられないくらい弱々しかった。手を握ると、残暑が厳しいのにとても冷たい。
「……大丈夫?」
「ふふ、大丈夫よ。もう少ししたら元気になるから」
本当だろうか……そう訝しむほど変わり果てていた。しかし私にはどうすることもできず、話しかけるのが精一杯だった。話さないと死んでしまうのではないかという錯覚に襲われていたのだ。学校でこんなことがあったとか、友達がどうだったとか、他愛ない話をしていると、いつの間にか夜になっていた。
「今日は泊まって行きなさい。お父さんには連絡しておくから」
明日は学校が休みでそれを狙ってきたこともあり、私は素直に頷く。だが、夕食の時に私は驚愕することになる。
「魚の煮つけは久しぶりだなあ、ばあちゃんの煮つけは美味しいから好き!」
「たくさんお食べ。育子は……いつものかい?」
「……うん」
「?」
深刻な顔をする祖母に俯きながら答える母。そして祖母が持ってきたものは、成人男性でも中々使わない丼。母のおかずは味噌汁、漬物とシンプルなものだったが、丼の中にあるご飯が山盛りで、それだけでお腹いっぱいどころか吐き気を催すかもしれないという量が入っていた。
「いただきます」
「え!?」
あろうことか、それをあっという間にたいらげる母。ついで二杯目をお茶漬けにして食べ、三杯目でようやくストップする。母は通常、茶碗一杯で限界が来る。それが丼飯を三杯も食べたのだ、驚愕する理由としては妥当だと思う。
「は、はは……お母さん、食べ過ぎじゃない?」
「……お腹がね、空くのよ。食べても食べても満腹にならないし、いくら食べても太らないどころか日に日に痩せていくの」
ゴクリ、と無意識に喉が鳴らす私。
「はい、お茶だよ。大丈夫、大丈夫だからね」
「う、うん……」
優しい顔で祖母は麦茶を出してくれ、今日は祖母と一緒に寝ようと言う。母を一人にしておけないと私は言うが、祖母は首を縦に振ってくれなかった。少しばかり談笑をしていると、私はすぐに眠くなり床につく――
「……おしっこ……」
布団に入ってからどれくらい経っただろうか? 私はお手洗いへ行くため目を覚まし立ち上がると、ふと横を見てに祖母が寝ていないことに気付く。祖母もお手洗いだろうか、と寝ぼけ眼でトイレへ行こうと部屋を出ると、母の寝ている部屋から灯りが漏れているのを発見した。
「(お母さん、まだ起きているのかな? やっぱ気になるし、トイレ行ったら一緒に寝ようかな)」
そんなことを考えながら部屋を通り過ぎようとした時、祖母の声が聞こえてきた。
「南無妙法蓮華経……お前は誰ぞ……どうしてここにいる……お前は誰ぞ……南無妙法蓮華経……」
じゃらじゃらと数珠をを鳴らしながらいつもと違う声で語りかけるように経を唱える声が聞こえ、私は背中がブルリと震える。しかし、子供ゆえの怖いもの見たさで襖をそっと開けて中を覗くと――
『あ、あ、あ、あ……お、俺は……俺は大日本帝国……軍……人……腹が減った……腹が減った……』
「軍人がどうしてこの子に憑いてきた……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……今すぐそこから出て行け……はぁ……南無妙法蓮華経」
『腹が減ったぁ……死んだ……みんな腹をすかして死んだぁ……米が食べたい……粥でもいい……米が食いたい……』
「(……!!)」
私は目を見開き、目の前の光景に釘付けになる。だらんと頭と腕を下げている母の表情は伺えないが、母から発せられる声は、まぎれもなく男性の声だったからだ。それに軍人、と聞いて私はハッとなった。あの時、あのベランダで見た影は軍帽だった気がしたからだ。
『食いたい……お腹いっぱい食いたい……』
母がしくしくと泣きながら男性の声で食わせろとポツリポツリと呟く。
「食べたら出て行くか? そこから出て行くなら食わせてやる……南無妙法蓮華経……」
『食べたい……食べたい……』
「出て行くか……出て行くか! 南無妙法蓮華経……」
「う、うぐぐ……く、苦しい……食べたい……』
経と祖母の問いかけが効いているのか、母と男性の声が混じった呻き声が聞こえ頭を振りながら畳をバンバン叩く。一瞬見えた表情は「鬼」と言っても過言ではないほど、変わり果てていた。
「南無妙法蓮華経……出て行くか……出て行くなら食べさせてやる……南無妙法蓮華経」
『食べる……出て行く……』
「ならこれを食べろ。お前はもう死んだ、これは供養じゃ……南無妙法蓮華経」
『……』
母は何も言わず、差し出された白米に口につけると、涙を流しながら一心不乱に箸を動かし続ける。二杯、三杯と祖母がおひつから白米をおかわりしていると、その内、急に祖母が母の肩を掴んで奇声を上げた。
「そこから出て成仏せい! 南無妙法蓮華経!」
ガクンガクンと数珠を肩に何度も叩きつけながら叫ぶ祖母も、いつもの優しい顔とは全く違い戦慄する私。それから程なくして、糸が切れた様に母ががくんと布団に横たわった。それを見て私は慌てて部屋に入る。
「お母さん!?」
「涼君、お母さんはもう大丈夫だよ。もう、憑いていたものは帰ってこない」
呼吸はしているが目を覚まさない母を見て泣いていた私の頭を撫でながら祖母がそう言い、私は思い出したようにトイレへ行ってからそのまま母の布団で寝着いたのだった。
そして――
「それじゃあ帰るわね。お母さんありがとう、ごめんなさい」
「いいんよ。涼君もまた来てな」
「うん! ばあちゃんありがとう!」
あの恐ろしい日からたった一日で母は何事もなかったかのように元気になり、家へ戻れるようになった。そして秋が到来し、冬となり正月を迎える。
その後、私が成長して当時の話を聞いた時、こんなことを祖母が言っていた。
「お母さんはお墓参りの時に『目があった』んだろうねえ。それで憑いて来たみたい。お母さんがご飯を食べても軍人さんのお腹には溜まらないから、欲求がいつまでたっても満たせなかった。それを気付かせてあげてからご飯をあげたんだよ」
いわゆる「お供えもの」という認識のようだった。死んだと認識させてから払うことで、母の体から抜け出た、というものらしい。成仏したのかどうかは祖母にはわからないそうだ。
それから母は元に戻り、いつもの日常を取り戻すことになったのだ。
これが私が体験した夏の出来事。『もう帰ってこない』のは無事に成仏をしたのだと思いたいものである。
母方の家系はそういうものが『視える』ようで、私もとあるバス停近くの車中泊で、深夜にバス停に座る白いお爺さんを見たことがあるが、それはまた別のお話――
---------------------------------------------------
というわけで、フィクションと実話の融合話はこれにて終幕。
ちなみに実話部分は母が憑かれたことから祖母に払われるまで全てで、フィクションは家族構成や喋り方、それと憑かれていた期間です。話中では一週間程度で終わっていますが、実際は半年以上かかっています。
あの男性の呻き声が母の口から出ていたのは今でも忘れられない思い出です……また、話中で「見るの」と母が言ったのは「軍人さんが手招きする夢」だったそうです。
如何だったでしょうか? 信じる信じないは人の自由……でも、入り口はすぐそばに……
――祖母の家へ行く
母がそう言ってからすでに三日。帰ってこない母が気になり、私は意を決して『来るな』と言われていた祖母の家へと赴くことにした。いつも裏口から入るため、いつもどおり裏口を開けて中へ入る。
「――見るの……」
「多分――」
家に入るといつも私が祖母の家に泊まりに行った時に寝る部屋から母と祖母の声が聞こえてきた。久しぶりに聞いた母の声に安堵し、私は部屋の襖を開け放つ。
「ただいま、お母さん、ばあちゃん! まだ帰って来れ――」
布団に入って上半身を起こしている母を見て絶句する。これが、母か? と、言いたくなるほどやせ細り、生気の無い目をし、髪はぼさぼさになっていたからだ。そんな私を見て祖母がにこりと微笑みながら声をかけてくれた。
「お帰り、涼君。お母さんはちょっと具合が悪くてねぇ。もうすぐ帰れるようになるから」
「ごめんね涼太。ちゃんとご飯食べてる?」
頼りない儚げな笑顔で俺の頭を撫でてくれるが、たった三日離れていただけとは考えられないくらい弱々しかった。手を握ると、残暑が厳しいのにとても冷たい。
「……大丈夫?」
「ふふ、大丈夫よ。もう少ししたら元気になるから」
本当だろうか……そう訝しむほど変わり果てていた。しかし私にはどうすることもできず、話しかけるのが精一杯だった。話さないと死んでしまうのではないかという錯覚に襲われていたのだ。学校でこんなことがあったとか、友達がどうだったとか、他愛ない話をしていると、いつの間にか夜になっていた。
「今日は泊まって行きなさい。お父さんには連絡しておくから」
明日は学校が休みでそれを狙ってきたこともあり、私は素直に頷く。だが、夕食の時に私は驚愕することになる。
「魚の煮つけは久しぶりだなあ、ばあちゃんの煮つけは美味しいから好き!」
「たくさんお食べ。育子は……いつものかい?」
「……うん」
「?」
深刻な顔をする祖母に俯きながら答える母。そして祖母が持ってきたものは、成人男性でも中々使わない丼。母のおかずは味噌汁、漬物とシンプルなものだったが、丼の中にあるご飯が山盛りで、それだけでお腹いっぱいどころか吐き気を催すかもしれないという量が入っていた。
「いただきます」
「え!?」
あろうことか、それをあっという間にたいらげる母。ついで二杯目をお茶漬けにして食べ、三杯目でようやくストップする。母は通常、茶碗一杯で限界が来る。それが丼飯を三杯も食べたのだ、驚愕する理由としては妥当だと思う。
「は、はは……お母さん、食べ過ぎじゃない?」
「……お腹がね、空くのよ。食べても食べても満腹にならないし、いくら食べても太らないどころか日に日に痩せていくの」
ゴクリ、と無意識に喉が鳴らす私。
「はい、お茶だよ。大丈夫、大丈夫だからね」
「う、うん……」
優しい顔で祖母は麦茶を出してくれ、今日は祖母と一緒に寝ようと言う。母を一人にしておけないと私は言うが、祖母は首を縦に振ってくれなかった。少しばかり談笑をしていると、私はすぐに眠くなり床につく――
「……おしっこ……」
布団に入ってからどれくらい経っただろうか? 私はお手洗いへ行くため目を覚まし立ち上がると、ふと横を見てに祖母が寝ていないことに気付く。祖母もお手洗いだろうか、と寝ぼけ眼でトイレへ行こうと部屋を出ると、母の寝ている部屋から灯りが漏れているのを発見した。
「(お母さん、まだ起きているのかな? やっぱ気になるし、トイレ行ったら一緒に寝ようかな)」
そんなことを考えながら部屋を通り過ぎようとした時、祖母の声が聞こえてきた。
「南無妙法蓮華経……お前は誰ぞ……どうしてここにいる……お前は誰ぞ……南無妙法蓮華経……」
じゃらじゃらと数珠をを鳴らしながらいつもと違う声で語りかけるように経を唱える声が聞こえ、私は背中がブルリと震える。しかし、子供ゆえの怖いもの見たさで襖をそっと開けて中を覗くと――
『あ、あ、あ、あ……お、俺は……俺は大日本帝国……軍……人……腹が減った……腹が減った……』
「軍人がどうしてこの子に憑いてきた……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……今すぐそこから出て行け……はぁ……南無妙法蓮華経」
『腹が減ったぁ……死んだ……みんな腹をすかして死んだぁ……米が食べたい……粥でもいい……米が食いたい……』
「(……!!)」
私は目を見開き、目の前の光景に釘付けになる。だらんと頭と腕を下げている母の表情は伺えないが、母から発せられる声は、まぎれもなく男性の声だったからだ。それに軍人、と聞いて私はハッとなった。あの時、あのベランダで見た影は軍帽だった気がしたからだ。
『食いたい……お腹いっぱい食いたい……』
母がしくしくと泣きながら男性の声で食わせろとポツリポツリと呟く。
「食べたら出て行くか? そこから出て行くなら食わせてやる……南無妙法蓮華経……」
『食べたい……食べたい……』
「出て行くか……出て行くか! 南無妙法蓮華経……」
「う、うぐぐ……く、苦しい……食べたい……』
経と祖母の問いかけが効いているのか、母と男性の声が混じった呻き声が聞こえ頭を振りながら畳をバンバン叩く。一瞬見えた表情は「鬼」と言っても過言ではないほど、変わり果てていた。
「南無妙法蓮華経……出て行くか……出て行くなら食べさせてやる……南無妙法蓮華経」
『食べる……出て行く……』
「ならこれを食べろ。お前はもう死んだ、これは供養じゃ……南無妙法蓮華経」
『……』
母は何も言わず、差し出された白米に口につけると、涙を流しながら一心不乱に箸を動かし続ける。二杯、三杯と祖母がおひつから白米をおかわりしていると、その内、急に祖母が母の肩を掴んで奇声を上げた。
「そこから出て成仏せい! 南無妙法蓮華経!」
ガクンガクンと数珠を肩に何度も叩きつけながら叫ぶ祖母も、いつもの優しい顔とは全く違い戦慄する私。それから程なくして、糸が切れた様に母ががくんと布団に横たわった。それを見て私は慌てて部屋に入る。
「お母さん!?」
「涼君、お母さんはもう大丈夫だよ。もう、憑いていたものは帰ってこない」
呼吸はしているが目を覚まさない母を見て泣いていた私の頭を撫でながら祖母がそう言い、私は思い出したようにトイレへ行ってからそのまま母の布団で寝着いたのだった。
そして――
「それじゃあ帰るわね。お母さんありがとう、ごめんなさい」
「いいんよ。涼君もまた来てな」
「うん! ばあちゃんありがとう!」
あの恐ろしい日からたった一日で母は何事もなかったかのように元気になり、家へ戻れるようになった。そして秋が到来し、冬となり正月を迎える。
その後、私が成長して当時の話を聞いた時、こんなことを祖母が言っていた。
「お母さんはお墓参りの時に『目があった』んだろうねえ。それで憑いて来たみたい。お母さんがご飯を食べても軍人さんのお腹には溜まらないから、欲求がいつまでたっても満たせなかった。それを気付かせてあげてからご飯をあげたんだよ」
いわゆる「お供えもの」という認識のようだった。死んだと認識させてから払うことで、母の体から抜け出た、というものらしい。成仏したのかどうかは祖母にはわからないそうだ。
それから母は元に戻り、いつもの日常を取り戻すことになったのだ。
これが私が体験した夏の出来事。『もう帰ってこない』のは無事に成仏をしたのだと思いたいものである。
母方の家系はそういうものが『視える』ようで、私もとあるバス停近くの車中泊で、深夜にバス停に座る白いお爺さんを見たことがあるが、それはまた別のお話――
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というわけで、フィクションと実話の融合話はこれにて終幕。
ちなみに実話部分は母が憑かれたことから祖母に払われるまで全てで、フィクションは家族構成や喋り方、それと憑かれていた期間です。話中では一週間程度で終わっていますが、実際は半年以上かかっています。
あの男性の呻き声が母の口から出ていたのは今でも忘れられない思い出です……また、話中で「見るの」と母が言ったのは「軍人さんが手招きする夢」だったそうです。
如何だったでしょうか? 信じる信じないは人の自由……でも、入り口はすぐそばに……
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